第17話 冷徹王太子の『奇妙なご褒美』
ここ一週間の間に、睡蓮離宮、ひいては王宮全体に、ある「奇妙な噂」が爆発的な勢いで広まっていた。
『フローレンス男爵令嬢の周囲では、神の奇跡が起きる』
『彼女を害そうとした不届き者には、天罰が下るらしい』
頭上から降ってきた大理石の鉢を無傷で消し去り(実際は地面に置いただけ)、暴走した巨馬を祈りだけで鎮め(実際は一本背負いしただけ)、悪意あるスープの罠を仕掛けた令嬢を瞬時に呪い倒した(実際は神速ですり替えただけ)、などなど。
エレノアとしては、己の凄まじいフィジカルと隠密スキルを駆使して「か弱い令嬢」の体裁を保っていたつもりだったのだが、周囲の目には、もはや彼女が『高潔なる聖女』か『触れてはならない未知の結界の使い手』にしか見えなくなっていた。
嫌がらせの首謀者であったマルキーズ公爵令嬢にいたっては、「あの女、絶対に何か怪しい妖術を使っているわ……!」と、恐怖のあまり完全にノイローゼ気味になり、ここ数日はお妃教育を欠席していた。
(ふふん、都会の皆様も、ようやく私の圧倒的な『おしとやかオーラ』に気圧され始めたようね。これで私のお妃様レースは独走状態だわ!)
そんなポジティブな大誤算に胸を張っていたある日の放課後。
エレノアは、王宮の最奥にあるフェルナンド王太子の「私室」へと、極秘に呼び出されていた。
「失礼いたします、フェルナンド殿下」
マーサを廊下に待たせ、重厚な扉を開けて中に入る。
私室の中は、夜会の日と同じように、洗練された高級な琥珀の香りが漂っていた。壁際にはびっしりと古書が並び、大きな執務机の向こうで、プラチナ色の髪を揺らしたフェルナンドが書類から目を上げた。
「よく来たな、エレノア。そこに座るといい」
「ありがとうございます、殿下」
エレノアは、生まれたての小鹿のような、はかなげで可憐な動作でソファーへと腰を下ろした。
フェルナンドもまた、机を離れて彼女の対面のソファーへと移動する。その琥珀色の瞳は、数々の修羅場をエレガントに潜り抜けてきた目の前の少女を、深い愛着と愉悦を含んだ目で見つめていた。
「ここ最近のお妃教育、ずいぶんと大変だったようだな。君の周りで、色々と『奇妙な事件』が起きていると聞くが?」
「……まぁ」
エレノアは、わざとらしく困ったように頬に手を当て、まつ毛を伏せた。
「本当に、不思議なことばかりでございますわ。私のような至らない田舎娘が、王宮の皆様の過激な……あ、いえ、熱烈な歓迎に驚いてしまうたびに、神様が不思議な光で私をお守りくださるのです。私、ただただ恐ろしくて、毎日のようにお部屋で震えておりますの。おほほ……」
(よし、完璧な被害者アピールね!これで殿下の守護欲は最高潮のはずよ!)
フェルナンドは、目の前で「毎日のように震えている」と言い張る、巨馬を背負い投げした令嬢を眺め、ふっと口元を緩めた。
「そうか。毎日のように震えるほど、過酷な環境だったわけだ。……数々の不届きな罠を、よくぞ一人で『処理』してくれた。一国の王太子として、君のその卓越した……いや、健気な努力を労いたいと思ってね」
「殿下……!私のために、お労いの言葉を……?」
エレノアはパッと顔を輝かせた。ついにスパダリからの甘いご褒美、あるいは愛の告白が聞けるのではと期待に胸が膨らむ。
「ああ。君にふさわしい、最高のご褒美を用意させた。……これだ」
フェルナンドがパチンと指を鳴らすと、控えていた給仕長が、巨大な銀のドーム型の蓋がついたトレイを恭しく運んできた。
給仕長が、厳かにその蓋を持ち上げる。
「さあ、存分に召し上がれ」
「まぁ……!一体どんな素敵なお菓子かしら――って、ええええええええ!?」
エレノアは、思わず淑女の仮面が剥ぎ取られそうなほどの驚愕の声を上げた。
そこにあったのは、きらびやかなお菓子でも、美しい宝石でもなかった。
王宮の最高料理人が総力を挙げて調理したと思われる、艶やかに照り焼きにされたゴボウ、美しく飾り切りされたゴボウ、そして中央に鎮座する、芸術的な『ゴボウの千切り山盛りサラダ』だった。
「……君の好物だろう?例の、手のひらにマメができるほど毎日毎日、お父様や兄たちのために千切りにし続けたという、フローレンス領特産の『鉄のように硬いゴボウ』だ」
フェルナンドは、至極真面目な、しかしその瞳の奥で強烈な悪戯小僧のような光をギラギラと輝かせながら、エレノアにフォークを差し出した。
「王宮の料理長に命じて、国中から最も硬く、最も立派な最高のゴボウを厳選して取り寄せさせた。君のその、素晴らしい『足腰と指先の力』を維持するためにも、ここでしっかりと栄養を蓄えるといい」
(あ、あの時の嘘、まだ完璧に覚えられてるゥゥゥ――!!!)
エレノアは、差し出されたフォークを見つめながら、遠い目をした。
スープをすり替えた時の「神速の指先」も、馬を投げ飛ばした「強靭な足腰」も、すべてこの冷徹王太子には『ゴボウの千切りによって鍛え上げられたもの』として建前上は処理されているのだ。
「さあ、遠慮することはない。君のために作らせたのだからな」
フェルナンドは、壁にドンと腕をついたあの夜と同じ距離まで顔を近づけ、耳元で心地よく、しかし逃がさないという確固たる執着を込めて囁いた。
「……あ、ありがとうございます、殿下。私、嬉しくて……涙が出そうですわ……」
エレノアは震える手でフォークを受け取り、最高級のゴボウの千切りをパクリと口に運んだ。
シャキシャキとした、実に素晴らしい歯ごたえが、彼女の絶望的な状況を物語っていた。
もう、このスパダリの前で「か弱い令嬢」の嘘を突き通すのは不可能なのではないか。そんな一抹の不安を覚えつつも、ゴボウを咀嚼するエレノアを、フェルナンドは本当に愛おしそうな、そして絶対に手放さないという深い独占欲に満ちた目で見つめ続けていた。




