第20話 葛藤する令嬢と、脳筋一族の『出陣式』
「――ガハッ!?」
「防衛線が持たん!左翼の盾が砕かれたぞ!誰か、誰か埋めろ!!」
血を洗う戦場と化した避難所。筆頭側近シド・ヴァレンタインの声は、すでに完全に枯れ果てていた。
王太子フェルナンドが最前線へと斬り込んでから数十分。エレノアが残された後方陣地にも、狂暴化した魔獣の第二波、第三波が津波のように押し寄せていた。
シドは細剣を狂ったように振るい、襲いかかるシャドウ・ウルフの眉間を貫いていたが、その腕は疲労でガタガタと震えている。
周囲の騎士たちも次々と傷つき、血の海に倒れ伏していく。隔離結界の中は、まさに生地獄の様相を呈していた。
だが、天幕の影に潜むエレノア・フローレンスの五感が捉えていたのは、目の前の惨状などではなかった。
(……ウソでしょう。殿下の魔力の残量が、急激に減り始めているわ)
エレノアは、ペパーミントグリーンのドレスの裾を、指が白くなるほどに強く握りしめていた。
彼女の超人的な気配察知能力は、森の最深部――フェルナンドが向かった戦場から轟いてくる、不気味な地鳴りの正体を完全に捉えていた。
ズズズ、ズズズズズ……。
それは、地脈そのものがのたうち回るような、禍々しい重量感。
山をも跨ぐ巨体に、あらゆる物理攻撃を弾き返す鋼の皮膚。南方の最前線でさえ、一国の軍隊を総動員してようやく討伐するレベルの災厄――『古代ベヒモス』が、完全に目覚めていた。
(殿下の剣技は完璧だわ。でも、あの化け物は『技』でどうにかなる相手じゃない……!純粋な、圧倒的な、暴力的な『質量』で押し潰してくる怪物なのよ!このままだと……あと三分で、殿下の魔力が底をつく。そうしたら、殿下は……あの巨体に踏み潰されて、跡形もなくなっちゃう……!)
ドクン、とエレノアの心臓が激しく跳ね上がった。
(嫌。そんなの、絶対に嫌よ!!!)
エレノアの脳内で、凄まじい嵐が吹き荒れる。
(でも、ここで私が助けに行ったら?私が本気を出して、あのベヒモスの首を引っこ抜いて丸焼きにしたら、私の夢見た『か弱くおしとやかなお妃様ライフ』は完全に終了よ!?殿下からも、周りの貴族様からも『フローレンス家のゴリラ令嬢』って指をさされて、一生独身で南部のお山に強制収容だわ!!私のお上品なドレスは!?殿下との甘いロマンスは!?どうなっちゃうのよォォォ!!!)
「おい」
葛藤のあまり、ハチミツ色の髪をかきむしって奇行に走りかけていたエレノアの肩に、ずっしりと重い、岩のような手が置かれた。
振り返ると、そこにはフローレンス男爵家の現当主であり、エレノアの父であるバルト。そして、腕組みをして不敵に笑う兄ライナスをはじめとする、実家の男たちがずらりと並んでいた。
「おいおい、都会のお祭りは随分と景気がいいな」
避難所がパニックになる中、彼らだけは完全に据わった戦士の目をしている。
「お父様……お兄様……」
「エレノア。お前の目が、完全に『獲物を狙うフローレンスの目』になっておるぞ」
父バルトは、背負っていた巨大なバトルアックスをガツンと地面に突き立て、不敵に髭を揺らした。
「何を迷うことがある。あそこで死にかけているのは、お前が自分の手で毟り取ると決めた『未来の旦那』だろうが」
「でも!私がここで暴れたら、私のおしとやかな淑女のメッキが剥がれて、ただの戦闘狂だってバレちゃいますわ!殿下に嫌われてしまいますもの!」
エレノアが半べそをかきながら訴えると、兄のライナスが鼻で笑った。
「馬鹿を言うな、エレノア。フローレンスの一族が、惚れた男をみすみす死なせるなど、先祖代々に対する最大の侮辱だ。それに、あの王太子がお前程度の『化け物ぶり』で引くようなタマに見えるか?」
ライナスは腰から一本の、信じられないほど重厚な、鉄製の大剣、グレートソードを引き抜き、エレノアの前にドスンと放り投げた。
「お前のために、領地から最高級の鉄を叩き上げた一品を持ってきてやった。……エレノア・フローレンス。家長として、お前に【全面解禁】を許可する!」
父バルトが、地響きのような声で吼えた。
「行け、我が娘よ!フローレンスの筋肉の誇りにかけて、お前の愛する男を、その手で毟り取ってこい!!!」
「――ッ!!!」
その言葉が、エレノアの胸の奥で燻っていた最後の導火線に火をつけた。
葛藤は消えた。淑女のプライドなど、大好きなフェルナンドの命に比べれば、ただの塵芥にすぎない。
エレノアのハチミツ色の瞳から、一切の「猫かぶり」の光が完全に消失した。
代わりに宿ったのは、戦場を支配する絶対的な覇王の輝き。
「……わかりましたわ、お父様、お兄様。フローレンス男爵令嬢エレノア、これより――」
エレノアは地面に突き刺さった、常人では持ち上げることすら不可能な重量の大剣を、右手一本で軽々と引き抜いた。
「『お色直し』に行ってまいります」
ドンッ!!!
エレノアが一歩を踏み出した瞬間、避難所の頑丈な地面が、まるで大砲でも撃ち込まれたかのようにクレーター状に爆発した。ペパーミントグリーンのドレスを翻し、少女は音速を超える速度で、フェルナンドが待つ死地へと爆走を開始したのである。




