第三話。お前はオヤジじゃあああああ!!!
父親への復讐を果たし、現代へ帰還した天才科学者。
これで全ての不幸が消滅する。
自分自身も、この世から消えるはずだった。
しかし、彼の計算には重大な見落としがあった。
時間を超えて過去を変えた結果、未来には想像を絶する変化が待ち受けていた。
果たして、父親の身に何が起きたのか。
そして、金玉の運命やいかに。
青白い光が消えた。
耳鳴りがする。
視界が揺れる。
全身を包んでいた奇妙な浮遊感が消え、僕の足は再び固い床を踏みしめた。
「……帰ってきたのか?」
僕はゆっくりと目を開けた。
時間座標を確認する。
年月日、時刻、空間座標。
全て正常。
間違いない。
僕は元の時代へ帰還した。
人類史上初の時間旅行。
そして、歴史上初めて行われた、父親の生殖能力に対する時間を超えた復讐。
その両方を、僕は成し遂げたのだ。
「……終わった」
僕は深く息を吐いた。
これで全てが終わる。
僕という存在は、歴史から消滅する。
僕が生まれなければ、不幸も存在しない。
実に合理的だ。
完璧な結論だ。
僕は静かに目を閉じた。
自分の存在が消える瞬間を待った。
一秒。
二秒。
三秒。
……。
十秒。
……。
一分。
「…………」
おかしい。
まだいる。
僕は自分の手を見た。
ある。
足もある。
胴体もある。
試しに頬をつねってみた。
「痛っ!」
痛覚まで正常だ。
「……なぜだ?」
僕は考えた。
過去の改変によって出生原因を除去した場合、その結果として生まれた個体は存在できなくなる。
これは因果律に基づく当然の結論である。
少なくとも、僕の理論ではそうなっている。
ところが、僕は存在している。
「……おかしい」
僕はもう一度、自分の身体を確認した。
消えていない。
透けてもいない。
むしろ、妙に健康的だ。
そして、ふと気づいた。
「……あれ?」
僕は壁に掛けられた鏡を見た。
そこには、四十二歳の男がいた。
見慣れた顔。
目元の小じわ。
少しくたびれた頬。
そして、人生に疲れ切った表情。
間違いない。
僕だ。
四十二歳の僕だ。
「……戻っている」
過去へ移動したとき、僕の肉体は二十歳まで若返った。
ところが、現代へ戻ると、肉体年齢も元に戻っている。
なるほど。
時間移動には、肉体の年齢を変化させる作用があるらしい。
実に興味深い。
僕は鏡に顔を近づけた。
「…………!」
待て。
おかしい。
僕は額に手を当てた。
そして、ゆっくりと髪をかき上げた。
「……ある」
髪がある。
それも、大量に。
頭頂部まで、黒々としている。
「……残っている!」
僕は震える手で髪を撫でた。
何度触っても、そこにある。
四十二歳の身体。
二十歳の毛量。
「おおおおおおおお!!!」
僕は思わず叫んだ。
人類史上初の時間改変。
出生の因果関係を破壊するという前代未聞の実験。
その結果、僕は消滅しなかった。
しかし。
**髪の毛だけは救われた。**
「……素晴らしい」
僕は鏡の前で、何度も髪をかき上げた。
この技術を応用すれば、世界中の薄毛に悩む人々を救えるかもしれない。
いや、そんなことはどうでもいい。
僕の髪が戻ったのだ。
それで十分だ。
……。
いや。
十分ではない。
「待て待て待て!」
僕は我に返った。
何を喜んでいる。
僕は自分の存在を消すために過去へ行ったのだ。
毛を増やすためではない。
「……なぜ消えない?」
僕は頭を抱えた。
そのときだった。
ふと、周囲の様子が目に入った。
「…………?」
僕はゆっくりと顔を上げた。
白い壁。
綺麗な天井。
木製の机。
柔らかそうなベッド。
窓にはカーテンが掛かっている。
床には絨毯まで敷かれていた。
「……どこだ、ここは?」
僕の研究室ではない。
あの雨漏りする町工場ではない。
ひび割れた窓もない。
天井からぶら下がった電線もない。
そして何より。
カビ臭くない。
「……家?」
僕は窓を開けた。
外には、手入れされた庭が広がっていた。
花壇。
芝生。
小さな物置。
駐車場には、見覚えのない乗用車が停まっている。
どう見ても、普通の一戸建て住宅だった。
「……何が起きている?」
僕は混乱した。
時間座標は正しい。
だが、空間座標が示す場所には、僕の知っている研究室が存在していない。
代わりに、見知らぬ家が建っている。
いや。
本当に見知らぬ家なのか?
僕は部屋を見回した。
机の上には、見覚えのある研究資料が置かれていた。
壁には、僕が大学時代に書いた論文の複製が額に入れられている。
棚には、僕の名前が記された賞状まで並んでいた。
「……僕の部屋?」
どういうことだ。
僕の研究資料がある。
僕の名前もある。
つまり、この家には僕が住んでいるらしい。
だが、僕にはこんな家を買う金などなかった。
そもそも、僕は無職だったはずだ。
「……わからない」
僕は椅子に腰を下ろした。
何が起きている。
僕は過去へ行った。
父親を見つけた。
計画を実行した。
そして現代へ戻った。
それだけだ。
なのに、僕は消えていない。
髪は増えている。
住まいまで変わっている。
「……意味がわからない」
僕は天井を見上げた。
そのときだった。
トントントン。
階段を上ってくる足音が聞こえた。
「…………!」
誰かいる。
この家には、僕以外の人間がいる。
僕は身構えた。
足音が近づいてくる。
トントントン。
そして、部屋の前で止まった。
「おはぁよぉお〜〜〜♪」
……。
何だ?
今の声は。
妙に甲高い。
いや、甲高いというより、ねっとりしている。
甘ったるい。
語尾が異常に長い。
僕は全身に鳥肌が立つのを感じた。
ガチャリ。
ドアが開いた。
「起きてるぅ〜? 朝ごはんできたわよぉ〜♡」
そこには、女性がいた。
……いや。
女性のような人物がいた。
派手な花柄のエプロン。
鮮やかな口紅。
丁寧に整えられた眉。
頬には、やや過剰な化粧。
そして、妙にがっしりした肩幅。
「…………」
僕は目を細めた。
どこかで見た顔だ。
いや。
知っている。
この顔を、僕は知っている。
「……お前」
「ん〜? どうしたのぉ?」
「……オヤジ?」
その人物は、嬉しそうに両手を合わせた。
「やぁだぁ♡」
そして、腰をくねらせた。
「パパって呼んでよぉ〜♪」
……。
……。
……。
「お前はオヤジじゃあああああ!!!」
僕の絶叫が、家中に響き渡った。
「もうっ! 朝から大きな声出さないのっ!」
その人物は頬を膨らませた。
「せっかく朝ごはん作ったのにぃ〜」
「待て! 待て待て待て!」
僕は立ち上がった。
「お前、本当にオヤジなのか!?」
「そうよぉ?」
「何だ、その格好は!」
「え〜? いつもの格好じゃなぁい♡」
いつもの?
いつものだと?
僕の知っている父親は、酒臭く、腹が出ていて、いつも不機嫌な男だった。
それが何だ。
目の前には、花柄のエプロンを着た、妙に機嫌のいい中年男性が立っている。
「……オカマなのか?」
「もうっ! 失礼ねぇ!」
父親は腰に手を当てた。
「パパはパパよぉ♡」
「意味がわからん!」
「それより、朝ごはん冷めちゃうわよ?」
「朝飯なんかどうでもいい!」
「今日はフレンチトーストよぉ〜♪」
フレンチトースト。
……。
僕は一瞬、言葉を失った。
今朝、僕が食べたのはカビの生えた食パンだった。
それが今度は、フレンチトーストだと?
「……何なんだ、この世界は」
父親は僕の顔をのぞき込んだ。
「どうしたの? 顔色悪いわよぉ?」
そして、僕の額に手を当てた。
「熱でもあるのかしら?」
僕はその手を見た。
大きな手。
見覚えのある手。
かつて僕を何度も殴った手だ。
しかし今、その手は僕の額に優しく触れている。
「…………」
僕は混乱した。
あの父親が、僕を心配している。
しかも、化粧をして。
「……オヤジ」
「なぁに?」
「お前……いつからそんな風になった?」
父親は首をかしげた。
「そんな風って?」
「だから、その……女みたいな……」
「あらぁ♡」
父親は嬉しそうに笑った。
「パパ、綺麗?」
「聞いてねえええええ!!!」
僕は頭を抱えた。
駄目だ。
会話が成立しない。
いや、成立している。
成立しているからこそ、恐ろしい。
僕は必死に考えた。
なぜだ。
なぜ、こんなことになった。
父親の過去を変えた。
その結果、未来が変化した。
ここまでは理解できる。
だが。
「……待てよ」
僕は、ある重大な事実に気づいた。
僕は過去で、父親の生殖能力を奪った。
そのはずだ。
間違いない。
計画は成功した。
少なくとも、あの悲鳴は成功を裏付けている。
それなのに。
僕は存在している。
しかも、目の前には父親まで存在している。
「…………」
僕は父親を見た。
父親はにこにこしていた。
「なぁに? そんなに見つめちゃってぇ♡」
「……オヤジ」
「はぁい♡」
「お前……」
僕は言葉を選んだ。
非常に慎重に。
「……金玉は、あるのか?」
父親の笑顔が止まった。
「…………」
沈黙。
長い沈黙。
やがて父親は、妙に恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「……やぁだぁ♡」
「やぁだぁじゃねえ!」
「朝からそんなこと聞かないでよぉ〜♡」
「重要なんだよ!」
「もうっ! エッチなんだからぁ♡」
「違う! そういう話じゃない!」
父親はくすくす笑った。
そして、僕の肩を軽く叩いた。
「まったく、変な子ねぇ〜♪」
そう言い残して、部屋を出ていった。
階段を下りながら、鼻歌まで歌っている。
僕はその場に立ち尽くした。
「…………」
何だ。
これは。
どういうことだ。
僕は確かに、あの男の未来を変えた。
それなのに、僕は消えていない。
なぜだ。
僕の理論が間違っていたのか?
いや。
そんなはずはない。
僕は天才だ。
僕の計算に間違いなどない。
だとすれば。
「……まさか」
僕はゆっくりと顔を上げた。
ある可能性が、脳裏をよぎった。
そもそも。
あの男が、僕の本当の父親ではなかったとしたら?
「…………!」
そうだ。
そう考えれば、全て説明できる。
僕が消えなかった理由。
父親の姿だけが変化した理由。
そして、僕の出生が維持されている理由。
「……そういうことか」
僕は笑った。
最初は小さく。
やがて、声を上げて。
「ははは……ははははは!」
何ということだ。
僕は、とんでもない勘違いをしていたらしい。
四十二年間、父親だと思っていた男。
あの男は、僕の本当の父親ではなかったのだ。
「……なるほど」
僕は机に向かった。
紙を取り出し、新たな計算を始める。
必要なのは、真の父親を特定すること。
遺伝的なつながり。
母親の交友関係。
出生時期。
そして、過去の記録。
調べるべきことは山ほどある。
だが、問題ない。
僕には、世界最高峰の頭脳がある。
そして。
時間を自由に移動できる装置がある。
「……待っていろ」
僕はペンを握りしめた。
「本当のオヤジ……」
必ず見つけ出してやる。
今度こそ。
間違いなく。
僕の人生を狂わせた、本当の製造元を。
そのとき、階下から声が響いた。
「ねぇ〜! フレンチトースト冷めちゃうわよぉ〜♡」
「うるせえええええ!!!」
僕は叫んだ。
そして、ふと考えた。
……いや。
待てよ。
フレンチトーストか。
今朝はカビの生えたパンだった。
腹も減っている。
「…………」
僕は静かにペンを置いた。
復讐は重要だ。
しかし、食事も重要だ。
科学者として、栄養補給を軽視するわけにはいかない。
僕は階段へ向かった。
下から、甘い香りが漂ってくる。
バター。
砂糖。
焼きたてのパン。
「……悪くない」
僕は小さくつぶやいた。
少なくとも。
オヤジの金玉を刈った結果、朝食の品質は劇的に向上したらしい。
実に興味深い研究成果だった。
――第三話・完――
人類史上初の時間改変実験は、予想外の結果となりました。
主人公は消滅せず、父親は劇的な変貌を遂げました。
さらに、失われた髪の毛が復活し、住環境も改善。
朝食はカビの生えた食パンから、フレンチトーストへと進化しました。
客観的に見れば、人生はかなり改善しています。
しかし、本人は納得していません。
どうやら問題は、まだ金玉にあるようです。
次回、新たな製造元を探す旅が始まります。




