第10話 王太子妃候補への大抜擢、ただし実家は戦意高揚中
バルコニーから熱気に満ちた大舞踏会へと戻る道すがら、エレノア・フローレンスのステップは、いつも以上に軽やかだった。もちろん、周囲の目を意識して「風に舞う花びら」のような儚げなキャットウォークを維持してはいるが、その胸中は勝利の凱歌で満ち溢れていた。
(あ、笑ってくださったわ……!あの『氷の至高王太子』と恐れられるフェルナンド殿下が、私を見てあんなに楽しそうに、魅力的に笑ってくださったのよ……!これって完全に、落としちゃったんじゃないかしら!?)
エレノアはそっと、自分の右の手のひらを見つめた。
殿下に「刺繍だけで作れるものではない」と指摘された、忌々しき剣ダコの跡。一時は国家反逆罪で地下牢行きかとおののいたが、極限状態の脳細胞が弾き出した「鉄のように硬いゴボウの千切り」という、我ながら人類の歴史に残るレベルの完璧な言い訳が見事に効いたのだ。
(都会のスパダリって、ちょっと家庭的で、かつユーモアのあるギャップに弱いのね!毎日ゴボウを千切りにする私を、なんて健気で愛らしい娘なんだって思ってくださったに違いないわ。うふふ、刃物の扱いの練習をしておいて本当に良かったわ)
すっかり都合の良い脳内変換を完了させたエレノアは、ラベンダー色のドレスの裾をエレガントに揺らしながら、フロアの中央へと戻っていった。
夜会もいよいよ終幕へと近づき、会場のボルテージが最高潮に達したその時。
宮廷楽団の演奏がピタリと止まり、会場の正面、一段高くなった王座の前へとフェルナンド王太子が再び姿を現した。
その場にいた数百人の貴族たちが一斉に動きを止め、波が引くように美しいカーテシーの姿勢をとる。水を打ったような静寂が、大理石の広い空間を支配した。
「諸卿、今宵は我が夜会に集まってくれて感謝する」
フェルナンドの声は、低く、そして冬の初雪のように冷たく会場に響き渡った。そのプラチナ色の髪が魔導灯の光を浴びて神聖に輝いている。
「宴の締めくくりに、一つ私から発表がある。長らく空席となっていた、次の『王太子妃候補』――すなわち、お妃教育を施すに足る令嬢の選定についてだ。今回、私は自らの意志で、ある一人の令嬢をそのリストに追加することに決めた」
その言葉が出た瞬間、会場の令嬢たちの間に、目に見えないパチパチとした火花が散った。
特に、昼間にサロンでエレノアを「鉄の味がする領地」と煽った名門マルキーズ公爵令嬢などは、勝利を確信したようにふんぬと胸を張り、縦ロールの髪を揺らしている。誰もが、王都の洗練された大貴族の中から選ばれるのだと信じて疑わなかった。
しかし、フェルナンドの冷徹な琥珀色の瞳は、そんな大貴族たちの群れをあっさりと通り過ぎ――壁際で小さく息を潜めていた、蜂蜜色の髪の少女を正確に射抜いた。
「フローレンス男爵家が令嬢、エレノア・フローレンス。君を、新たな妃候補として王宮に迎える」
「……はいっ!?」
エレノアは思わず、本日二回目となる、およそ淑女らしからぬ素っ頓狂な声を上げそうになった。
一瞬の静寂の後、大舞踏会は爆発したかのような驚愕のどよめきに包まれた。
「フローレンス……?あの、南方の筋肉まみれの田舎貴族か!?」
「まさか、王太子殿下が直々に指名されるなんて……一体どんな手を使ったの!?」
周囲から一斉に突き刺さる、ナイフのような嫉妬の視線と、困惑の囁き。
だが、エレノアの脳内フィルターは、それらの雑音をすべて「祝福のフラワーシャワー」へと変換していた。
(やったわ……!完璧に一目惚れされちゃったわ!!ゴボウの千切りが大逆転満塁ホームランを放ったのよ!『君のような不器用な女性は初めてだ』って、殿下の瞳がそう語りかけているわーー!!)
エレノアは内心で全力のガッツポーズを繰り出しつつ、表面上はこれ以上ないほど慎ましい、可憐で儚げな一礼をフェルナンドへと捧げた。その姿は、あまりの幸運に震えている深窓の令嬢そのものであった。
しかし。
お立ち台の上からエレノアを見下ろす、フェルナンドの氷の仮面の裏側にあったのは、愛などでは断じてなく、極上の「不敵な企み」であった。
フェルナンドは、優雅に頭を垂れるエレノアの、ドレス越しでもわかる完璧な脱力状態、いつでも一歩目を音速で踏み出せる暗殺者の構えを凝視していた。
(エレノア・フローレンス……。あれほどの手練れでありながら、私を前にして『ゴボウの千切り』などというあからさまな嘘を、平然と涙目で吐いてのける怪物。他国の巧妙な密偵か、あるいは王権を揺るがそうとする過激派の伏兵か。どちらにせよ、あの危険分子を野放しにはできん)
フェルナンドの唇の端が、冷ややかに、愉しげに吊り上がる。
(王宮という我が絶対の領域に囲い込み、その化けの皮を徹底的に剥ぎ取ってやる。……まずは明日から、生半可な工作員なら三日で精神が崩壊するほどの『地獄のお妃教育』を用意しよう。あの『鉄のゴボウをへし折る足腰』が、いつまで淑女のフリを保てるか……じっくりと観察させてもらうぞ)
「近くで見極める」とは、文字通り「国家最高レベルの監視監獄にぶち込む」という意味だったのだが、ハチミツ色のポジティブ脳筋令嬢がそれに気づくはずもなかった。
◇
翌朝。王都の貴族街に佇む、フローレンス別邸。
「お、お嬢様ァァァ!!大変でございます!大変なことになってございますーー!!」
別邸の静かな朝を引き裂いたのは、三十年来フローレンス家に仕えるベテランメイド、マーサの悲鳴であった。彼女は文字通り顔面を蒼白にし、お盆の上に乗せた朝食のスープを激しく波立たせながら、エレノアの寝室へと飛び込んできた。
ベッドの上で、シルクのネグリジェを着たエレノアは、優雅に、実際には背筋の力だけで上体を綺麗に90度起こして、目を覚ました。
「まぁマーサ、朝から騒々しいわよ。私、今日から王太子妃候補として、王宮に召し出されるのですから。もっとお上品に、そよ風のように入室なさい」
「そんなことを言っている場合ではございません!これをご覧ください!王宮からの正式な『召喚状』、そして……夜が明ける前に領地から超特急の早馬で届いた、お旦那様と若旦那様方からの親書にございます!」
「あら、お父様とお兄様たちから?なんだかんだ言って、私が一晩で国の頂点を射止めてみせたから、お祝いのお肉でも送ってくださるのかしら」
エレノアはふふっと微笑み、マーサから差し出された手紙を受け取った。
しかし、その手紙に目を落とした瞬間、エレノアの美しい蜂蜜色の眉がピクリと跳ね上がった。
手紙の紙面は、いつもは豪快なライナスや父の筆跡とは思えないほど、ガタガタと激しく震え、インクのシミがいくつも飛び散っていた。そこには、悲壮感と、何故か異常なまでの戦意に満ちあふれたメッセージが書き殴られていた。
『愛しき我が妹、エレノアへ。
……お前が「ドレスを汚したくない」などと言って、丸腰の戦術的縛りプレイで夜会に乗り込んだと聞いた時、我々フローレンス家の男たちは、お前の命が尽きる覚悟すらしていた。
だが……まさかお前が、たった一晩で、王国の最高権力者であるフェルナンド王太子を【物理的に】脅迫し、妃の座を毟り取ってくるなどとは、夢にも思っていなかった……!
流石は我が一族史上、最高の『怪物』だ。あの冷徹王太子の喉元に、一体どのような暗器を突きつけ、どのようなステップで間合いを詰めて恐怖を植え付けたのだ?
しかしエレノア、王宮は魑魅魍魎の巣窟だ。お前に脅された王太子が、お妃教育という名の『地獄の拷問』でお前を誅殺しようと画策しているという情報が入った。
安心しろ。我がフローレンス家も覚悟を決めた。もし王宮がお前に一滴でも血を流させるような真似をすれば、我々は即座に『全軍に突撃命令』を下し、領地の精鋭を率いて王都の城壁を粉砕する!
王宮の内部はお前が素手で制圧しろ。外側は俺たちが引き受ける。死ぬなよ、エレノア。生き延びて、王座を奪い取るんだ……!!』
バリバリバリバリッ!!!
エレノアは手紙を読み終えた瞬間、音速の握力で紙を丸め、そのまま凄まじい圧力をかけて完全なる紙の粉塵へと変えた。寝室に白い紙の粉がハラハラと舞い散る。
「毟り取ってないわよォォォ!!!誰も殿下を物理的に脅迫してないわよ!!普通に! 甘くておしとやかな!ロマンスをした結果でしょーがァァァ!!!」
エレノアの怒号が別邸を震わせ、庭の木から小鳥たちが一斉に飛び立った。
「あと何よ『王宮を素手で制圧しろ』って!!私は制圧する側じゃなくて、殿下に『大丈夫かい、僕のか弱い小鳥』って抱きしめられる側になるの!!誰がドレス姿でクーデターを起こすのよ!!」
「お嬢様、落ち着いてくださいませ!呼吸が完全に『戦場』のそれになっております!筋肉が活性化してドレスの肩紐が千切れそうです!」
マーサが慌ててリラックス効果のあるお香を焚き、冷たい湧き水を差し出す。エレノアはハァハァと荒い息を吐きながら、実家の脳筋一族による、あまりにも物騒すぎる勘違いに頭を抱えた。
「ああ……あぶないわ。実家の戦闘狂ウイルスに毒されて、淑女の心が乱れるところだったわ……。おしとやかに、お上品に……私は生まれたての小鹿……王宮に行くのは、お妃教育という名の、甘い甘い花嫁修業よ……」
胸元を押さえ、何度も深呼吸を繰り返して、筋肉の緊張をほぐしていく。
実家からの物騒すぎる激励のせいで余計なエネルギーを消費したものの、エレノアの決意はむしろ鋼鉄のように固まっていた。
絶対に、今日から始まる王宮生活を、完璧な「可憐さ」で乗り切ってみせる。
そして、実家の筋肉まみれのむさ苦しい日常と決別し、優雅で甘い、王子様との薔薇色のお妃様ライフを手に入れるのだ、と。
――こうして。
勘違い度1000%のポジティブ可憐令嬢と、彼女を国家を揺るがす最警戒の暗殺者と疑う冷徹王太子による、「絶対に負けられない王宮デスゲーム(ただし片方は激甘ラブコメ中)」の幕が、ついに切って落とされるのであった。




