第22話:世紀のラストダンス・前夜
第22話:世紀のラストダンス・前夜
アパートの、狭くて薄暗い洗面所。
換気扇が、カタカタと頼りない音を立てて回っている。
「……本当に、僕がやるんですか」
鏡の前に張り付いた零の背中が、小刻みに震えていた。いつもなら、自分の顔を見るという「精神的自傷行為」を避けるため、暗闇の中で手探りで済ませる髭剃りだ。
だが今は、結衣が手元をスマートフォンのライトで容赦なく照らしている。
「当たり前でしょ。明日はバロン佐藤が主催する特別壮行舞踏会よ。世界中の審査員も、あんたの母親も、全員が最前列で見てる。泥をつけたままフロアに出る気?」
「ですが、僕が自分の顔を直視すると、網膜から脳細胞へ向けて不浄のパルスが駆け巡るんです。ただでさえ歩く公害なのに、明日の大舞台で僕の顔面が引き起こすであろうパニックの規模を考えると、今すぐこの剃刀で頸動脈を――」
「うるさい、さっさと剃りなさい。手元が狂ったら私が100億点の資源に傷をつけることになるでしょ」
結衣はそう言って、ライトの光をさらに近づけた。
白光の中に、零の横顔が浮かび上がる。
ベージュの縦ロール、切れ長の瞳、そして一切の無駄を削ぎ落とした顎のライン。鏡を全く見ずに生きてきた男の手つきは、無意識のうちに洗練され尽くしており、泡を拭う刃の軌道すら完璧な軌跡を描いていた。
じっとその横顔を見つめていた結衣が、ふと、小さく息を漏らす。
「……結衣さん? やはり僕の顔、直視に耐えないほど怖いですか」
「世界で一番、情けないくらい綺麗な顔よ」
結衣の口から出た言葉は、いつもの「資源」としての評価ではなく、ひどく素直で、低い温度を持っていた。
零は剃刀を持ったまま、鏡越しに結衣を見る。
その視線が重なった瞬間、結衣はスマートフォンの画面をわざとらしく上へ向けた。
「ほら、さっさと済ませてスタジオに行くわよ。やることが山積みなんだから」
――そこからの夜は、とても「世界に挑むペア」のそれとは思えないほど、泥臭くてガテンな時間だった。
深夜二時のダンススタジオ。
蛍光灯のいくつかは切れかけ、床の上には無数の布切れと裁縫道具が散らばっている。
その中央で、隣のフラダンスサークルのリーダー・鳳光代が、老眼鏡を鼻の頭に引っかけて、猛烈な勢いでミシンを動かしていた。
「ちょっと結衣ちゃん! ここの肩のライン、補強が甘いわよ! 深夜の配送バイトで培ったあんたの高速縫い、ここで発揮しなくてどうすんの!」
「分かってますって! 光代さん、そっちの袖口のレース押さえててください!」
結衣は、世界一位のステージから零が逃げ出した際に破いた、漆黒の燕尾服を広げていた。天文学的な違約金を突きつけられてなお、この服だけは捨てられなかった。
元看護師の内海節子は、パイプ椅子に腰掛け、巨大なタッパから怪しげな茶色の液体をコップに注いでいる。
「ほら零くん、これお飲み。自家製ニンニク卵黄とスッポンエキスをプロテインで割った特製ドリンクよ。明日は世界を凍らせるんでしょ? 血流が良くなれば、顔色も少しは人間らしくなるわよ」
部屋の隅で、借りてきた猫のように小さくなっていた零が、震える手でコップを受け取る。
「節子さん……ありがとうございます。これで僕の無駄な延命措置が完了しました。明日、もし僕の心臓が恐怖で停止しても、このスッポンの呪いによって死体だけは完璧なステップを踏み続けることでしょう……」
「いい食べっぷりねぇ!」と節子は満足そうに目を細めた。
その時、スタジオの古いドアが勢いよく開いた。
現れたのは、現役競技ダンスの絶対王者・皇凱だった。その後ろには、パートナーの麗華が大量の高級栄養ドリンクの箱を抱えて突っ立っている。
「おい、氷室零!」
凱は、傲慢な態度で零を指差した。
「お前がすべての契約を破棄してドブ川に沈んでいたと聞いた。ふざけるな。お前がただのゴミなら、そのゴミの顔面を見てステップを踏み外した俺や麗華は、一体何なんだ? 俺のプライドが許さない。意地でも明日のフロアに立て!」
凱は、手に持っていた最高級のダンスシューズを、零の足元へ乱暴に投げつけた。
麗華も顔を赤くしながら、「かん、勘違いしないでよね! 私はただ、あなたのその可哀想なベージュの髪が、明日のライトでどう光るか確認しに来ただけだから!」と叫び、差し入れを床に置く。
普通のライバルなら、ここで火花を散らすところだろう。
だが、零は即座に床に膝をつき、土下座の体勢に入ろうとした。
「おっしゃる通りです、皇さん。僕は置物以下の粗大ゴミであり、あなた方の高貴なキャリアに泥を塗った大悪党です。靴まで恵んでいただき、本当にありがとうございます……。この靴のラバーの削りカスとして、明日はフロアの隅で消え失せます」
「なんで感謝するんだよ! そこは怒れよ! 調子が狂うだろうが!」
凱は頭を抱え、人生で何度も味わったことのない敗北感に顔を歪めて、嵐のように去っていった。
嵐が去った後のスタジオに、再び静寂が戻る。
ママさんたちも作業を終え、「じゃあ、明日の朝一番にね」と、嵐のようなエネルギーを残して帰っていった。
午前四時。
夜明け前の、一番暗い時間。
窓の外から、冷たい青色の光が静かに差し込んでくる。
結衣は、仕上がったばかりの漆黒の燕尾服を、零の前に掲げた。
「……着てみて」
零は黙ってそれを受け取り、背を向けて袖を通した。
数分後、彼が振り返った瞬間、結衣の脳内計算機が、またしても完全にフリーズした。
泥を落とし、髭を剃り、修復された燕尾服を纏った氷室零。
それは、世界中のどんな最高級の宝石よりも歪で、そして暴力的なまでに美しかった。古本屋の奥で埃を愛でていた男が、ただそこに立っているだけで、カビ臭いスタジオがまるで中世の宮殿のよう錯覚させる。
「結衣さん」
零が、ゆっくりと右手を差し出した。
その指先は、相変わらず冷たい。
だが、その瞳の奥にある地底湖には、以前のような「逃げ出したい」という臆病な光はなかった。代わりに、もっと暗く、深い、引き返せない覚悟が沈んでいる。
「明日、世界を凍らせに行きましょう。二人で」
零の言葉に、結衣は自分の右手を重ねた。
電流が走ったように、心臓が跳ねる。だが、彼女は鉄の女の顔を崩さない。
「ええ。あんたのその歪んだ絶望を、世界で一番高い値段で売ってあげるわ。……もう、損切りなんて絶対にさせないから」
音楽はない。
ただ、二人の擦れる靴音と、静かな呼吸だけが、夜明け前のフロアに響き渡る。
ホールドを組んだ瞬間、結衣の体温が零の冷たい肌に溶けていく。
それは恋と呼ぶにはあまりに重く、依存と呼ぶにはあまりに美しい、二人だけの計算式の始まりだった。




