第6話 夜会前夜の猛特訓と、実家からの不穏な仕送り
王都のフローレンス別邸。その主寝室で、エレノアは己の限界に挑んでいた。
「――おほほ。まぁ、フェルナンド殿下。お戯れを。私のような非力な娘が、ダンスを最後まで踊りきれるか心配ですって?……あ~れ~」
バサァッ!とシルクの部屋着の裾を綺麗に翻し、エレノアはベッドの柱に向かって、完璧な角度のカーテシーを決めてみせた。
頭の上には、分厚い歴史書が三冊、一切の揺らぎもなく鎮座している。
普通の令嬢であれば、本を落とさないようにペンギンのようなおぼつかない足取りになるところだが、エレノアの超人的な体幹は、本が頭皮に接着されているのではないかと錯覚するほどの安定感を誇っていた。
「どうかしら、マーサ!今のよろめき方!『風に舞う花びらのように儚げ』だったかしら!?」
「お嬢様。姿勢の美しさは満点でございますが、よろめいた際の踏み込みの音が『ドムッ』と重すぎます。あと、ベッドの柱を掴む指先の力が強すぎて、木枠からミシミリと嫌な音が聞こえております」
「あ、あら嫌だわ。無意識に間合いを詰める時のステップの癖が出てしまったわ……。もっと力を抜いて、今にも消えてしまいそうな透明感を出さなくては!」
エレノアは頭の上の本をひょいと片手で掴み、悔しげに唇を噛んだ。
明日はついに、憧れのフェルナンド殿下が主催する夜会本番。
エレノアはこの三日間、食事と睡眠以外のすべての時間を「完璧な可憐さを身につけるための猛特訓」に費やしていた。剣術を覚える時の十倍の集中力である。
そんな彼女の血の滲むような?努力の最中、部屋のドアが控えめにノックされた。
現れたのは、別邸の老従僕である。その腕には、実家のフローレンス男爵領から届いたばかりだという、頑丈な麻紐でこれでもかと縛り上げられた特大の木箱が抱えられていた。
「お嬢様、領地のお旦那様と若旦那様方から、夜会のお祝いにと仕送りが届きました」
「まぁ!お父様とお兄様たちから?なんだかんだ言って、私の可愛いドレス姿を楽しみに応援してくださっているのね!」
エレノアはパッと顔を輝かせ、箱に駆け寄った。
いくら朝の挨拶が木刀の叩き合いから始まるような戦闘狂の家族であっても、年の離れた末娘の晴れ舞台だ。きっと王都では手に入らない珍しいお菓子や、美しい髪飾りでも贈ってくれたに違いない。
エレノアは麻紐を、ハサミを使うまでもなく、指先の力だけでブチブチと引き千切り、胸を躍らせて木箱の蓋を開けた。
――そこに入っていたのは、一本の小瓶と、一通の手紙だった。
「……あら?お菓子ではないみたいね。この紫色のドロドロした液体は、一体かしら?」
エレノアが怪訝そうに小瓶を持ち上げる。ラベルには、歪な文字で『特製・活力』とだけ書かれていた。
嫌な予感を覚えながら、ライナスの豪快な筆跡で書かれた手紙を開く。
『愛愛しき妹エレノアへ。
王都の夜会という、魑魅魍魎の巣食う戦場へ赴くお前を、フローレンス家の男たちは心から誇りに思う。
お前が「ドレスを汚したくない」などという、謎の戦術的縛りプレイを敢行しているとマーサから聞き、兄たちは夜も眠れぬほど心配した。
丸腰で敵陣に突っ込むなど、いくらお前が化け物並みに強くとも無茶がすぎる。
そこで、我が家秘伝の「狂戦士のハーブ」を濃縮した特製ドリンクを贈る。夜会の直前に一気飲みしろ。これを飲めば、全身の筋肉が瞬時に活性化し、ドレスを着たままでも近衛騎士団長を素手で引き裂くほどの膂力が得られるはずだ。
もしフェルナンド王太子という男がお前に無礼を働いたら、迷わずその首を――』
――バリバリバリッ!!!
エレノアは手紙を音速で丸め、そのまま凄まじい握力で粉砕した。紙の粉塵が部屋に舞い散る。
「飲むわけがないでしょうがァァァ!!!誰がドレス姿で近衛騎士団長を素手で引き裂くのよ!!私は引き裂く側じゃなくて、殿下に『大丈夫かい、僕の可愛い小鳥』って守られる側になるの!!」
「お嬢様、落ち着いてくださいませ!呼吸が戦場に赴く前のそれになっております!」
マーサが慌ててお香を焚き、エレノアに冷たい水を差し出す。
エレノアはハァハァと荒い息を吐きながら、特製ドリンクの小瓶をゴミ箱の奥深くへと叩き込んだ。
「あぶないわ……。実家の脳筋ウイルスに毒されるところだったわ。おしとやかに、お上品に……私は生まれたての小鹿……」
胸元を押さえ、何度も深呼吸を繰り返す。
実家からの不穏すぎる仕送りのせいで余計なエネルギーを消費したものの、エレノアの決意はむしろ固まった。
絶対に、明日の夜会を完璧な「可憐さ」で乗り切ってみせる。そして、実家の筋肉まみれの日常と決別し、優雅なお妃様ライフを手に入れるのだ。
◇
――そして、運命の夜会当日。
夕闇が王都を包み込む頃、王宮の広大な前庭は、無数の魔導灯の光で昼間のように明るく照らされていた。
世界中から集められた極上の薔薇が咲き誇る回廊を、華やかなドレスや礼服に身を包んだ貴族たちが、次々と通り抜けていく。
その喧騒から少し離れた、王宮の二階のバルコニー。
夜風にプラチナ色の髪をなびかせながら、フェルナンド王太子は冷ややかな瞳で、集まってくる貴族たちの馬車を見下ろしていた。
「殿下、そろそろお時間です」
「分かっている」
フェルナンドは短く応じ、手元の名簿を一度だけ見つめた。
近衛兵からの報告にあった、検問所を『一瞬で骨抜きにした』というフローレンス家の令嬢。
「……さて。私の退屈を紛らわせるだけの価値がある女かどうか、確かめさせてもらおうか」
冷徹な王太子の口元に、大人の男としての、どこか危険な色気を帯びた笑みが浮かぶ。
いよいよ、二人の運命が交錯する夜会の幕が上がろうとしていた。




