3.いつもと同じ深夜2時
何の予兆もない。
別に甘い雰囲気でもなかったのに。
「え、なっ……」
唇が、熱い。
触れたのはほんの一瞬だったのに。
「……なんで、キスしたの?」
「なんとなく」
いやいや、なんとなくでキスなんてしないで。
「腹減ってきたな。なんか頼むか?牛丼とか」
「アイドルが深夜に牛丼って」
「オレは、太らないし」
「むかつく」
サクヤは鼻で笑うと、スマホを操作した。
薄暗い部屋に液晶画面がまぶしく光り、軽快な電子音が部屋に響く。
流行りのパズルゲームだ。
最初にハマったのは私なのに、気づけばサクヤがこのゲームのCMに出演していた。
そのせいか、ダウンロード数は爆発的に伸びたらしい。
いや、そんなことはどうでもよくて!
キスしたあとに、いつも通りの態度って、どういうこと?
「そこに置けば全消しだよ」
「うるせ、わかってる」
背後から画面を覗き込んで指摘すると、サクヤは「邪魔だ」と言わんばかりに寝転んだ。
「それで、小春は帰らないつもり?」
まるで『いつまでいるつもりだよ』と言われたようなニュアンスに、チクリと胸が痛む。
でも、顔には出さない。
――出したら、負けだから。
「タクシー呼んだから、もう帰るよ」
「ん、わかった」
サクヤは面倒そうに身を起こすと、脱ぎ捨ててあったパーカーを羽織った。
「お見送りしてくれるの?」
「……玄関の鍵、かけるだけ」
ぶっきらぼうに吐き捨てた言葉。
「――だよね」
玄関で靴を履く私を、サクヤは少し高い位置から見下ろしている。
ふと見上げると、目が合った。
『帰るなよ』
私の小さな願望が生んだ幻聴。サクヤが言うはずのない言葉だ。
キスしたこと自体が幻覚だったとしたら、私もいよいよヤバいかもしれない。
「明後日からロンドンだっけ? お仕事がんばってね」
「ああ」
「じゃあ、おやすみなさい」
ドアが閉まる前、ドアの隙間から声がこぼれる。
「気を付けてな」
無機質な金属音を聞きながら、私は冷え込んだ夜の街へと踏み出した。
『またね』なんて言葉はない。
最初から、そんな約束はない関係だから。
タクシーを飛ばして20分。
給料日前には痛い出費を支払い、小さなワンルームマンションに辿り着く。
黒猫の桃太郎が、足元にゴロゴロとまとわりついてくる。
「ただいま、いい子にしてた?」
愛おしさに手を伸ばすと、桃太郎は『いえ、結構です』とでも言うようにスッと身をかわした。
「もう……あんたまで愛想がないんだから」
さっさと自分の寝床へ戻ってしまった。
猫だから仕方ない。分かってはいる。
――はじめてのキスを、なかったことにしないで。




