第14話 抜き打ちの暗号解読と、驚異の速読
「……おかしいわ。最近、皆様の私に対する視線が、単なる嫉妬から『何か未知の神聖な生き物を見る目』に変わっている気がいたしますの」
睡蓮離宮へと向かう馬車の中で、エレノア・フローレンスは、レースの手袋をはめた自分の両手をじっと見つめながら、小首をかしげていた。
ここ一週間の間に仕掛けられた「都会の洗礼」――頭上からの大理石植木鉢、馬車の暴走、スープへの毒物混入。それらをすべて、エレノアは「おしとやかな淑女の気品ならぬ圧倒的フィジカル」で隠密処理してきたはずだった。
しかし、なぜか王宮内では『フローレンス男爵令嬢の周囲では奇跡が起きる』『悪意を持って近づくと天罰が下る』という不穏な噂が打上げ花火のように拡散していた。
隣に座るメイドのマーサは、誇らしげに腕を組んで深く頷いた。
「当然でございます、お嬢様。フローレンス一族の『戦場での隠蔽工作』が、都会の柔弱な貴族どもに見破れるはずがございません。実家の若旦那方も『さすがエレノアだ、王宮の連中をオカルト的な恐怖で支配し始めたぞ』と、大変な盛り上がりでございます」
「だから支配してないわよぉ!!!私はただの可憐で無知な男爵令嬢よ!!恐怖じゃなくて、お上品なオーラで魅了している最中なの!!」
エレノアは馬車の中でふんぬと胸を張った。今日もラベンダー色のドレスのフリルは完璧だ。今日こそは、血生臭い要素ゼロの、甘く優雅な座学の講義を楽しんでみせる。そう固く心に誓って、彼女は離宮の重厚な門をくぐった。
◇
だが、本日の座学の教室には、いつもの厳しい老家庭教師の姿はなかった。
代わりに教壇に立っていたのは、高級な絹の法衣をまとい、鼻の頭に金縁の眼鏡を乗せた、いかにも神経質そうな中年男性だった。
「――お初にお目にかかります、お妃候補の皆様。私は王宮の首席文官を務めております、バルトロメウスと申します。本日は皆様の『知性』と『政務への適性』を測るため、抜き打ちの筆記試験を執り行います」
バルトロメウスは、眼鏡の奥の細い目をさらに細め、部屋の隅に座るエレノアをジロリと睨みつけた。
実はこの男、ノイローゼで引きこもり中のマルキーズ公爵令嬢の実家――マルキーズ公爵家から莫大な賄賂を受け取り、「あの生意気な田舎娘を、知性の面で徹底的に叩き潰して落第させろ」との密命を帯びていたのである。
「皆様の机の上に、試験問題をお配りいたしました。制限時間は一時間。……なお、フローレンス男爵令嬢?」
バルトロメウスが、わざとらしくエレノアの席の前で足を止めた。
彼の手によってエレノアの机に置かれたのは、他のお嬢様たちのものとは明らかに違う、辞書のように分厚い羊皮紙の束だった。表面には、幾何学模様のような、おぞましく複雑な文字列がびっしりと書き込まれている。
「フローレンス家は南方の『大変個性的な領地』とお聞きしましたので、あなたには少々、実践的な問題を用意いたしました。我が国の友好国が用いる、古い外交暗号の解読です。まぁ、男爵令嬢には少々、お退屈な問題かもしれませんが……ククッ」
バルトロメウスは下品な笑みを噛み殺しながら、教壇へと戻っていった。
周囲の令嬢たちも、「あら、かわいそうに」「あんな不気味な文字列、読めるはずがないわ」と、扇の影でクスクスと笑い合っている。
それもそのはず。バルトロメウスがエレノアに出したのは、外交暗号などという生易しいものではなかった。それは3年前、隣国の過激派組織から押収された、王宮の暗号解読部隊が総力を挙げても【未だに一文字も解読できていないガチの国家機密暗号文】だったのだ。これを「解けなかったから落第」にする。それが都会の陰険な罠であった。
(……なるほどね)
エレノアは、目の前に置かれた山のような暗号文を見つめ、静かにスプーン――ではなく、羽ペンを手に取った。
(私を『学のない田舎娘』として笑いものにするつもりね。ここでペンを止めて『わかりませんわ』なんて泣き出したら、フェルナンド殿下の妃候補としてのプライドが許さないわ。……それに、何より)
エレノアの蜂蜜色の瞳の奥に、フローレンス一族特有の「戦闘狂の火」が静かに灯った。
(これ、めちゃくちゃ初歩的な『格子暗号』と『数列置換』の複合じゃない。実家でお兄様たちが、夜食の夜鳴きソバをどっちが食べるかを決める時に使う『おやつ争奪暗号』より三倍は簡単だわ。……舐められたものね)
何を隠そう、南方の最前線を守るフローレンス家では、戦場での伝令妨害や敵の作戦書を奪取した際、1秒でも早く解読するために、幼少期から「超高速暗号解読」を文字通り血の滲むような特訓で叩き込まれていた。解読が遅れれば、それはすなわち「一族の全滅」を意味する環境で、彼女は育ってきたのだ。
「それでは、試験開始です」
バルトロメウスの声が響いた。
その瞬間、エレノアの右手が、常人には視認できないほどの「超高速」で動き始めた。
サササササササササササササササササッ!!!
教室の中に、信じられないほどの高速で羊皮紙がめくられる音と、羽ペンが紙を削る凄まじい音が響き渡った。
他のお嬢様たちが「一問目は歴史の……」と優雅に問題を読み始めている中、エレノアは、普通の令嬢が「あら、本が汚れていてよ?」とページをパラパラと確認する程度の優雅な仕草で、分厚い羊皮紙をものすごい勢いでめくっていく。
(第一項、数列の素数を抽出して反転。第二項、幾何学模様の交点を結んでアルファベットに置換。第三項、これは……ただの隣国の地方の訛りね。よし、接続詞を補完して――)
エレノアの脳細胞は、限界まで鍛え上げられた指先の速度と完全に同調していた。
彼女の持つ羽ペンからは、摩擦で微かに煙が立ち上っているのではないかと思われるほどの速度で、完璧に美しい筆記体による「解読文」が次々と書き殴られていく。
「……え?」
教壇で優雅にお茶をすすろうとしていたバルトロメウスは、カップを唇に当てたまま、完全に硬直した。
目の前の席で、ハチミツ色の髪の少女が、ものすごい勢いで(しかし背筋は完璧に伸ばした美しい姿勢のまま)ペンを狂ったように走らせている。その顔は、天使のようにおしとやかな微笑みを浮かべたままだ。
サッ、バサッ、サラサラサラサラッ!
「はい、終わりましたわ。大変勉強になる、素敵なお遊びでしたわね」
開始から、わずか三分。
エレノアは、完璧に解読文が書き込まれた分厚い羊皮紙の束を綺麗に揃えると、トン、と机の上に置いた。そして、何事もなかったかのように、上品に紅茶のカップを手に取り、コク、と一口すすった。
「な……な、何をおっしゃるのですか!適当にデタラメを書いただけでしょう!首席文官であるこの私を愚弄するのも大概に――」
バルトロメウスは怒り狂ってエレノアの席に詰め寄り、その羊皮紙をひったくるように奪い取った。
そして、そこに書かれた文字に目を落とした瞬間――彼の顔から、すべての血の気が引いた。
「ひ、っ……、え……?こ、これは……!?」
そこに書かれていたのは、デタラメなどでは断じてなかった。
我が国の暗号部隊が3年間、寝食を忘れて解読に挑み、それでも解けなかった過激派組織の「本国への襲撃計画書」の、完璧極まる翻訳文だったのだ。
日付、場所、人員の配置にいたるまで、一分の隙もない、あまりにも精緻で完璧な解読。
「あ……あわ、あわわわ……!な、ぜ、これを、三分で……っ!?」
バルトロメウスは、脳の処理容量を完全に超えた恐怖と衝撃により、ガタガタと膝を震わせた。目の前にいる、おしとやかに微笑む少女が、もはや人間ではなく、国家を裏から支配する超大国の高等密偵か何かに見えていた。
「バルトロメウス先生?どうかされましたの?顔色がゴボウの皮のようになっておられますわよ」
エレノアは心配そうに、うっとりと首をかしげた。
「ひ、ひいいぃぃぃっ!!!妖術だ、化け物だァァァッ!!!」
バルトロメウスはついに精神が崩壊し、羊皮紙を抱えたまま、教室の扉を蹴破って廊下へと脱兎のごとく逃げ出してしまった。
「まぁ……。都会の先生は、随分と情熱的な退室をされるのね。おほほほ」
エレノアは上品に口元を隠し、心の中で全力のガッツポーズを繰り出した。
(勝ったわ!今回も、一切の暴力を振るうことなく、ただの『お勉強』としてエレガントに罠を粉砕したわ!これで殿下も、私の溢れんばかりの知性と可憐さに、また一歩、ぞっこんになってしまうに違いないわ!)
◇
その頃。本宮の王太子執務室。
「――殿下!大変でございます!睡蓮離宮にて、首席文官のバルトロメウスが発狂し、3年間未解決だった過激派の暗号文が……完全に解読されて戻ってまいりました!!」
息を切らせた側近の騎士が、バルトロメウスが落としていった解読文の写しを、フェルナンド王太子の机の上に叩きつけた。
フェルナンドは、プラチナ色の髪をわずかに揺らし、その書類を手に取った。
そこには、驚くほど美しく、そして一寸の迷いもなくハイスピードで書かれたことがわかる、見事な筆記体の文字が並んでいた。
「……これを、エレノア・フローレンスが解いたのか?」
「は、はい! 目撃した他の令嬢たちの証言によりますと、彼女は問題を受け取った後、お茶を一口すするほどの短い間に、残像を残しながらペンを走らせ、三分でこれを書き上げた、と……!」
室内が、静寂に包まれる。
「やはりあのフローレンス男爵令嬢は、他国の恐るべきスパイ……!」
側近の騎士は、緊張の面持ちで次の命令を待っていた。
しかし。
フェルナンドは、書類からゆっくりと目を離すと、その端正な顔をこれでもかと歪め――片手で顔を覆って、激しい爆笑の声を室内に響かせた。
「……ククッ、あはははは!ハハハハハッ!!」
「で、殿下……!?」
「三分だと……?我が国の暗号部隊の無能どもが3年かけて解けなかった国家最高機密を、あの女は、お妃教育の暇つぶし感覚で、お茶をすする間に解いてみせただと……!?」
フェルナンドの琥珀色の瞳は、疑惑や警戒を完全に通り越し、底なしの愉悦と狂おしいほどの執着で爛々と輝いていた。
「面白い。面白すぎるぞ、エレノア……!お前は一体、どれほどのポテンシャルを秘めているんだ。あの強靭な足腰、神速の指先、そして我が国の専門官を遥かに凌駕する天才的な頭脳……。他国のスパイ?いや、そんな安い枠に収まる器ではないな」
フェルナンドは、愛おしそうに彼女の書いた文字の筆跡を指でなぞった。
「これほどまでの『怪物』だ。……絶対に、他国にも、他の男にも渡さん。私の手元で、その化けの皮を一枚ずつ剥ぎ取り、完璧に私のものにしてやる。……おい、次のカリキュラムは何だ?」
「え、あ、は、はい!次は……庭園での単独お茶会、およびフットワークの確認を兼ねた移動でございますが……」
「そうか。……また面白い『奇跡』が起きそうだな。特等席で観賞させてもらうとしよう」
冷徹王太子の胸の奥で、彼女を完全に支配し、独占したいという「奇妙な愛の執着」が、いよいよ引き返せないところまで加速していくのであった。




