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第一話「生まれてきたのが間違いだった。」

これは、一人の天才科学者が自らの不幸と真剣に向き合い、人生を根本から変えようとする壮大なSF作品です。

なお、研究の方向性については、一切の責任を負いかねます。

僕は天才だった。


自慢などではない。事実だ。


幼少期から常識を超えたと知能を持ち、数々の難問を解決してきた。


僕が考案した理論は、今や世界中の研究機関で利用されている。


僕が発明した技術で莫大な富を築いた企業もある。


人類の発展に、少なからず貢献してきたつもりだった。


そんな僕の今朝の食事は、カビの生えた食パンだった。


「…………」


青緑色の斑点が、見事な勢いで繁殖している。


賞味期限は四日前。


昨日までは大丈夫だった。


空腹には代えられない。


僕はカビの部分だけを無造作に取り除き、残りを口に運んだ。


「……まずい」


人類の科学技術を何十年も進歩させた男が、朝食のパンすら満足に食えない。


笑うしかない話だ。


しかも、ここは僕の自宅ですらない。


廃業した町工場の一角を借りている。


雨漏りする天井、ひび割れた窓、冬になれば外とほぼ同じ気温になる研究室。


風呂はない。


暖房もない。


トイレはあるが、時々流れない。


唯一まともに動いているのは、僕が改造した電気設備だけだった。


研究に必要だからだ。


生活に必要な設備は、予算の都合で後回しにした。


その結果、研究室の奥には数千万円相当の装置が並び、僕はカビの生えたパンを食べている。


何かがおかしい。


絶対におかしい。


---


思い返せば僕の人生は、生まれたときから不幸だった。


父親は、どうしようもない男だった。


酒、博打、借金。


この三つに関してだけは、実に勤勉だった。


仕事はすぐに辞めるくせに、パチンコ屋には毎日欠かさず出勤する。


しかも、驚くほど負ける。


確率論を少しでも理解していれば、あそこまで負け続けることは難しいはずだ。


ある意味、才能の持ち主だった。


僕が小学生の頃、父親はよく言っていた。


「お前、誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ!」


そのたびに、僕は不思議に思っていた。


飯を作っているのは母親だ。


食費を稼いでいるのも母親だ。


父親は、その飯を食っているだけではないか。


一度だけ、その疑問を口にしたことがある。


殴られた、それも死ぬほど。


なるほど。


この男は議論で勝てないと、物理的な手段に移行するらしい。


実に原始的だ。


母親は僕が十歳の頃に家を出た。


ある朝、起きたらいなくなっていた。


置き手紙もなかった。


父親は三日ほど怒鳴り散らしていたが、四日目にはパチンコへ行った。


僕はそれから、ほとんど一人で生活するようになった。


父親は家にいても、いないのと大して変わらなかった。


むしろ、いない方が食費が減るので助かった。


それでも、僕は勉強した。


勉強すれば、この生活から抜け出せる。


優秀な人間になれば、必ず報われる。


そう信じていた。


ところが、学校でも僕は歓迎されなかった。


教師の間違いを指摘すれば怒られ、授業で習っていない数式を使えば減点された。


あるとき、数学教師に言われた。


「お前は協調性がない」


理解できなかった。


数学の問題を解くのに、なぜ他人と協調する必要があるのだろう。


僕は正しい答えを出している。


間違っているのは教師だ。


それなのに、怒られるのは僕だった。


同級生からも嫌われた。


僕が話しかけると、なぜか皆いなくなる。


親切心から勉強を教えてやっても、途中で帰ってしまう。


「こんな簡単なことも分からないのか?」


たったそれだけの質問で、泣き出した奴までいた。


世の中には、本当に理解できない人間が多い。


結局、友人は一人もできなかった。


---


大人になれば状況は変わる。


そう期待していた。


だが、大学へ進んでも、就職しても、何も変わらなかった。


大学では、僕の研究成果を教授が自分のものとして発表した。


抗議したら研究室を追い出された。


企業へ就職すると、今度は上司が僕の発明を横取りした。


会社は大儲けした。


上司は昇進した。


僕は退職した。


退職理由は、上司との人間関係の悪化。


人間関係?


僕の発明を盗んだ泥棒を泥棒と呼んだだけだ。


それの何が悪い。


この世界は、どこか根本的に間違っている。


恋愛も同じだった。


一度だけ、僕にも恋人ができた。


彼女はよく笑う女性だった。


僕の話を最後まで聞いてくれる、珍しい人間だった。


ある日、彼女に聞かれた。


「ねえ、私のこと好き?」


突然の質問だった。


好きかどうか。


実に難しい問題だ。


好意という感情は、脳内物質の分泌、過去の経験、相手への依存度など、複数の要因によって形成される。


僕は慎重に考えた。


そして、正直に答えた。


「現在、検証中だ」


その場で振られた。


「あなたには人の心がない」


最後にそう言われた。


失礼な話だ。


心臓なら、ちゃんとある。


---


四十二歳。


僕には、何もなかった。


家族はいない。


友人もいない。


恋人もいない。


仕事もない。


貯金もない。


あるのは、誰よりも優秀な頭脳と、大量の研究機材。


そして、最近では髪の毛まで減ってきた。


「…………」


僕は机の上に置かれた小さな鏡を見た。


頭頂部が薄い。


明らかに薄い。


人類が抱える難問をいくつも解決してきたというのに、自分の毛根すら救えない。


「……ふざけるな」


僕は鏡を伏せた。


なぜだ。


なぜ僕だけが、こんな人生を送らなければならない。


世の中には、僕より頭の悪い人間が山ほどいる。


ろくに勉強もしない。


何の発明もしない。


それでも、結婚して、子供を作って、家を建てて、幸せそうに暮らしている。


一方、僕はどうだ。


人類の進歩に貢献してきた。


誰にも解けない問題を解決してきた。


なのに、今朝食べたのはカビの生えた食パンだ。


しかも、まだ腹が減っている。


「……おかしい」


こんな理不尽が許されていいはずがない。


僕は考えた。


これまでの人生を振り返り、不幸の原因を一つずつ洗い出した。


家庭環境。


教育環境。


経済状況。


人間関係。


職場。


恋愛。


何もかもが失敗だった。


しかし、科学者である僕は知っている。


あらゆる現象には原因がある。


原因を取り除けば、結果も変わる。


つまり、僕の不幸を根本から解決するには、全ての不幸に共通する原因を突き止めればいい。


僕は紙に書き出した。


学校で嫌われたのは、学校へ通ったからだ。


学校へ通ったのは、子供だったからだ。


子供だったのは、生まれてきたからだ。


仕事で裏切られたのも同じだ。


就職したから裏切られた。


就職したのは、大人になったからだ。


大人になったのは、生まれてきたからだ。


恋人に振られたのも、生まれてきたからだ。


髪の毛が減ったのも、生まれてきたからだ。


カビの生えたパンを食べたのも、当然、生まれてきたからだ。


「…………!」


僕はペンを止めた。


なんということだ。


全ての不幸に、共通する原因があった。


僕が生まれてきたことだ。


そうだ。


生まれてこなければ、何も起こらなかった。


学校で嫌われることもない。


仕事で裏切られることもない。


女に振られることもない。


髪の毛が抜けることもない。


カビの生えたパンを食べることもない。


完璧だ。


実に完璧な理論だった。


だが、ここで新たな疑問が生まれた。


そもそも、僕はなぜ生まれてきたのか。


母親が産んだから?


いや、違う。


母親一人で子供は作れない。


もう一人、必ず原因となる人間が存在する。


僕の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。


酒臭い息。


だらしない腹。


負け続けるパチンコ。


そして、幼い頃に何度も聞かされた言葉。


『お前、誰のおかげで生まれてこられたと思ってんだ!』


「…………」


僕は立ち上がった。


そうか。


あの男は、最初から知っていたのか。


僕が生まれた原因が、自分にあることを。


「……オヤジ」


全てがつながった。


僕の不幸。


僕の人生。


僕が生まれてきた理由。


その全ての原因が、あの男に集約されていた。


つまり。


「全てはオヤジの金玉が悪い。」


僕は確信した。


そうだ。


あの男の金玉さえなければ、僕は生まれてこなかった。


生まれてこなければ、不幸になることもなかった。


これ以上、明快な答えがあるだろうか。


ない。


断じてない。


僕は机を叩いた。


ようやく分かった。


四十二年間、僕を苦しめてきた全ての元凶。


あの男の金玉だ。


しかし、一つ問題がある。


今さら金玉を取り除いても、僕はすでに生まれてしまっている。


それでは意味がない。


必要なのは、僕が生まれる前に取り除くことだ。


普通の人間なら、ここで諦めるだろう。


過去には戻れない。


時間は巻き戻せない。


それが人類の常識だからだ。


だが、僕は天才だ。


常識など、凡人が自分の限界を正当化するために作った言葉にすぎない。


僕はゆっくりと研究室の奥へ向かった。


そこには、頑丈な鉄の扉がある。


電子錠を解除すると、重い扉が静かに開いた。


薄暗い部屋の中央。


巨大な円形の装置が、青白い光を放っていた。


何年もかけて設計し、研究費の全てをつぎ込んだ装置。


このために生活を切り詰め、食事を削り、あらゆるものを犠牲にしてきた。


最後にまともな肉を食べたのは、いつだっただろう。


だが、そんなことはどうでもいい。


ついに完成したのだ。


人類史上初のタイムマシンが。


僕は装置に乗り込み、操作盤に手を置いた。


行き先は、僕が生まれる前の時代。


あの男が、まだ若かった頃。


目的は一つ。


この世から、僕という存在を消し去ることだ。


僕さえ生まれてこなければ、全ての不幸が消滅する。


これこそ、人生における究極の問題解決法。


僕は静かに目を閉じた。


そして、長年の恨みを込めてつぶやいた。


「オヤジのキンタマ……待ってろよ……」


「必ず切り落としてやる……」


そして、装置が低い唸り声を上げ始めた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

四十二歳の天才科学者が、長年の苦悩の末に導き出した結論が、あれです。

次回、いよいよ実証実験が始まります。

なお、本作に登場する研究方法は、決して真似しないでください。

特に金玉。

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