第16話 刺客の強襲と、王太子の『お手をどうぞ』
「……おかしいわ。今日のお妃教育、なんだかいつもと雰囲気が違いますの」
睡蓮離宮の最奥にある、普段は使われない「鏡の舞踏室」。
夕刻の淡い琥珀色の光が差し込むその部屋で、エレノア・フローレンスは、コーラルピンクの豪奢なドレスの裾をそっと整えながら、周囲の「気配」に全神経を尖らせていた。
ここ最近、エレノアの周囲で起き続けた「数々の奇跡」。
大理石の鉢を消し去り、暴走馬車を祈りで鎮め、首席文官を呪い倒し、暗殺者たちを歩くだけで自滅させたハチミツ色の少女の噂は、王宮の壁を越え、ついに「国境」すらも越えてしまっていた。
隣国の情報機関は【フローレンス男爵令嬢は、王国が隠し持つ超強力な魔術師、あるいは国家最高の聖女に違いない】と致命的な大勘違いをし、彼女を国家の脅威とみなして、本物の「ガチ暗殺部隊」を王宮内部へと送り込んできたのだ。
そんな国際問題級の不穏な空気が漂う中、エレノアの前には、いつものようにプラチナ色の髪を揺らしたフェルナンド王太子が、一人で佇んでいた。周囲の護衛騎士たちの姿はない。他国のスパイの手によって、事前に強力な眠り薬で無力化されていたのだ。
「エレノア、ずいぶんと警戒しているようだな」
フェルナンドは、いつもと変わらぬ冷徹な、しかしどこか楽しげな琥珀色の瞳で彼女を見つめた。
「まぁ、殿下。私、ただただこの静けさが怖くて、お部屋の隅で震えておりますの。おほほ……」
その時だった。
パリンッ!!!
舞踏室の高い天窓が、凄まじい音を立てて同時に粉砕された。
夕闇の光を浴びて、黒装束に身を包み、鋭い漆黒の湾刀を構えた十数人の暗殺者たちが、蜘蛛のような俊敏さで天井から音もなく舞い降りてきた。
(……チッ、都会のいじわる令嬢の雇った素人じゃないわね。この足音の消し方、完全に隣国の隠密部隊『黒死の牙』だわ!)
エレノアの瞳の奥に、本物の戦場を生き抜いてきたフローレンス一族の「戦意」がギラリと宿る。
(ちょうど良かったわ。実家の男たちに揉まれて培ったこの右ストレートで、一人残らずミンチにして――)
エレノアがドレスの袖をまくり上げようとした、その刹那。
「――下がっていろ、エレノア」
鋭い声と共に、フェルナンドが音速の踏み込みでエレノアの前に立ちはだかった。
彼の腰から、王家伝来の宝剣が目にも留まらぬ速さで引き抜かれ、夕暮れの光を反射して美しくきらめく。
「私の妃候補に、その汚い刃を向けた罪は重いぞ、異国の犬ども」
フェルナンドの琥珀色の瞳から、いつものおかしそうな笑みが消え、一国の主君としての冷徹極まる「覇気」が立ち上る。
フェルナンドは、歴代の王太子の中でも随一と謳われる剣の達人であった。襲い来る暗殺者の一撃を、流れるような美しい剣技で弾き返し、瞬く間に二人の胸元を切り裂いていく。
(……まぁっ!殿下、なんてお強いのかしら!私を背中に庇って戦ってくださるなんて、これぞまさに私が夢にまで見た、命がけのロマンスシチュエーションだわ……!)
エレノアはフェルナンドの広い背中を見つめ、不覚にもうっとりと胸を高鳴らせていた。
しかし、敵は隣国が誇る最精鋭だ。フェルナンドが正面の三人を受け持っている隙に、別の二人が影から音もなく回り込み、フェルナンドの死角である背後、およびエレノアをめがけて、毒刃を突き出してきた。
(――あ、危ないわ!私の完璧なスパダリの、あの美しいお顔に傷がついてしまうじゃないの!)
さすがのエレノアも、ここで「か弱い令嬢」のフリを続けている場合ではないと判断した。しかし、ここで普通に拳を振るえば、フェルナンドに自分のゴリラ並みの腕力が一発でバレてしまう。
(要は、私のお上品さを保ったまま、殿下と一緒にこの場を制圧すればいいのよね。……よし、あのカリキュラムをここで使いましょう!)
「――殿下、お手をどうぞ♡」
「……何?」
激しい剣戟の最中、背後から響いた鈴を転がすような甘い声に、フェルナンドがわずかに目を見張る。
エレノアは、生まれたての小鹿のような可憐な微笑みを浮かべたまま、フェルナンドの空いている左手を、自らの右手でガシッと力強く、握力80キロのホールドで掴み取った。
「お妃教育の『社交ダンス』ワルツのステップ、覚えていらっしゃいますか?私がリードいたしますわ!」
「お前、何を――」
フェルナンドが言い切るより早く、エレノアの強靭な足腰が爆発的な回転力を生み出した。
コーラルピンクのドレスの裾が、大輪の薔薇のように華麗に、そして凄まじい風切り音を立てて舞い上がる。
エレノアは、フェルナンドの手を引いたまま、まるで宮廷舞踏会の主役であるかのように、優雅に、かつ超高速で「ターン」を決めた。
ブンッ!!!
そのターンの遠心力とドレスの翻りを利用して、エレノアの鉄板のように硬い芯が入っているドレスの裾の裏側が、フェルナンドの死角から迫っていた暗殺者の顎へと、正確に、音速で叩き込まれた。
「ぶふぉっ!?」
暗殺者は首の骨が折れそうな勢いで、壁の鏡へと叩きつけられ、そのまま粉砕されたガラスと共に崩れ落ちた。
「ワン、ツー、スリー♪次は左へステップですわ、殿下!」
エレノアは完璧な笑顔のまま、フェルナンドの体をぐいっと引き寄せ、今度は逆方向への華麗なステップを踏む。
フェルナンドは、彼女の超人的な膂力と、寸分の狂いもないダンスの軌道に体を預けざるを得なかった。二人の体はまるで一つの美しい生き物のように連動し、夕暮れの舞踏室を舞う。
「スリー、フォー、ファイブ♪」
エレノアが優雅に足を振り上げる。ドレスの裾から覗いた美しいヒールの先が、横から飛びかかってきた暗殺者の眉間へとクリーンヒットし、一撃で脳震盪を起こさせて床へと沈めた。
フェルナンドもまた、彼女のリードによって生み出された完璧な「死角からの回り込み」に合わせ、宝剣を鋭く突き出し、残る敵の武器をすべて叩き落としていく。
それは、戦場における「殺戮」などでは断じてなかった。
コーラルピンクとプラチナ、そして飛び散るガラスの破片が夕日にきらめく、世界で最も美しく、そして世界で最もバイオレンスな「社交ダンスのデュエット」であった。
――最後のステップ。
エレノアは、フェルナンドの胸元へと倒れ込むようにして、完璧なフィニッシュを決めた。
ドサドサドサドサッ……。
二人がピタリと動きを止めた瞬間、周囲を取り囲んでいた十数人の隣国の最精鋭暗殺部隊は、全員が骨を折られるか、気絶するかして、床へともがくようにして転がっていた。全滅である。
静寂が戻った舞踏室で、エレノアはフェルナンドの胸に可憐に顔をうずめ、うるうると蜂蜜色の瞳を潤ませながら、か弱く肩を震わせてみせた。
「……まぁ、殿下。恐ろしかったわぁ。私、必死にステップを踏んでいたら、なぜか皆様が勝手に転んでいかれて……。きっと、お妃教育の神様が、私たちの愛のダンスに感動して、奇跡を起こしてくださったのですわ。おほほほ……」
(完璧な言い訳だわ!)
エレノアは内心で勝利のガッツポーズを繰り出し、完璧な「守られるヒロイン」を演じきった。
しかし。
自分を抱きしめるフェルナンドの腕が、今までにないほどに、強く、激しく、力を込めて自分を締め付けてくることに、エレノアは気づいた。
「……っ、ククッ、あはははは!ハハハハハッ!!」
フェルナンドは、エレノアを抱きしめたまま、おかしそうに、そして狂おしいほどの至福に満ちた声を上げて爆外に笑い始めた。
彼の胸の鼓動が、ドクトクと激しくエレノアの耳に伝わってくる。
フェルナンドはゆっくりと彼女の体を離すと、その端正な顔に、これまでに見たこともないほどの深い、そして歪んだ「溺愛の笑み」を浮かべ、エレノアの蜂蜜色の髪を愛おしそうに指ですくい上げた。
「……ダンスの奇跡、か。なるほど、お前はどこまで私を驚かせれば気が済むんだ。暗殺部隊の連携をすべて見切り、私をリードしてワルツのステップだけで制圧してみせただと?」
「え、あ、それは……お、おしとやかな作法の一環で……」
至近距離で見つめてくる冷徹王太子の、あまりにも熱い視線に、エレノアは初めて本気で頬を赤らめ、たじたじとなった。
「もう言い訳は不要だ、エレノア。……認めよう。お前は他国のスパイなどという安い存在ではない。私の退屈な世界を壊しに来た、唯一無二の最高の『怪物』だ」
フェルナンドは、エレノアの腰を引き寄せ、彼女の耳元で、甘く、しかし絶対に逃がさないという底なしの執着を込めて囁いた。
「これほど強く、賢く、そして愛おしい妃候補を、他人に渡すわけがないだろう。私の隣でその『可愛い猫かぶり』を観賞させてもらう」
「……へ? ?(あれ?バレてる?というか、ロマンスの方向性、ちょっと違くないかしら!?)」
エレノアがハチミツ色の脳細胞をフル回転させてフリーズしている中、フェルナンドの琥珀色の瞳は、彼女を完全に手に入れたという絶対的な独占欲で、爛々と輝き続けていた。
こうして、勘違いの方向性は180度違ったままであったが、「最強のカップル」は、このバイオレンスな舞踏室にて、完璧に成立してしまうのであった。




