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間章2 辺境伯の通行証

 領主の封書は、朝一番に開かれた。


 エルデン領主庁の執務室は、グラントール送魔局の小会議室より静かだった。

 窓の外には南水門の水面が見える。朝の光を受けて、三本の水路が鈍く光っていた。遠くには市場北口の布屋根、さらにその向こうには工房街の煙が細く上がっている。


 アルドリック・エルデン辺境伯は、執務机の前に立ったまま、ガルト・リーヴェルの封書を読んでいた。


 机の上には、すでにいくつもの紙が並べられている。


 外周送魔環暫定調査図。

 材料札一覧。

 職人組合仮承認控え。

 測瘴症状票試験運用控え。

 市場北口現場札写し。

 南水門・水門庭園原台帳照合控え。


 紙は多い。

 だが、本文は短かった。


 アルドリックは封書の本文をもう一度読んだ。


 外周送魔環暫定調査を進めるには、南外縁一帯の資材通行、職人二班、主線用蒼銅()線、湿潤区画用留め具、白冠陶(高絶縁磁器)片、封瘴布(絶縁布)、および一部道路占用の許可を要する。

 現時点で危険値は確認されていないが、南水門、市場北口、西外縁に、条件の重なりがある。

 許可なき施工は行わない。

 ただし、許可が遅れれば、外周送魔環の初期設計を見直す必要がある。


「相変わらず、脅すのが下手ではないな」


 アルドリックが言うと、机の脇に控えていた筆頭書記が顔を上げた。


「ガルト殿の文面ですか」


「短い。余計な装飾がない」


「送魔局らしい、と言うべきでしょうか」


「ガルトらしい、と言うべきだろう」


 アルドリックは、本文の下に押された送魔局の封蝋を見た。

 封蝋は割れていない。だが、添付の紙束には、すでに何度も開かれ、見直され、折り目が直された跡がある。


 急いでいる。

 それでいて、雑ではない。


 そのあたりが、ガルトの仕事だった。


 扉の外で、控えめな足音が止まった。


「入れ」


 扉が開く。

 入ってきたのは、ガルト本人と、若い技官補だった。


 カルム・ヴェイス。


 アルドリックは、名前だけは知っていた。台帳を抱えて走る若手。まだ仕事の大きさに追いついていないが、細かい写しを間違えない、とガルトから聞いている。


 今日のカルムは、文書箱を一つだけ抱えていた。

 箱は両腕で持っている。箱の口は紐で留め、封書と添付一覧だけを別にしている。


 アルドリックは、少しだけ目を細めた。


「箱は一つか」


 カルムが、緊張した顔で答える。


「はい。説明に必要なものだけを入れました。原台帳写しと測瘴症状票の原本は、送魔局に置いてあります。こちらは写しです」


「落としそうだった箱とは、これか」


 カルムの肩が一瞬だけ跳ねた。


「今回は落としません」


「今回は、か」


「今後も、です」


 ガルトが低く咳払いした。


「閣下。からかうために呼んだのではありません」


「分かっている」


 アルドリックは椅子に腰を下ろした。


「では、説明しろ。ガルトではなく、カルム。今日の封書は、お前が持つよう命じられたのだろう」


 カルムの喉が、わずかに動いた。

 それでも、彼は文書箱を机の脇に置き、最初の紙を広げた。


「外周送魔環暫定調査について、許可をお願いしたい項目は四つです」


「続けろ」


「一つ目は、南外縁一帯の資材通行です。主線用蒼銅線、湿潤区画用の煌銅(真鍮)留め具、白冠陶片、封瘴布、封札板を、職人組合倉庫から南水門側と西外縁側へ運ぶ必要があります」


 カルムは、次の紙を置いた。


「二つ目は、職人組合から二班相当を出す許可です。ベリオ・ガンツ組合長からは、一班半なら出せるとの仮承認があります。ただし、送魔線を直接扱える親方付きの人数は足りません」


「一班半を二班へ増やせ、という話か」


「いいえ」


 カルムは、そこだけははっきり言った。


「足りない半班を、領主庁の荷役班または水門課の人足で補う許可が必要です。送魔線を触る仕事は親方付きに限ります。荷役、足場材、道路整理を補えば、二班相当で動けます」


 アルドリックは、ガルトを見た。


 ガルトは表情を変えない。


「三つ目は、荷馬車道の一時占用です。南水門から市場北口へ抜ける道の一部を、資材通行と仮設足場のために使います。ただし、朝市の最も混む時間は避けます」


「避ける時間は」


「市場組合と調整し、朝市前の搬入と、昼前の短時間占用を想定しています。市場北口の現場札は動かさず、必要なら仮置き位置を追加します」


「四つ目は」


「水門庭園側の雨天時再確認です。通常時の庭園石槽は、すでに確認しています。ですが、旧水門戻しと庭園石槽の関係は、雨天時、庭園灯点灯後にもう一度見る必要があります。水門庭園管理室へ、立会いをお願いする通達です」


 アルドリックは、指先で机を一度だけ叩いた。


「命令ではなく、立会い願いか」


 カルムは少し迷い、それから答えた。


「はい。必要なのは、雨天時の点検口立会いと、すでに出ている匿名化された症状控えとの照合です」


「誰の判断だ」


「リゼ・カトルさんの意見です。ガルト局長代理が採りました」


「お前はどう思う」


 カルムは、少しだけ息を吸った。


「個人名は要りません。むしろ、入れると不要な反発が増えます。必要なのは、役割、時刻、場所、症状、湿り、設備、測定値です」


「測瘴症状票、というのか」


「はい」


「その紙は、人の不調を扱う紙だな」


 カルムは頷いた。


 アルドリックは、そこで初めて小さく頷いた。


「分けた上で、番号で追跡できるようにするのだな」


「はい」


 カルムの声が、わずかに強くなった。


「市場北口では、測瘴症状票、苦情帳、灯火台帳、現場札を同じ番号でつなぎました。職人組合では、材料控え、施工図、材料札を同じ系統の番号でつなぎます。症状が出た場合は、測瘴症状票から施工番号へ、施工番号から材料番号へと照合できるようにします」


 言い終えた後、カルムは少しだけ黙った。


 自分の言葉が大きくなりすぎたと気づいたのかもしれない。


 アルドリックは、しばらくその若い技官補を見ていた。


「ガルト」


「はい」


「この若いのは、昨日よりましになったのか」


「はい」


 ガルトは短く答えた。


「昨日までは、紙を運んでいました。今は、紙がどこへ戻るかを見ています」


 カルムが、少しだけ目を伏せた。


 アルドリックは、材料札一覧を手に取った。


 主線用。

 灯り用。水場不可。

 灯り用。主線不可。水場不可。

 翌朝も濡れる場所。普通鉄不可。

 煌銅留め具は直接触れさせない。


 裏には短い番号がある。


 南外材一。

 南外灯二。

 湿倉保一。

 湿区留一。

 煌留絶一。


「表は現場の言葉。裏は局の番号か」


「はい」


「悪くない」


 カルムが、ほんのわずかに顔を上げた。


「ただし」


 その一言で、部屋の空気が締まった。


 アルドリックは、材料札一覧を机に置いた。


「許可は、好きにしてよいという紙ではない。どこまで責任を取るかを書いた紙だ」


 カルムは、すぐに筆記板を開いた。


 アルドリックは続けた。


「南外縁一帯の資材通行は許可する。ただし、通行時間は領主庁の印を押した札に書く。市場北口の朝市中は通さない。水門側の荷馬車道占用は、二刻を超えれば再申請」


「はい」


「職人二班相当は許可する。だが、送魔線に触れるのはベリオが指名した親方付きだけだ。領主庁から出す人足は、荷役、足場、道路整理に限る」


「はい」


「資材買付は、主線用蒼銅線を必要本数と予備一割まで。均相(※2話前編)済み線を全部買い上げるな。ほかの工事が止まる」


 カルムの筆が止まる。


「予備一割……」


「足りないか」


「足りないかもしれません」


「足りなくなってから申請しろ」


 ガルトが、横から低く言った。


「閣下、それでは工事が止まります」


「止まれる工事にするのだろう」


 アルドリックは、ガルトを見た。


「最初から余裕を付けすぎれば、職人組合の倉庫が空になる。ベリオが怒るだけならよい。別の補修が遅れる。南外縁のために北市場の古い灯まで落とす気はない」


 ガルトは、一拍置いて頷いた。


「承知しました」


「封瘴布は、清浄域用と現場仮処置用を分けろ。新しい布巻きは清浄域用に優先する。端切れで済む場所に新巻きを切るな」


「はい」


「水門庭園側の雨天時再確認は、領主庁から水門庭園管理室へ通達する。旧ミューレン家への敬意を欠くな。命令ではなく、立会い願いだ。役割名の控えと、雨天時の値だけを照合する」


 筆頭書記が、その箇所だけ別紙に写した。


「最後に」


 アルドリックは、封書の本文へ視線を戻した。


「現時点で危険値は確認されていない、と書いてある。にもかかわらず、条件の重なりの段階で通行と資材を求めている」


 カルムの筆が止まった。


「そこが、一番説明しづらいところです」


「そうだな」


 アルドリックは認めた。


「市場組合は、危険値が出ていないなら商いを止めるなと言う。職人組合は、線がまだ使えるなら安く落とすなと言う。水門課は、地下を開けて何も出なければ、余計な騒ぎだったと言う」


 カルムは、何も言えなかった。


「だが、測定器に危険値が出てからでは遅いものがある」


 アルドリックの声は、低かった。


「水門の下、灯具の下、濡れた床、古い線、作業者の不調。ひとつずつなら小さい。だが、重なった時に誰が止めるのか。それを書いていない街は、いつか大きく止まる」


 ガルトが、黙って聞いていた。


「この封書のよいところは、止めたいと書いていないことだ」


「止めたいと、ですか」


 カルムが訊く。


「そうだ。『危ないから全部止めろ』ではない。『この許可がなければ、ここが動かない』と書いてある。逆に言えば、許可を出せば、どこまで動くかも分かる」


 アルドリックは、材料札一覧の上へ指を置いた。


「これは、工事を始める紙ではない。始めた後も、条件と記録へ立ち戻れる紙だ」


 カルムは、その言葉をすぐには書かなかった。


 先に、材料札を見た。

 現場札写しを見た。

 測瘴症状票の写しを見た。


 それから、ゆっくり書いた。


 始めても戻れる紙。


 アルドリックは、その動きを見ていた。


「それを忘れるな」



     *



 通行証は、三種類に分けて作られた。


 ひとつ目は、資材通行証。

 南外縁の資材搬入に限り、職人組合倉庫から南水門側、西外縁側へ、指定時刻に荷馬車を通すための札だった。


 ふたつ目は、道路占用札。

 市場北口と南水門の間で、仮設足場と線材荷下ろしのために、荷馬車道の一部を短時間だけ使う許可だった。


 みっつ目は、雨天時立会い願い。

 水門庭園側の雨天時再確認に、水門庭園管理室の立会いを求めるためのものだった。


 どれも同じような許可に見える。

 だが、アルドリックは一枚にまとめなかった。


 資材を見る者には資材の紙。

 道を止める者には道の紙。

 庭園を守る者には庭園の紙。


 領主が判断する要点は一枚にまとめ、動く者が持つ紙は分ける。分けた紙が同じ許可に属すると分かるよう、通行証の右下には同じ許可番号が入れられた。


 南外暫一。


 資材通行証、道路占用札、雨天時立会い願い。

 三枚とも、同じ番号から始まっていた。


 封蝋が冷えると、アルドリックは三枚の通行証と要点一枚をカルムへ渡した。


 束の順番は、動く者へ先に示すための順だった。最初に職人組合、次に市場組合、最後に送魔局控えへ戻る。許可は上から下へ落とすだけでは通らない。動く者が、自分の仕事がどこまで認められたかを先に知る必要がある。


 カルムは両手で受け取り、箱へ入れた。

 箱の紐を確かめる。

 一度ではなく、二度。


 マルカがいれば、また落とさないでね、と言ったかもしれない。


 カルムは、その声を思い出し、ほんの少しだけ口元を引き締めた。


 今度は、落とせない。


 ただの紙ではない。

 動く者が動くための紙であり、止める者が止めるための紙でもある。



     *



 ガルトとカルムが退出した後、執務室には、紙の匂いだけが残った。


 筆頭書記が、控えを整理しながら言った。


「よろしいのですか」


「何がだ」


「王都を追われた技師補を、ここまで通して」


 アルドリックは、窓の外を見た。


 南水門の水面が、朝より明るくなっている。

 市場北口の布屋根には、人の動きが増えていた。

 工房街の煙も、少し濃い。


 街は、今日も動いている。


「レン・アルバートを通したのではない」


 アルドリックは言った。


「ガルトが出した止まれる計画を通した」


「同じことでは」


「違う」


 アルドリックは、机の上に残した控えを指で押さえた。


「人を信用するのは危うい。特に、王都で傷を負った若い技師はな。正しさを急ぎすぎることがある」


 筆頭書記は黙って聞いていた。


「だが、この紙は、あの若い技師だけの紙ではない。測瘴士が症状と値を分けて残している。カルムが番号で戻している。ガルトが責任を持つ」


 アルドリックは、窓から市場北口の方角を見た。


「一人の正しさではない。複数の手が、互いに間違いを残せる形になっている」


「それを評価されたのですか」


「評価したのは、そこだ」


 筆頭書記が、控えの端へ保存印を押した。


「では、外周送魔環暫定調査は開始でよろしいですね」


「開始だ」


「第一工区の施工後、測瘴症状票、現場札、材料控え、通行記録をそろえて報告させろ。点灯ではなく、止まった記録も見る」


「止まった記録も、ですか」


「止まらずに済んだ工事より、止まって戻れた工事の方が信用できる時がある」


 筆頭書記は、少しだけ考え込んだ。


「それは、領主庁の記録にも残しますか」


「残す」


 アルドリックは即答した。


「事故が起きなかった理由は、たいてい忘れられる。忘れられた理由は、次の予算で削られる」


 その声は、静かだった。


「だから、止まった理由も、動かした理由も、同じ棚に置いておけ」


 筆頭書記は頷いた。


「承知しました」


 アルドリックは、最後に一枚の小さな札を取った。


 南外暫一。


 領主庁控え用の札だった。


 彼はそこへ、短く書き足した。


 条件付き許可。

 第一工区後、停止記録を確認。


 それから、札を棚へ差し込んだ。


 窓の外で、荷馬車の車輪の音がした。


 ガルトとカルムが職人組合へ向かう音だろう。


 その音は、まだ工事の音ではない。

 だが、工事へ向かう音だった。


 アルドリックは、南水門の水面をもう一度見た。


 領主が出せるのは、通行証だけだ。

 線を張るのは職人であり、湿りを測るのは測瘴師であり、現場を止めるのは現場に立つ者だ。


 それでも、通してよい道と、まだ通してはならない道を選ぶ責任は、自分にある。


 彼は、机の上の残り紙を整えた。


 第一工区は、動き出す。


 ただし、止まれる形で。


【用語】

(ルビ:現代の電磁気・科学にて相当する語。)

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