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第二話|父よ、今夜は美しく散れ。

人類史上初のタイムマシンが、ついに起動した。


目的は世界平和でも、人類の発展でもない。


父親への復讐である。


しかも、その方法は天才科学者とは思えないほど卑劣だった。


果たして、科学の進歩とは何なのだろうか。

装置が唸りを上げた。


低く、重く、腹の底まで響くような振動。


研究室の壁に設置された計器が、一斉に異常な数値を示し始める。


空間座標、時間座標、重力偏差。


全て正常。


いや、正常という表現は正しくない。


人類が初めて経験する現象に、正常も異常もあるはずがない。


僕は操作盤に表示された数値を確認した。


時間跳躍開始まで、残り十秒。


九。


八。


七。


僕は目を閉じた。


思い浮かぶのは、幼い頃の記憶。


酒臭い息。


怒鳴り声。


理不尽な暴力。


そして、何度も聞かされたあの言葉。


『お前、誰のおかげで生まれてこられたと思ってんだ!』


分かっている。


ようやく分かったのだ。


「……今から、その責任を取ってもらう」


三。


二。


一。


視界が白く染まった。


---


目を開けると、僕は地面に倒れていた。


青い空。


電線。


遠くから聞こえる車の走行音。


そして、鼻を突く排気ガスの臭い。


「……成功したのか?」


僕は立ち上がった。


周囲には古びた商店が並び、道路を走る車も、僕の記憶にあるものよりずっと古い。


携帯電話を見ながら歩いている人間もいない。


街角の公衆電話が、妙に誇らしげに立っている。


間違いない。


過去だ。


僕は腕時計型の時間測定装置を確認した。


指定した年月日と一致している。


「……成功だ」


人類史上初の時間旅行。


アインシュタインですら実現できなかった偉業を、僕はたった一人で成し遂げた。


ノーベル賞どころの話ではない。


教科書に名前が載る。


いや、教科書そのものが僕の名前になるかもしれない。


そんなことを考えていたときだった。


妙な違和感を覚えた。


身体が軽い。


腰が痛くない。


膝も鳴らない。


そして何より、視界の上に何かが揺れている。


「……ん?」


僕は額に手を当てた。


毛だ。


髪の毛だ。


それも大量にある。


「…………」


慌てて近くの商店のガラスに自分の姿を映した。


そこにいたのは、見覚えのある若い男だった。


二十歳頃の僕である。


肌には張りがあり、目元の小じわもない。


そして頭頂部。


黒々としている。


「……生えてる」


僕は震える手で髪をかき上げた。


「生えてるじゃないか……!」


何度触っても減らない。


何度かき上げても地肌が見えない。


「おおおおおお……!」


僕はその場に膝をついた。


人類初の時間旅行成功から、およそ三分。


僕はタイムマシンの偉業を忘れ、自分の毛根に感動していた。


---


落ち着いてから、僕は身体の変化を分析した。


肉体年齢、およそ二十歳。


記憶、正常。


知能、正常。


性格、おそらく正常。


時間移動の際、肉体を構成する細胞に何らかの逆行現象が発生したらしい。


興味深い。


実に興味深い。


しかし、今は研究している場合ではない。


僕には使命がある。


「……オヤジを探さなければ」


問題は、あの男がどこにいるのかということだった。


僕は父親の若い頃を知らない。


写真もほとんど残っていない。


だが、手掛かりはあった。


幼い頃、両親が酒を飲みながら話していた昔話だ。


『あんた、昔は駅前のパチンコ屋に毎日いたわよね』


『馬鹿野郎、あの頃は勝ってたんだよ!』


『借金してまで打ってたくせに』


『うるせえ!』


思い出した。


駅前。


パチンコ屋。


そして、もう一つ。


『あんた、あの店の裏に住んでたじゃない』


なるほど。


僕は記憶の断片を整理した。


当時の駅前商店街の配置。


パチンコ店の立地。


父親の推定年齢。


過去の都市計画。


複数の条件を組み合わせれば、候補はかなり絞れる。


僕は歩き始めた。


---


三時間後。


見つけた。


パチンコ屋の前で、見覚えのある男が煙草を吸っていた。


若い。


腹も出ていない。


髪もある。


顔立ちだけ見れば、それなりに整っている。


いや、正直に言おう。


かなりいい男だった。


背は高く、肩幅も広い。


日に焼けた顔には精悍さがあり、笑うと妙に人懐っこい。


「……オヤジ?」


僕は思わず首をかしげた。


本当に、あの男なのか?


父親は煙草を消すと、店から出てきた年配の男性に声をかけた。


「おっちゃん、今日どうだった?」


「駄目だよ。また負けちまった」


「ははは! 俺もだよ! まあ、明日があるさ!」


父親は豪快に笑った。


そして、男性の肩を軽く叩いた。


「今度、一杯おごるよ!」


……何だ、この男は。


僕の知っている父親は、他人に酒をおごるような人間ではなかった。


むしろ、他人の酒を勝手に飲む男だった。


父親はそのまま商店街を歩き始めた。


途中、八百屋の店主に声をかけられる。


「おう! 今日は早いな!」


「今日は女の子と約束があるんだよ!」


「またか! お前も好きだねえ!」


「女と酒が嫌いな男なんて信用できねえよ!」


周囲から笑い声が上がった。


僕は立ち尽くした。


女好き。


酒好き。


確かに、そこは変わらない。


しかし、どう見ても嫌われ者ではない。


むしろ、皆に好かれている。


「……おかしい」


僕は考えた。


人間の性格は、環境によって変化する。


若い頃は善良でも、後年になって堕落する例は珍しくない。


つまり、この男が今どれほど魅力的であろうと、僕の人生を破壊した事実は変わらない。


そして何より。


僕をこの世に生み出した原因であることにも変わりはない。


「……予定通りだ」


僕は父親の後を追った。


---


翌日。


僕は女になっていた。


正確には、女装した二十歳の男である。


古着屋で購入したワンピース。


安物のかつら。


口紅。


頬紅。


そして、胸元には丸めた布を二つ。


鏡の前に立つ。


「…………」


誰だ、こいつは。


目の前には、妙に背の高い女がいた。


美人かと聞かれれば、返答に困る。


不細工かと聞かれても、やはり返答に困る。


ただ一つ確かなのは、僕自身が非常に気持ち悪いということだった。


「……これも科学のためだ」


違う。


科学のためではない。


オヤジのキンタマのためだ。


僕はその事実を考えないようにした。


---


夕方。


パチンコ屋の前で、父親を待った。


昨日と同じ時刻。


同じ場所。


父親は上機嫌で店から出てきた。


「いやあ、今日は勝った勝った!」


……勝つ日もあるのか。


僕は少し驚いた。


父親は店の前にいた知人に声をかけた。


「おい、飲みに行こうぜ! 今日は俺のおごりだ!」


「本当かよ!」


「男に二言はねえ!」


僕は深呼吸した。


そして、できる限り高い声を出した。


「あ、あのぉ……」


父親が振り返った。


「ん?」


「こ、この辺に、おいしいお酒を飲めるお店って……ありますぅ?」


自分でも鳥肌が立った。


何だ、この声は。


何だ、この喋り方は。


僕は一体、何をしている。


しかし、父親は僕をじっと見つめた。


そして、にっこり笑った。


「あるよ。いい店が」


「ほ、本当ですかぁ?」


「ああ。でも、一人で飲むにはもったいない店だな」


父親は少しだけ首をかしげた。


「よかったら、一緒に行く?」


……食いついた。


しかも、想像以上に自然だ。


僕は頬に手を当てた。


「えぇ〜、いいんですかぁ?」


「もちろん。綺麗な人と飲めるなら、こっちがお願いしたいくらいだよ」


「…………」


綺麗。


僕が?


この男は、目まで悪いのか。


しかし、父親は爽やかに笑っていた。


少なくとも、僕が知っている父親とは別人のようだった。


---


酒場での会話は、意外なほど楽しかった。


父親はよく喋った。


仕事の話。


友人の話。


失敗談。


そして、女の話。


「俺さ、女の子には弱いんだよ」


「そうなんですかぁ?」


「うん。可愛い子が困ってると、つい助けたくなる」


「へぇ〜♡」


「まあ、助けたあとに惚れてもらえたら最高だけどな!」


父親は豪快に笑った。


僕も思わず笑ってしまった。


……しまった。


本当に笑ってしまった。


父親は僕のグラスが空くと、すぐに注文してくれた。


料理も取り分けてくれた。


僕の話も、きちんと聞いてくれた。


「へえ、科学が好きなんだ?」


「え、ええ……少しだけ」


「すげえな。俺、そういうの全然分かんねえや」


「……そうでしょうね」


「ははは! 正直だな!」


父親は怒らなかった。


僕は驚いた。


幼い頃、父親に口答えすれば殴られた。


しかし、目の前の男は笑っている。


「……あなたって、いい人ですね」


思わず口にしてしまった。


父親は照れくさそうに頭をかいた。


「そうか? ありがとう」


「…………」


僕は黙った。


胸の奥に、妙な感覚が生まれていた。


もし、この男がずっとこんな人間だったなら。


もし、僕がこんな父親に育てられていたなら。


僕の人生は、少し違っていたのだろうか。


……いや。


違う。


僕は首を振った。


そんなことは関係ない。


この男がどんな人間であろうと、僕が生まれた原因であることに変わりはない。


科学者は、感情で結論を変えてはならない。


---


夜が更けた。


父親はすっかり上機嫌だった。


「珠子ちゃん、もう一軒どう?」


「えぇ〜、どうしようかなぁ♡」


僕は頬に手を当てた。


人生で一度も使ったことのない仕草だった。


父親は楽しそうに笑った。


「無理にとは言わないよ。遅いしね」


「……優しいんですね」


「女の子には優しくしないとな」


……何だ、この男は。


僕の知っている父親は、女性に優しくするような男ではなかった。


母親に怒鳴り散らしていた姿しか覚えていない。


それなのに。


今、目の前にいる男は、実に魅力的だった。


「……ねえ」


「ん?」


「もう少し、一緒にいたいなぁ♡」


父親は目を丸くした。


そして、嬉しそうに笑った。


「本当かい?」


「うん♡」


「じゃあ、俺んち来る?」


来た。


計画通りだ。


僕は少しだけ目を伏せた。


「……優しくしてくれる?」


言ってしまった。


僕はとうとう、自分の父親にこんな台詞を言ってしまった。


科学者としての尊厳が、音を立てて崩れていく。


しかし、父親は真面目な顔で答えた。


「もちろん。嫌なことは絶対しないよ」


「…………」


僕は一瞬、言葉を失った。


そして、微笑んだ。


「……じゃあ、連れていって♡」


---


父親の部屋は、意外なほど片付いていた。


小さなテーブル。


きちんと畳まれた布団。


壁には古い映画のポスター。


棚には数冊の本と、安物のウイスキー。


決して裕福ではない。


しかし、清潔で、居心地のよさそうな部屋だった。


「狭いけど、ゆっくりしてって」


父親は照れくさそうに笑った。


「……素敵なお部屋ですね」


「そう? ありがとう」


僕は部屋を見渡した。


この男は、本当に僕の父親なのだろうか。


僕の知っている父親は、酒瓶を転がし、煙草の吸い殻を散らかし、借金取りから逃げ回っていた。


それなのに。


今の父親には、そんな面影がほとんどない。


父親は僕の隣に腰を下ろした。


「珠子ちゃん……」


妙に優しい声だった。


「……はい♡」


「今日は楽しかったよ」


「私も……♡」


父親がそっと僕の手を握った。


温かい手だった。


幼い頃、僕を何度も殴った手。


しかし、今は驚くほど優しく僕の手を包んでいる。


「……ねえ」


「ん?」


「一つだけ、お願いしてもいい?」


「何でも言ってみな」


僕は微笑んだ。


今までで一番、優しく。


「……絶対に、逃げないでね♡」


父親は笑った。


「逃げるわけないだろ」


そうか。


ならばいい。


僕は静かに目を伏せた。


---


夜は、静かに深まっていった。


父親は僕を大切な宝物のように扱った。


その優しさが、僕には何よりも苦痛だった。


なぜだ。


なぜ、今のお前はこんなに優しい。


なぜ、僕が子供だった頃には、その優しさを少しも見せてくれなかった。


僕は考えた。


人間は変わる。


環境によって、性格も行動も変化する。


今の父親が善人だからといって、未来の父親が善人である保証はない。


そして何より。


僕の出生を阻止するという目的は、何一つ変わっていない。


やがて、父親の声が甘く震えた。


「……珠子ちゃん、もう……」


僕は何も答えず、ただ微笑んだ。


父親は目を閉じた。


幸せそうな吐息が、薄暗い部屋に溶けていく。


ペロリ。


僕は唇を舐めた。


オヤジは天国に行った。


最後の天国にだ。


そして数秒後、オヤジに地獄を見せた。


「ぎゃあああああああああああ!!!」


その悲鳴は、僕が生まれて初めて聞く、父親の心からの叫びだった。


何が起きたのか。


それを正確に記録する気には、僕自身もなれなかった。


ただ一つだけ、確かなことがある。


四十二年間、僕を苦しめ続けた製造元に対し、ついに僕は復讐を果たしたのだ。


僕は何とも言えない満足を感じ、部屋を去った。


---


外に出ると、夜風が頬を撫でた。


僕は安物のかつらを外した。


長い髪が、地面に落ちる。


「……終わった」


長かった。


本当に長かった。


これで僕は生まれてこない。


これで全ての不幸が消える。


僕は夜空を見上げた。


「……さようなら、父さん」


しかし、妙な感覚があった。


若い頃の父親は、僕が知っている男とはまるで違っていた。


明るく、豪快で、優しかった。


女好きで酒好き。


だが、それだけだ。


少なくとも、今日出会った男は、誰かを不幸にするような人間には見えなかった。


「…………」


僕は首を振った。


関係ない。


あの男がどれほど善良であろうと、僕が生まれた原因であることに変わりはない。


僕の理論は正しい。


正しくなければならない。


僕は腕時計型の時間測定装置に指を置いた。


帰還座標を入力する。


時間移動開始まで、十秒。


九。


八。


僕は目を閉じた。


もうすぐ全てが終わる。


僕という存在そのものが、歴史から消えるのだ。


三。


二。


一。


青白い光が、僕を包み込んだ。


――第二話・完――

人類史上初の時間旅行は、無事成功しました。


若返りという予想外の成果まで得られました。


そして、長年の研究の末に完成したタイムマシンは、父親のキンタマを狙うために使用されました。


科学技術の発展とは、実に素晴らしいものです。


なお、父親のその後については、次回ご確認ください。


※本作品はフィクションです。登場する天才科学者の研究倫理について、神威重工は一切の責任を負いません。

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