第8話 恐怖のファーストダンス
宮廷楽団が奏でる優雅なワルツの旋律が、大舞踏会の高い天井へと響き渡る。
きらびやかな照明の下、次々と貴族のペアがフロアの中央へと進み出て、美しい大輪の花を描くように踊り始めていた。
そんな中、フロアの喧騒から少し離れた壁際で、エレノアは一人、シャンパングラスを片手に胸を躍らせていた。
(うふふ……。先ほどは殿下から『良い足腰だ』なんていう、ちょっと個性的で情熱的な褒め言葉をいただいちゃったわ。都会のスパダリの愛の囁きって、なんて高尚なのかしら!)
完全に都合の良い脳内変換を完了させたエレノアは、うっとりと頬を染めていた。
あとは、この夜会のどこかで殿下からダンスに誘われ、彼の広い胸の中に飛び込むだけ。妄想の中の自分は、ドレスの裾をひらひらと揺らしながら、ただ殿下の完璧なリードに身を任せて微笑むだけの可憐な妖精だ。
「フローレンス男爵令嬢」
突如、鼓膜を心地よく震わせる低い声がした。
ハッと我に返ったエレノアが視線を上げると、そこにはいつの間にか、プラチナ色の髪を揺らしたフェルナンド王太子が立っていた。
周囲の令嬢たちから、一斉に嫉妬と羨望の悲鳴のような息をのむ音が聞こえる。
フェルナンドは一切の感情を排した美しい氷の仮面をまとったまま、エレノアに向けて、優雅に右手を差し出した。
「私と一曲、踊ってくれないか」
(き、きたわァァァ――!!!)
エレノアの心の中で、喜びの爆竹が百発ほど同時に破裂した。
しかし、表面上はどこまでも気高く、おしとやかに。エレノアは完璧な角度で微笑み、その細い手を彼の掌へと重ねた。
「……喜んで、フェルナンド殿下」
フェルナンドの手は、驚くほどに大きくて固く、そして温高かった。
彼に導かれるようにしてフロアの中央へと進み出ると、周囲に大きな円ができる。注目の的だ。
フェルナンドの左手がエレノアの細い腰へと回され、曲のテンポが変わる。
完璧なロマンスの始まり――のはずだった。
(……あら?)
ステップが始まってわずか三歩目。エレノアの背筋に、ゾクッとした奇妙な戦慄が走った。
フェルナンドのリードが、おかしいのだ。
通常、男性側は女性が踊りやすいように優しく進路を示すものだが、フェルナンドの引き寄せる力は、まるで獲物を網に追い詰める猟師のように冷徹で、容赦がなかった。
(これ、右足を踏み込むタイミングが、通常よりコンマ二秒早いわ……!普通のご令嬢なら、自分のドレスの裾を踏んで派手に転んでいる間合いよ!?)
フェルナンドの琥珀色の瞳が、至近距離でエレノアをじっと見下ろしている。その目は「さあ、どうする?」と愉しげに語りかけているように見えた。
彼はわざと、令嬢には処理しきれない変則的なステップを仕掛け、エレノアのバランスを崩そうとしていたのだ。
(おのれ……!都会のスパダリのダンスって、こんなにアグレッシブなの!? でも負けないわ!私の完璧なお妃様ライフのためだもの、意地でも転ぶわけにはいかないわ!)
エレノアの「戦闘狂の血」が、おしとやかな仮面の裏側でパチリと火花を散らした。
フェルナンドが急にリードの手を緩め、エレノアをわざと突き放す。普通の令嬢なら、遠心力で無様にすっ飛んでいく局面だ。
「――あら、あ~れ~……♡」
エレノアは、これ以上ないほど可憐な悲鳴を上げた。
しかし、その実態は凄まじいものだった。
遠心力に引きずられそうになる体を、エレノアは驚異的な背筋のバネと、ドレスの奥で極限まで引き締まった大腿部の筋肉だけで強引に制御。軸をミリ単位でおさめ、まるで一本の美しいコマのように、その場で高速かつ優雅に三回転してみせたのだ。
ラベンダー色のシルクが、夜空に咲く大輪の花のようにふわりと広がり、完璧な軌道を描いてフェルナンドの胸元へと戻る。
「……ほう」
フェルナンドの喉から、感嘆とも、確信ともとれる低い声が漏れた。
再びエレノアの腰を抱きとめた彼の腕には、先ほどよりも明らかに強い力が込められている。
「素晴らしい身のこなしだ、エレノア。今ので倒れないばかりか、完璧なターンに繋げるとは。君の反射神経は、宮廷のどの近衛騎士よりも優れているな」
「お、お褒めいただき光栄ですわ、殿下……♡」
エレノアは必死に呼吸を整えながら、引きつった笑顔で、心の中で血の涙を流していた。
(もう嫌だわこのスパダリ!!さっきからステップの合間に、さりげなく私の足払いを狙ってきていないかしら!?これ、ダンスっていうより、実家で兄上たちとやってた『目隠し組手』と全く同じ緊張感なんだけど!!)
曲の終わりに向けて、フェルナンドの攻勢はさらに激しさを増していく。
右へ、左へ、あえて重心を揺さぶるような意地悪なリード。それを、エレノアは「おほほ」「まぁ」と可憐に微笑みながら、超人的なフィジカルですべて完璧にリカバーし、ダンスの形へと昇華させていった。
周囲の貴族たちは、そのあまりにも高度で美しい、息の合った――ように見える――二人のダンスに、割れんばかりの拍手を送っている。
ジャァァン、と曲の最後の音が鳴り響き、二人は完璧なポーズで静止した。
エレノアは、額ににじみそうになる汗を必死に引っ込め、深々と一礼する。
「……素敵なダンスを、ありがとうございました、殿下」
「こちらこそ。これほど『手応え』のあるダンスは初めてだったよ、フローレンス嬢」
フェルナンドは、その琥珀色の瞳に、これまでにないギラギラとした、異常なまでの執着の光を宿して微笑んでいた。
普通の令嬢ならその美貌に失神するところだが、エレノアは本能的な危険(デスゲームの気配)を察知し、一刻も早くこの場から逃げ出したいという衝動に駆られていた。




