4. やさしいひと
深夜2時30分。
早く寝ればいいのに、私は吸い寄せられるようにPCの電源を入れた。
暗い部屋に、鮮やかな異世界ファンタジーの世界が広がった。
モンスターが生息する、月明かりに照らされた幻想的なフィールド。
静かな夜風が、草原を揺らしている。
世界的人気オンラインRPG『ステラ・クロノス』に、今夜も「彼」はいた。
深い紫の着流しに、銀の甲殻を合わせた東洋風の装束。腰には細身の太刀。
貴重な素材でできた装備からも、高レベルプレイヤーとわかる。
さらに、彼の後ろに控えるオトモは、サーバーに数体しか存在しないと言われる超レアなパンダ。
カラーはパッションピンクにカスタマイズされている。
その愛くるしいピンクのパンダが、彼の足元にちょこんと座っている。
『今夜は、もう来ないかと思った』
画面に浮かぶチャットの文字。優しい雰囲気が漂う。
『寝ようと思ったけど、なんだかモヤモヤしちゃって』
さっき触れられた唇の感触が、まだ残っている気がする。
『大丈夫?』
パンダも連動して、心配そうに首を傾げる。
いつもならすぐに狩りへ出かけるのに、誰かに聞いてほしかったから、私は少しだけ本音をこぼした。
『ハチに刺された』
『え!』
『うそw』
『なんだ、びっくりした』
『それくらい、衝撃的なことがあったの』
キーボードを叩く指が、少しだけ震える。
『嫌なことでもあった?』
正確に言えば、嫌じゃなかった。
あのキスに、意味があったなら――、そう思ってしまう自分が、情けない。
『彼氏が欲しいな』
思わず本音が出てしまう。
始まってもいない恋から卒業したい。
『突然だね』
ピンクのパンダが、驚いたようにバタバタと短い手足を動かす。
私のアバターは屈強な戦士。スキンヘッドの大柄な男が「彼氏」なんて言ったから、驚かせたのだろうか。
画面の向こうで、彼が何度もメッセージを打ち込んでは消しているのが伝わってくる。
『恋人……いないの?』
『うん、残念ながらw』
『ぼくが彼氏になろうか?』
唐突なメッセージに、指が止まる。
『からかってる?』
『まさか。本気だけど』
その時、デスクの上でスマートフォンが激しく震えた。
ビクッとして視線を落とすと、サクヤからの通知だった。
『さっきのタクシー代、次に会ったとき払うから』
――なによ、それ。
お金を渡せば私が喜ぶとでも思ってるの?
だいたい、「次」っていつよ。
『いらない』
それだけ返信すると、私はスマートフォンを裏返し、再びPCの画面に向き直った。
『話を聞こうか?それとも、クエストに行く?』
ゲームの中の彼に、なんて返せばいいのか分からない。
現実との境目が壊れてしまいそうで怖かった。
『やっぱり、もう寝るね。明日も仕事だし』
私は逃げるようにログアウトのボタンを押した。
画面が暗転し、静まり返った部屋。
私は椅子の上で膝を抱え、小さくため息を吐いた。




