第9話 バルコニーの罠と、冷たい手のひら
熱気に満ちた大舞踏会を抜け出し、エレノアは王宮の西翼にある静かなバルコニーへと逃げ込んでいた。
ひんやりとした夜風が、火照った体に心地よい。見上げる夜空には満天の星が輝き、遠くからは楽団の奏でる音楽がかすかに響いてくる。最高のロケーションだった。
最高のはず、なのだが――。
「……あのおしとやかな殿下、絶対にステップの合間に私の足払いを狙ってきていたわよね!?」
エレノアは誰もいないことを確認し、バルコニーの手すりにぐったりと寄りかかった。
「何が『手応えのあるダンス』よ!あんなのダンスじゃなくて、実家の兄たちと毎日やってた『間合いの潰し合い』と全く同じ緊張感じゃないの!ああ、神様。都会のスパダリって、みんなあんな風に、淑女の体幹の限界値を試してくる生き物なのですか……!?」
はぁ、と重いため息をつく。
しかし、エレノアはすぐに両手で自分の頬をパチンと叩き、鏡を見るように姿勢を正した。
「いけないわ、つい弱音が。これもきっと、殿下が私を『特別』だと思ってくださっているからこその、熱烈なスキンシップに違いないわ!そうよ、ポジティブにいかなくちゃ。私は生まれたての小鹿、優雅で儚いハチミツ色の小鹿……」
「生まれたての小鹿は、そんなに見事なステップを踏まないと思うが」
「ひゃっ!?」
突如、背後から降ってきた冷ややかな美声に、エレノアの背筋が跳ね上がった。
驚異的な反射神経で振り返ると、そこには夜の闇を背負い、プラチナ色の髪を月光に輝かせたフェルナンド王太子が立っていた。いつの間に近づいたのか、気配が全くなかった。
「で、殿下……!いつからそこに……?」
「君が自分のことを小鹿と呼び始めたあたりからだ」
フェルナンドは一切の感情を排した美しい氷の仮面をまとったまま、ゆっくりとエレノアへ近づいてくる。エレノアは本能的な危険を察知し、じりじりと後退したが、すぐに背中がバルコニーの冷たい石壁に当たった。
逃げ場はない。
フェルナンドはエレノアの目の前まで来ると、逃がさないとばかりに、彼女の顔のすぐ横の壁にスッと長い腕をついた。
ドン、と静かな音が響く。
(こ、これは……巷の令嬢たちが失神するっていう、伝説の『壁ドン』……!!)
至近距離にあるフェルナンドの美貌、漂う高級な琥珀の香りに、エレノアの心臓は別の意味で爆発しそうだった。
(ついにロマンスが始まったわ!ここで目を閉じて、少し顎を上げればいいのね!?)
エレノアがうっとりと目を閉じ、小刻みに震えながら待機していると――。
――そっと、自分の右手が持ち上げられた。
(まぁ!手の甲にキスをしてくださるのかしら!?)
期待に胸を膨らませて薄目を開けたエレノアだったが、次の瞬間、彼女の動きは完全に硬直した。
フェルナンドの冷たい指先が触れていたのは、彼女の手の甲ではなく、手のひらの「親指の付け根」と「人差し指の第二関節」のあたりだった。
そこは、長年の木刀の修練によって、どれだけ香油を塗って隠そうとも消えなかった、強固に仕上がっている「剣ダコ」の跡だった。
フェルナンドの親指が、その硬い皮膚をゆっくりとなぞる。
彼の琥珀色の瞳が、獲物を完全に捕らえた猛獣のように、冷たく、鋭く光った。
「フローレンス男爵令嬢。君の手は、刺繍とハーブティーだけで作れるものではないな」
低い、低音の効いた声がエレノアの鼓膜を震わせる。
「この位置のマメは、重い兵器を長年握り締め、なおかつそれをミリ単位で制御してきた『手練れ』にしかできないものだ。……君は一体、何者だ?我が王宮に、何の目的でその牙を隠して潜り込んだ?」
甘いロマンスの空気は一瞬で消し飛び、バルコニーは一触即発の戦場のような緊張感に包まれた。
フェルナンドは、エレノアを他国からの暗殺者、あるいは優秀な密偵だと完全に疑っていた。
(し、しまっ、たわァァァ――!!!)
エレノアの脳内に、最大級の警戒警報が鳴り響く。
ここで正体がバレたら、おしとやかなお妃様ライフどころか、国家反逆罪で地下牢行きだ。
エレノアは涙目で、必死に脳細胞をフル回転させた。そして、極限状態の脳が弾き出したのは、あまりにも無理がありすぎる、とんでもない言い訳だった。
「……こ、これは、その、ゴボウですわ!!」
「……何?」
フェルナンドの美しい眉が、ピクリと動いた。
「ゴボウですの!我がフローレンス領は自然が豊かで、とても硬くて立派なゴボウが採れますの!私、お料理が大好きで、毎日毎日、お父様とお兄様たちのために、その固いゴボウを千切りにし続けておりましたら……いつの間にか、このようなゴボウダコができてしまいましたの!お、お恥ずかしいわ……ううっ」
エレノアは完璧な角度で顔を覆い、さも恥ずかしそうに肩を震わせ嘘泣きを繰り出した。
静寂がバルコニーを支配する。
フェルナンドは、目の前で大真面目に「ゴボウの千切り」を主張するハチミツ色の令嬢を、ただ無言で見つめていた。
いかなる嘘も冷徹に見抜いてきた王太子だったが、ここまで堂々と、そしてあまりにも馬鹿馬鹿しい言い訳を、これほど完璧な淑女の顔で突きつけられたのは人生で初めてだった。
「……ゴボウ、だと?」
「はい……。それも、鉄のように硬い、特製のゴボウにございます……」
エレノアは潤んだ瞳でフェルナンドを見上げた。
フェルナンドは、彼女の細い腕の奥に隠された「一国の軍隊すら圧倒できそうな気配」と、この「凄まじいまでのすっとぼけ」のギャップに、呆れるのを通り越して、胸の奥から突き上げてくる妙な衝動を抑えきれなくなっていた。
「くっ……ふふ、はははは!」
突如、フェルナンドが声を上げて笑い出した。
あの「氷の王太子」が、周りの目も気にせず、心底楽しそうに笑っている。
「面白い。実におもしろいな、エレノア・フローレンス。君のような女は、私の人生で初めてだ」
フェルナンドは壁から手を離すと、エレノアの手のひらをもう一度見つめ、その不敵な笑みを深くした。
「いいだろう。その『ゴボウの千切り』の成果、これからじっくりと近くで見極めさせてもらう」
(えっ?近くで?それってどういう――)
エレノアが首を傾げた瞬間、王宮の広間から、夜会の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いた。




