第13話 毒入りスープと、超高速のすり替えトリック
お妃教育のカリキュラムも佳境を迎え、その日の夜は、王太子妃候補の令嬢たちが一堂に会する公式晩餐会が催されていた。
豪奢な大食堂の長いテーブルには、純白のクロスが敷かれ、銀の食器が眩く輝いている。
エレノアは、なんとフェルナンド王太子のすぐ右隣という、最上席に案内されていた。これまでの「植木鉢キャッチ」や「暴走馬車制圧」が、なぜか王宮内で『数々の奇跡を起こす聖女のような令嬢』として噂になり、評価が爆上がりしてしまった結果である。
(うふふ……。殿下のすぐお隣だなんて、まるで本物のお妃様みたいだわ。皆様の視線がとっても痛いけれど、これもスパダリの妻になるための試練ね!)
エレノアは完璧な背筋で椅子に座り、淑女の微笑みを浮かべていた。
そんな彼女を、正面の席からギリッと奥歯を鳴らしながら睨みつけているのは、マルキーズ公爵令嬢である。その隣には、彼女の忠実な取り巻きである男爵令嬢が座っていた。
(あの田舎娘、馬車の罠まで『神の加護』とかいう胡散臭い奇跡で切り抜けるなんて……!でも、今度は絶対に言い訳できない大恥をかかせてやるわ!)
公爵令嬢たちの冷ややかな視線に気づかないふりをしながら、エレノアの前へ、一皿目のスープが運ばれてきた。
王宮特製の、美しい琥珀色をしたコンソメスープである。
「どうぞ、お召し上がりください」
給仕係が恭しく一礼する。
エレノアは優雅にスプーンを持ち上げ、スープをそっと口元へと運ぼうとした――その瞬間。
(……あら?この微かな青臭い香りは、なぁに?)
スプーンから立ち上る湯気の中に、コンソメの香りを邪魔する、ほんのわずかな「不純物の匂い」が混ざっていた。
フローレンス家では、戦場での暗殺対策として、幼少期からありとあらゆる毒物の匂いを嗅ぎ分ける過酷な訓練、いや、訓練という名のサバイバルが義務づけられている。
(この匂いは……南方の湿地帯に生える『モコ草』の根の成分ね。命に別条はないけれど、飲めば一時間以内に激しい腹痛と下痢を催し、トイレから出られなくなるという、実に悪趣味な毒だわ……!)
エレノアはスプーンを口元でピタリと止めた。
正面を見ると、マルキーズ公爵令嬢とその取り巻きが、ニヤニヤとした下品な笑みを浮かべてこちらの様子を伺っている。犯人は一目瞭然だった。
(ここで『毒が入っていますわ!』なんて騒いだら、夜会の雰囲気を台無しにした不作法な令嬢として、私の評価が下がってしまう。かといって、このまま飲んだら私の淑女としての尊厳が完全に終わるわ……。残すのもお料理を作ってくださった料理人に失礼だし……)
コンマ数秒の思考。エレノアの脳細胞が、お妃様ライフを守るために高速で回転する。
(要は、このスープを処理すればいいのよね。……よし、私の『神速の抜刀術』、ここで使わせてもらうわ!)
ちょうどその時、給仕係がフェルナンドのグラスにワインを注ぐため、エレノアから完全に視線を外した。周囲の貴族たちも、小声での談笑に夢中になっている。
――今よ。
エレノアは、左手で自分のシルクのハンカチをあえて床へと落とした。
「あら?」
正面の取り巻き令嬢の視線が、一瞬だけエレノアの落としたハンカチへと誘導される。
その、わずかコンマ一秒の隙。
エレノアの右手が、常人には「残像」すら見えない超高速で動いた。
彼女の指先は、剣術の極意である『無拍子』の速度で、自分の目の前にある毒入りスープの皿を掴むと、正面に座っている【取り巻き令嬢のスープの皿】と、空気の振動すら立てずに、音もなく一瞬で入れ替えたのである。
あまりの速度に、スープの液体は一滴も揺れず、波紋すら立たなかった。
取り巻き令嬢がハンカチから視線を戻した時には、すべてが元通り。エレノアはすでにハンカチを拾い上げ、何事もなかったかのように優雅にスープを口に運んでいた。
「まぁ……。お出汁がしっかりと効いていて、大変美味しゅうございますわ」
エレノアは、毒の入っていないコンソメスープを、音を立てずに美しく飲み干した。
正面のマルキーズ公爵令嬢たちは、「え?飲んだわよ?なんで平気なの!?」と狐につままれたような顔でパニックになっている。
するとその数分後。
「――うっ!?」
突如、エレノアの正面に座っていた取り巻きの令嬢が、青ざめた顔で自分の腹部をギューッと抱え込んだ。モコ草の毒は、すでに入れ替わったスープと共に彼女の胃の中へと収まっていたのだ。
「あ、あの……わたくし、急に、その……お腹の調子が……ひゃうっ!?」
取り巻き令嬢は、およそ淑女とは思えない奇声を上げると、椅子を派手にひっくり返さんばかりの勢いで立ち上がり、お尻を抑えながら脱兎のごとく大食堂から平民並みの速度で走り去っていった。自爆である。
「あらあら、体調を崩されてしまったのかしら。おいたわしいわね、おほほほ」
エレノアは上品に口元を隠し、心の中で全力のガッツポーズを繰り出した。
(勝ったわ!誰も傷つけず、騒ぎも起こさず、悪党だけに報いを受けさせる。私のこの、目にも留まらぬエレガントなスープ交換マジック!完璧に隠密処理できたわ。誰も気づいていないはずよ!)
しかし――。
エレノアのすぐ隣。
優雅にワイングラスを傾けていたフェルナンド王太子は、先ほどから一切、自分のスープに手をつけていなかった。
なぜなら。
彼は、エレノアの右手が「人間の限界を超えた速度」で残像を残し、正面の令嬢の皿とスープを一瞬で入れ替えた瞬間を、至近距離でバッチリと肉眼で目撃していたからである。
(……今、こいつ、何をした?)
フェルナンドは、グラスを口元に当てたまま、驚愕と、それを遥かに上回る爆笑の衝動を必死に堪えていた。
一瞬、本当に目の錯覚かと思った。だが、正面の令嬢が突然お腹を壊して逃げ出したことで、すべての合点がいった。
(皿のスープの液体を一切こぼさず、残像すら残さずに正面の敵の器とすり替えただと……?一体どれほどの指先の速度と、空間把握能力があればそんな真似ができるんだ。あいつ、暗殺の英才教育でも受けてきたのか?)
フェルナンドは、隣で「私は何も知りませんわ」という顔でパンを小さくちぎっているハチミツ色の令嬢を、盗み見た。
怪しい。怪しすぎる。だが、それ以上に――愛おしいほどに面白い。
冷徹王太子の胸の奥で、彼女を自分のものにしたいという「奇妙な執着」が、いよいよ抑えきれないほどに膨らみ上がっていた。




