第12話 暴走馬車と、優雅な一本背負い
お妃教育が始まって一週間。
頭上から大理石の植木鉢が降ってくるという「都会のちょっぴり過激な洗礼」を、奇跡的なエレガンスな力技で切り抜けたエレノアだったが、都会の令嬢たちの執念はそんなものでは終わらなかった。
「本日は、本宮から少し離れた『白樺の庭園』にて、移動式のお茶会の作法を学びます。皆様、用意された馬車へお乗りください」
「まぁ、お外でお紅茶をいただくのね!なんて風流かしら!」
家庭教師の案内に、エレノアは胸を躍らせていた。
用意されたのは、王宮が所有する御用達の馬車だ。実家の頑丈な「装甲車」とは違い、細部まで精緻な彫刻が施された、いかにも華奢で美しい、令嬢向けの馬車である。
エレノアが優雅にステップを上がり、馬車に乗り込んだその時。
少し離れた生け垣の陰から、マルキーズ公爵令嬢の取り巻きの一人が、不敵な笑みを浮かべて小さな吹き矢を構えていた。
(調子に乗るのもここまでよ、田舎男爵令嬢……!)
プッと放たれた小さな針が、エレノアの馬車をひく二頭の巨馬の臀部に、音もなく突き刺さる。
その針に塗られていたのは、軍馬を興奮させるために使われる、超強力な狂躁ハーブの抽出液だった。
――ヒヒヒヒィィィン!!!
突如、大人しかった馬たちが血の涙を流さんばかりに猛り狂い、前足を高く跳ね上げた。
御者が手綱を引いて抑えようとするが、狂乱した馬の怪力には抗えない。馬車は凄まじい急加速で、御用達の馬場を外れ、木々が荒々しく生い茂る森の斜面へと暴走を始めた。
「ひ、ひええぇぇ!馬が、馬が言うことを聞かねえ!」
「お嬢様!危ない、飛び降りて――どわぁぁっ!?」
激しい揺れにより、ベテランの御者が御者台から派手に振り落とされてしまう。
もはや完全に制御を失った馬車は、車体を激しく左右に軋ませながら、行く手にある巨大な岩肌をめがけて、時速五十キロメートルを超える猛スピードで突っ込んでいく。
普通の令嬢であれば、ここで恐怖のあまり失神するか、せめて泣き叫ぶ局面。
だが、馬車の中にいるエレノアの表情は、信じられないほどに冷ややかだった。
(……ちょっと待って。さっきから、ものすごい勢いで髪飾りがズレているわ。それに、この激しい揺れのせいで、お袖のフリルが窓枠に擦れて少しほつれてしまったじゃない……!)
エレノアの脳内で、ぷつりと何かが切れる音がした。
お気に入りのリボン、完璧にセットした蜂蜜色の髪、そして何より「おしとやかな淑女の気品」を、この薄汚い暴走劇によって台無しにされる。その事実が、彼女の戦闘狂の導火線に火をつけた。
「……私の完璧な一日を、邪魔しないでちょうだい」
エレノアはスッと座席から立ち上がった。激震する馬車の中だというのに、彼女の足元はまるで重力制御されているかのように大理石の床へ吸い付いている。
エレノアはドレスの裾を少しだけ持ち上げると、開いた窓からツバメのような軽やかさで外へと躍り出た。
そのまま、激しく上下する馬車の屋根を一歩で駆け抜け、暴走する二頭の馬の背へと飛び移る。
風に煽られるハチミツ色の髪と、ラベンダー色のドレス。その姿は、まるで戦場を駆ける美しい戦女神のようだった。
「静かになさい」
エレノアは、狂乱して泡を吹く馬のたてがみを両手でガシッと掴んだ。
そして、馬が岩肌に激突するわずか三メートル手前――エレノアは自らの両足のスパイク、正確には普通のヒールを地面に突き立てると、凄まじいまでの制動力を生み出した。
ズズズズズッ!!!
石畳が削れる凄まじい音が響く。
しかし、馬の突進力はまだ止まらない。ならば、とエレノアは一族伝来の「対大型魔獣用近接格闘術」の応用を選択した。
「フンッ!」
息を吐き、腰を落とす。
エレノアは馬の頭を脇に抱え込むようにして固定すると、己の体の軸を支点に、空中を華麗に一回転。遠心力と馬の突進力をすべて一本の動線へと収束させ――
――ズガァァァァン!!!
見事なまでの、芸術的な「巨馬の一本背負い」を炸裂させた。
総重量数百キロはある巨馬が、ラベンダー色のドレスをまとった華奢な令嬢によって宙を舞い、背中から地面へと叩きつけられたのだ。馬は完全に白目を剥き、四肢をピクピクと震わせて大人しくなった。
連鎖して、もう一頭の馬も恐怖のあまりその場にへたり込み、馬車は岩肌のわずか数センチ手前で、完全に沈黙した。
静寂が訪れる。
エレノアは、ふぅ、と小さく息を吐くと、即座に「生まれたての小鹿モード」へと脳内を切り替えた。
髪のハネをササッと直し、服の埃を払い、地面にへたり込んでうるうると瞳を潤ませる。
「お嬢様ーっ!」
そこへ、遠くから大慌てで騎士たちが駆けつけてきた。
「フローレンス様!ご無事ですか!一体何が……ひっ!?」
駆けつけた騎士団の精鋭たちは、目の前の光景に言葉を失った。
馬車は無傷。しかし、凶暴なはずの巨馬が、なぜか背中から地面に激突したような形で、完全に気絶しているのだ。
「ううっ……、皆様、恐ろしかったわ……」
エレノアは、両手で顔を覆い、さも怯えたように肩を震わせてみせた。
「馬さんたちが、急に苦しそうに走り出してしまって……。私、もうダメかと思いましたの。でも、私が必死に『神様、お助けください』と祈りを捧げましたら……突如、空から不思議な光が降り注ぎ、馬さんたちが急にパタリと倒れて静かになりましたの……。きっと、おいたわしい山の神様が、私をお守りくださったのですわ。おほほ……」
「か、神の加護……!?」
「なんと……。フローレンス様の純真な祈りが、奇跡を起こしたというのか……!」
騎士たちは、エレノアのあまりにも可憐な涙の前に、そのおかしな現場の状況から完全に目を逸らし、感動の渦に包まれていた。
(よし。今回も完璧に『聖女的なミラクル』として処理できたわ。私の圧倒的なおしとやかさ、いよいよ神の領域ね!)
心の中で大勝利の凱歌をあげるエレノア。
だが、その様子を、はるか遠くの時計塔のバルコニーから、携帯用の遠眼鏡で一部始終観察していた男がいた。
フェルナンド王太子である。
彼は、エレノアがドレス姿で巨馬を背負い投げした瞬間を、レンズ越しに倍率最大でバッチリ目撃していた。
「……ククッ、あっはははは!」
フェルナンドは遠眼鏡を離し、片手で顔を覆って、おかしそうに肩を震わせていた。
距離があるため、彼女が騎士たちと何を話しているかまでは聞こえない。だが、遠眼鏡のレンズの向こうで、エレノアがわざとらしく両手で顔を覆い、か弱く肩を震わせて「怯える令嬢」を演じ始めたのは一目瞭然だった。
「……また始まったな。あいつ、あの状況からどうやって『か弱い令嬢』の言い訳を通すつもりだ?」
地面には、明確に一本背負いの軌道で円形に削れた石畳。その中心で、しおしおと泣き真似をしているハチミツ色の令嬢。騎士たちが彼女の可憐さに騙され、神妙な顔で頷いているのを見て、フェルナンドはすべてを察した。
「なるほど、奇跡か何かに見せかけたか。……エレノア、お前はどこまで私を楽しませれば気が済むんだ。あの見事な腰のキレ、完全に一流の格闘家のそれではないか」
冷徹王太子の琥珀色の瞳は、もはや彼女の「完璧な猫かぶり」と「凄まじい実力」のギャップが見たくてたまらないという、異常なまでの愉悦と執着で爛々と輝いていた。




