第21話:ドブネズミたちの告白
第21話:ドブネズミたちの告白
その場所は、およそ「世界を凍らせる美貌」が座り込んでいいような空間ではなかった。
街外れを流れる、名前もついていないようなドブ川のほとり。
湿った土の匂いと、伸び放題になった生ぬるい枯れ草の匂いが混ざり合う土手。コンクリートの斜面に、その男はまるで誰かに打ち捨てられた大型の粗大ゴミのように、膝を抱えて丸まっていた。
ベージュの緩い縦ロールの髪は、泥と埃にまみれて生気を失っている。
いつもなら、服に一粒のチリがついただけで「ああ、僕の不浄がまた世界を汚してしまった」と涙を流す男が、お気に入りのパーカーの裾がドブ水に浸かるのも気に留めていない。
ただ、深く被ったフードの奥から、底なしの地底湖のような瞳で、じっと迫り来る夜を見つめていた。
「見つけた」
草を踏みしめる硬い靴音が、静かに止まる。
息を切らせた結衣が、土手の上のガードレールを背にして立っていた。
零はゆっくりと首を巡らせ、結衣の姿をその網膜に映した。だが、いつものように「すみません!」と土下座を始める気配はない。ただ、幽霊が生きている人間を見るような、どこか遠い目だった。
「……結衣さん。どうして、ここが」
「あんたが前に、自分に一番よく似ているって言ってたじゃない。誰も見向きもしない、ドブ川の隅っこの枯れ草。あんたの思考回路なんて、私の脳内計算機にかければ一発で割り出せるわよ」
結衣はポケットに両手を突っ込んだまま、ずかずかと泥の斜面を降りていく。
お気に入りのパンプスが汚れるのも構わなかった。そんなもののクリーニング代、今の彼女にとっては一円の価値もない。
「来ないでください」
零が、掠れた声で言った。
その細く美しい指先が、拒絶するように泥を掴む。
「今の僕は、完璧に汚れています。ただでさえ僕は歩く公害なのに、そこにドブの成分まで加わったら、もはやバイオハザードです。結衣さんの神聖な肺に、僕の吐き出す毒素を吸わせるわけにはいきません」
「うるさいわね。あんたの自虐のフルスロットル、丸三日聞いてないと逆に調子が狂うわよ」
「……冗談はやめてください」
零はフードをさらに深く引き下げ、膝に顔を埋めた。
「僕は、契約を破棄しました。母の用意したステージも、世界一位のパートナーも、すべて踏み躙って逃げ出したんです。浅野さんからは、天文学的な数字の違約金が発生すると言われました。……今の僕は、ただの犯罪者予備軍です。あなたに、これ以上の大赤字を背負わせるわけにはいかない」
「赤字、赤字って、さっきからうるさいのよ」
「赤字です! 完璧な大赤字です!」
零は突然、弾かれたように顔を上げた。
その頬には、黒い泥の筋がいくつもついていた。いつもなら、洗顔すら手探りで行うほど自分の顔を忌み嫌っている男が、今はその汚れを全く気にしていない。ただ、狂おしいほどの熱を帯びた瞳で、結衣を真っ直ぐに見つめていた。
「僕は、結衣さんを騙していたんです。僕はあなたが大好きだと言ってくれた電卓の音を、僕を縛るための心地いい鎖だと思っていました。僕を世界の中心で売ろうとしたあなたを、憎めば楽になれたのに……。僕の手を離したあなたを、軽蔑できればよかったのに!」
零の美しい唇が、微かに震える。
「できなかった。僕は、あなたのスタジオの、あの薄暗くてカビ臭いフロアで、ただの使い捨ての雑巾として死にたかった。世界なんてどうでもいい。僕は、あなたにだけ、処分されたくなかったんだ……!」
――君が見たのは、ほんの一瞬だけ差し込んだ幻光みたいなもんだ。
古本屋の影山の言葉が、結衣の脳裏をよぎる。
この男は、あまりにも誠実すぎて、狂っている。
自分が愛される価値のないゴミだと本気で信じ込んでいるからこそ、結衣がつけた「100億点」という値段を、命がけで守ろうとしていたのだ。それを、現実主義という名の綺麗な言葉で追い出したのは、他でもない自分だった。
「おーい! 若いの! 何をやってるの!」
不意に、土手の遥か上方から、間の抜けた大声が響いた。
見上げると、そこにはママさんサークルの帰り道らしき、万年初心者の横田さんが立っていた。相変わらず耳が遠いため、こちらの深刻な空気を一切察していない。
「横田さん……? なんでここに」
「おぉ、結衣ちゃんか! なんだ、二人でそんな泥だらけになって! さては駆け落ちか! いいね、若いうちは情熱的で! 光代さんたちには内緒にしておいてあげるから、しっかりおやり!」
横田さんはそう言って、がははと笑いながら、補聴器の調子を確かめるように去っていった。
一瞬だけ、ドブ川に気の抜けた風が吹く。
けれど、二人の間に流れる空気の重さは、少しも変わらなかった。
「……聞いた? 横田さんが駆け落ちだって」
結衣は小さく息を吐き、零の目の前にしゃがみ込んだ。
「結衣さん、帰ってください。僕はもう、あの輝かしいフロアを磨く資格すらない」
「資格なんて、最初から求めてないわよ」
結衣は、零の泥だらけのフードを、乱暴にひっつかんで剥ぎ取った。
夕闇の中で、ベージュの髪が美しく散らばる。その奥にある、神の最高傑作としか言いようのない造形美。泥に汚れてなお、その美しさは周囲の空間を暴力的に削り取っていく。
「あんた、私のことを『一人で生きていける鉄の女』だと思ってんでしょ。元婚約者にも、周りのみんなにもそう言われて、自分でもそのつもりで生きてきたわよ。誰かに頼るなんて負け、計算が合わないことはしない。それが私の、完璧な人生設計だった」
結衣は、零の胸ぐらを掴む手に力を込めた。
「だけどね、あんたが消えてからのこの三日間、コンビニのお弁当が信じられないくらい不味いのよ。部屋の電気が消える瞬間が、どうしようもなく寒くて怖いの。……脳内計算機がね、ずっとエラーを起こしてるわ。あんたがいない空間の損失を、どうやって埋めればいいのか、どの数式を使っても答えが出ないのよ!」
「結衣、さん……」
「あんたのその歪んだ絶望が、私の人生を完全に食いつぶすって言ったじゃない! 1000億点の価値がある男を、途中で投げ出すなんて、私のプライドが許さないのよ! 勝手に一人でドブの底に沈んで、綺麗な思い出になろうなんて、そんな都合のいい損切り、絶対に認めないわ!」
結衣の瞳から、大粒の涙が溢れ、零の頬の泥を洗うように滴り落ちた。
「私を……一人にするんじゃないわよ、この大馬鹿野郎」
それは、超現実主義の魔女が、生まれて初めて吐き出した、まったく計算の合わない「本音」だった。
誰かに必要とされる喜びを知ってしまった人間は、もう、一人で生きていた頃の強さには戻れない。この青年の持つ、底なしのネガティブという名の呪いに、彼女の心はすでに、引き返せないところまで侵食されていたのだ。
零は、呆然と結衣を見つめていた。
彼女の涙が、自分の汚れた顔に触れるのを感じていた。
「……ああ」
零の唇から、かすかな溜息のような音が漏れる。
「本当に、僕は、どうしようもない悪魔ですね。あなたの完璧な人生の計算式を、こんなにもめちゃくちゃにしてしまった」
零が、ゆっくりと泥だらけの手を持ち上げた。
自分の汚れが彼女に映ることを、一瞬だけ躊躇うように空中で止め、それから、意を決したように、結衣の涙に濡れた頬をそっと包み込んだ。
その手のひらは、驚くほど冷たかった。
まるで、ずっと暗い地底湖の底で、一人で凍えていたかのように。
「結衣さん。僕の手は冷たいですか」
「……死人かと思うくらい、冷たいわよ」
「良かったです。これで、あなたのその温かい涙を、少しでも僕の毒で冷ますことができる」
零は、世界を狂わせるほどの美貌に、微かな、けれど決定的な歪みを帯びた微笑みを浮かべた。
それは、優しさと狂気が同居した、息が止まるほど美しい表情だった。
「もう、お返ししませんよ。あなたが僕に値段をつけたその日から、僕の絶望は、すべてあなたのものです」
ドブ川の濁った水面に、夜の帳が完全に降りていく。
二人の影は重なり合い、枯れ草の闇の中に深く、深く沈み込んでいくようだった。
お互いの欠落を認め、呪い合って生きていく。
それがどれほど大赤字の選択だとしても、結衣の叩く電卓は、もう二度と、彼を引き離すための数字を弾き出すことはない。
冷たい手の温度だけが、結衣の肌に、消えないシミのように残り続けていた。




