第11話 お妃教育の始まりと、空飛ぶ植木鉢
「……私の、ゴボウの千切りアピールが、あそこまで深く殿下のハートに突き刺さるなんて!」
王宮の離宮へと向かう馬車の中で、エレノアは自らの完璧な家庭的アピール(※実際はただの苦し紛れの嘘)の成果に、深く感動していた。
あの夜会から数日後、フローレンス男爵邸に届いたのは、なんとエレノアを「王太子妃候補」の末席に加えるという、王宮からの正式な召喚状だったのだ。
同行しているマーサは、王宮の巨大な門を見上げながら、およそメイドらしからぬ不穏なため息をついていた。
「お嬢様、くれぐれも忘れないでくださいませ。王宮は戦場。周囲の令嬢たちはすべて、お嬢様の首を狙う敵兵も同然。実家の若旦那方からは『もしもの時は、離宮の北側から突入して退路を確保する』と伝言を預かっております」
「いりません!!お兄様たちに戦闘モードで王宮に突入されたら、それこそ我が家が滅びるわ!いい、マーサ?私は今日から、都会の洗練された令嬢たちと、お紅茶の淹れ方や詩の朗読を学ぶの。血生臭い要素は一切お断りよ!」
エレノアはふんぬと胸を張り、馬車を降りた。
お妃教育の舞台となるのは、王宮の奥に佇む、白亜の壁と美しい薔薇の庭園に囲まれた「睡蓮離宮」。
そこにはすでに、王国の名門貴族から選りすぐられた数人の令嬢たちが集まっていた。
中央に座っているのは、やはりあの仕立屋でエレノアを煽ってきた、マルキーズ公爵令嬢である。彼女はエレノアが部屋に入ってきた瞬間、分かりやすく「チッ」と上品に、しかし確実に舌を鳴らした。
「あら、皆様。遅れてしまって申し訳ありませんわ」
エレノアは、事前に猛特訓した「生まれたての小鹿」のような儚げな微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
しかし、周囲の令嬢たちは誰一人として挨拶を返さない。それどころか、扇で口元を隠しながら、クスクスと冷ややかな笑みを漏らしていた。
(まぁ……!これが噂に聞く、都会の社交界の『無視』という高度な精神攻撃ね!お兄様たちの『無言の背後からの鉄拳』に比べたら、なんて平和で行儀が良いのかしら!私、なんだか感動しちゃうわ!)
エレノアは一人でズレた感動に震えていた。精神的な打撃はゼロである。
午前中の講義は、王宮の厳しい老家庭教師による「宮廷の歴史と礼儀作法」。
エレノアは実家で叩き込まれた「戦術論」や「暗号解読」の知識を必死に脳の奥底に封印し、ただの「無知でか弱くて可愛い男爵令嬢」を完璧に演じきった。
そして昼休憩。
生徒たちは、離宮の中庭に面した美しい回廊を通って、昼食の会場へと移動することになった。
回廊の脇には、見上げるほど高い石壁がそびえ立ち、その上部には色鮮やかなゼラニウムの鉢植えがいくつも飾られている。
エレノアが、一歩、二歩と回廊を進んでいた、その時だった。
――ヒュッ。
常人の耳には絶対に届かない、微かな「空気を切り裂く風切り音」が、エレノアの優れた聴覚を捉えた。
上空、およそ十メートル。
誰かがわざと押し出したのだろう。大理石でできた、総重量三十キログラムはあろうかという巨大な植木鉢が、エレノアの頭上をめがけて真っ逆さまに落下してきていた。
(……狙いは、私ね。避けるのは簡単だけど――)
エレノアの超人的な動体視力は、自分の後ろを一歩遅れて歩いている、荷物を持った一般メイドの姿を捉えた。
もし自分がここで「きゃあ!」と叫んで横に飛び退けば、この巨大な大理石の塊は、確実に後ろのメイドの頭部を直撃する。そうなれば、大惨事だ。
(私のドレスに泥がつくのも嫌だけど、無関係な民が傷つくのはもっと嫌だわ。……仕方ないわね)
エレノアは、完璧なおしとやかな笑顔をピタリと固定した。
そして、落下予測地点へと右足を一歩、音もなく踏み込む。ドレスの裾がふわりと舞った。
頭上から迫る、弾丸のような大理石の鉢。
エレノアは、まるで給仕係が優雅に銀のトレイを受け取るかのように、スッと右手を上空へと差し出した。
ドンッ。
衝撃を完全に吸収する「柔の極意」。
エレノアは、三十キロの石塊を、骨盤と膝のクッション、そして限界まで鍛え上げられた前腕の筋肉だけで、一切の衝撃音を立てずに無音でキャッチしてみせた。
頭の上の髪飾り一つ、微塵も揺れていない。
「……まぁ、なんて綺麗なゼラニウムかしら」
エレノアは何事もなかったかのように、片手で持っていた巨大な植木鉢を、両手で優雅に抱え直した。そして、回廊の隅の地面へと、そっと静かに下ろしてみせた。
「少し風が強くて、落ちてきてしまったみたいね。危ないところでしたわ、おほほほ」
鈴を転がすような声で笑うエレノア。
「え?あ、はい……?」
後ろを歩いていたメイドは、何が起きたのか全く理解できず、呆然と立ち尽くしている。
一方、回廊の上の物陰からその様子を覗き見していたマルキーズ公爵令嬢は、恐怖のあまり「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて腰を抜かしていた。
(な、何よあの女……!上から落ちてきた大理石の鉢を、片手で、笑顔で、無音で受け止めたわよ……!?化け物!?化け物なの!?)
エレノアは、上空の気配がパニックに陥っているのを感じ取り、心の中でガッツポーズをした。
(ふふん、見たかしら!今の私の、一切の無駄がないエレガントな危険回避!これなら誰も、私が実戦経験豊富なフローレンス家の人間だなんて気づかないわね。神様、私に素晴らしい淑女の才能をくれてありがとう!)
完璧に隠密処理できたと確信し、優雅に歩き去るエレノア。
しかし――彼女は気づいていなかった。
その回廊から少し離れた、本宮の二階の窓辺。
遮光カーテンの隙間から、その一連の「神業」を、一瞬たりとも見逃さずに観察していた人物がいた。
フェルナンド王太子である。
彼は、エレノアが三十キロの鉢を無反動でキャッチした瞬間を完全に目撃していた。
フェルナンドは、持っていた本をパタンと閉じると、グラスの陰でその端正な唇をこれでもかと歪め、激しい笑いを噛み殺していた。
「……ククッ、やはりな。重さ三組の突撃槍に匹敵する衝撃を、姿勢一つ崩さずに受け止めただと?……あいつ、本当に『ゴボウの千切り』だけであの腕力を手に入れたというつもりか?」
冷徹王太子の琥珀色の瞳には、もはや疑惑を通り越し、未知の強敵、いや、愛すべき存在に対する、底なしの愉悦と執着が満ち満ちていた。




