第3話 可憐な旅路、なぜか死角から石が飛ぶ
フローレンス領から王都へと続く街道は、美しい並木道が続くのどかなルートだ。
しかし、いくら治安が良い王国とはいえ、山間に差し掛かれば「はぐれ魔獣」や「野盗」の噂が絶えない場所もある。
ガタゴトと心地よい揺れに身を任せ、エレノアは馬車の中で優雅に――必死に――お茶を飲む練習をしていた。
「おほほ、お兄様。お茶が大変美味しゅうございますわ……って、ああっ!また揺れて一滴こぼれたぁ!これじゃお妃教育の初期段階で落第だわ!」
「お嬢様、そんなに背筋を強張らせずとも、フローレンス家の馬車は特注の衝撃吸収ダンパーが仕込まれておりますので、そう簡単には揺れませんよ」
御者台から窓越しに声をかけてきたのは、実家から同行しているベテラン護衛のトムだ。
彼はフローレンス家に長年仕える凄腕の騎士だが、今回はエレノアの強い要望により、いかつい鎧ではなく、一般的な旅の護衛風の軽装を着てもらっている。
「いいえ、トム。私は王都に着くまでに『歩く芸術』にならなければいけないの。すべてはフェルナンド殿下のため――」
エレノアが再び妄想の世界に入り込もうとした、その時だった。
ヒヒヒィン!!と、前方を走る先触れの馬が激しくいななき、急ブレーキがかかった。
普通の令嬢なら「きゃあ!」と悲鳴を上げて座席から転げ落ちるところだが、エレノアの体幹は鉄壁である。重力など存在しないかのように、お茶を一杯もこぼさずにピタリと着地(着席)していた。
「おい、何奴だ!」
「ひ、ひえぇ!魔獣だ!フォレスト・ウルフの群れだ!」
外から護衛たちの緊迫した声が聞こえてくる。
窓からそっと外を覗くと、並木道の奥から、並の狼の三倍はあろうかという巨体を持った魔獣が、十数匹も馬車を取り囲んでいた。
「くそっ、囲まれた!お嬢様を、エレノア様をお守りしろ!」
「おうともさ!……って、あれ?俺たちの武器、どこだっけ?」
「バカ野郎、お嬢様が『物々しいのは嫌』って言うから、全部馬車の底の荷物入れに厳重に鍵かけて突っ込んじまったよ!」
外の護衛たちが、フローレンス家の人間らしからぬ大失態、原因はエレノアのわがままなのだが、大慌てしている。
エレノアは馬車の中で、そっと自分の着ている薄ピンク色の移動用ドレスを見た。
お気に入りの、お袖にフリルがついた可愛いドレスだ。
(……もし、あの汚らしい狼どもの返り血が一滴でもこのドレスについたら。もし、王都に着く前にこのお袖が破れたりしたら……)
エレノアの脳裏に、怒りの導火線が走った。
彼女にとって、ドレスを汚されることは、実家の兄たちに朝の睡眠を邪魔されることの次に許しがたい暴挙であった。
「……絶対に、汚させないわ」
エレノアはスッと窓を開けた。
護衛たちは前方の魔獣に対処しようと必死で、馬車の横や後ろの死角には気づいていない。幸いなことに、馬車の車輪のすぐ近くには、街道の補修用に積まれていた「拳大の小石」が転がっていた。
エレノアは窓からそっと手を伸ばし、小石をいくつか拾い上げる。
そして、襲いかかろうと低く身を構えたフォレスト・ウルフの眉間に向けて、手のひらに乗せた小石を、親指と中指で小石を弾く――
――ビュッ!!!
大気を引き裂く暴風の音が響いた。
エレノアが放った「デコピン」による投石は、大砲の弾丸並みの速度で直進し、魔獣の脳天を正確に撃ち抜いた。
キャン!とも言えずに消し飛ぶ魔獣。
「えっ?今、なんか凄い音が……」
「気のせいだ、前を見ろ!」
護衛たちが混乱している隙に、エレノアは息を吸うように指を弾き続けた。
――シュッ!ドゴッ!ズガァン!
死角から放たれる超音速の小石の乱打により、馬車の背後や側面にいた魔獣たちが、次々と木々に叩きつけられて気絶、あるいは爆発していく。
「おほほ、今日の小鳥は一段と元気よく鳴きますわね」
エレノアは、返り血を完全に避ける角度を計算しながら、最後の三匹の眉間に石を叩き込んだ。
わずか数十秒。護衛たちがようやく錆びついた剣を抜いた時には、前方の一匹を残して、魔獣の群れは完全に全滅していた。
「は、はは……。なんか、急に狼どもが全滅したぞ……?」
「山の神様の加護かもしれん!とにかく助かった、急いで出発するぞ!」
ぜえぜえと息を切らす護衛たちを尻目に、エレノアは「ふぅ」と指先のチリを払い、ハンカチで優雅に手を拭った。ドレスは無傷、一点の汚れもない。
「やはり、日頃の行いが良いから神様が守ってくださったのね。おーほほほ!」
馬車は何事もなかったかのように、再び王都へと走り出す。
エレノアは、完璧に「か弱い令嬢」の役割を全うできた満足感で、胸をいっぱいに膨らませていた。
◇
――同じ頃。
フローレンス領から遥か離れた王都、その中心にそびえ立つ壮麗な王宮の一室。
豪奢な執務机に向かい、山積みの書類を信じられない速度で処理している一人の青年がいた。
フェルナンド・アレクシス・オルティス。
陽光を浴びてプラチナ色に輝く髪と、すべてを見透かすような冷徹な琥珀色の瞳。その彫刻のように美しい横顔には、一切の感情が浮かんでいない。
「フェルナンド殿下。今回の夜会の出席者名簿の最終版です」
側近の騎士が恭しく差し出した書類を、フェルナンドは受け取り、退屈そうに目を走らせた。そこには、王太子の気を引こうと躍起になっている大貴族の令嬢たちの名前がズラリと並んでいる。
「……どいつもこいつも、同じような顔と、同じような退屈な魂しか持っていないな」
フェルナンドの声は、冬の初雪のように冷たかった。
富、権力、あるいは彼の美貌。それだけを目当てに、お仕着せの「おしとやかさ」を演じる令嬢たちに、彼は心の底からウンザリしていたのだ。
しかし、名簿の最後の方に書かれた、ある小さな男爵家の名前に、フェルナンドの目がふと止まった。
『エレノア・フローレンス』
「フローレンス……。確か、代々『武』を司る、中央とは距離を置いた一族だったな」
その名を目にした瞬間、フェルナンドの鋭い勘が、パチリと小さな火花を散らしたような奇妙な感覚を覚えた。
なぜだかは分からない。しかし、他の令嬢たちの名前を見た時のような「退屈さ」が、その名前からは一切感じられなかったのだ。
「エレノア、か……」
フェルナンドは、小さくその名を呟く。
冷徹な王太子の唇が、ほんのわずかだけ、興味深げに釣り上がったのを、側近は見逃さなかった。




