第20話:逃走するシンデレラ、地底湖の底へ
第20話:逃走するシンデレラ、地底湖の底へ
「嫌よ、私はもう一歩も動かないわ。零くんのいないフロアなんて、プロテインの入っていないシェイカーと同じよ。ただの虚無よ」
「光代さん、床が冷えるからせめてヨガマットを敷いてちょうだい。……ほら、節子さんもニンニク卵黄を握りしめたままうつ伏せになるのはやめなさい。スタジオの床に油分がつくわ」
夕暮れの佐倉社交ダンススタジオ。
そこには、華やかな社交ダンスの面影など微塵もなく、ただ絶望に打ちひしがれた熟女たちが、打ち上げられたトドのように床へ転がっていた。
鳳光代は高級ブランドのセットアップを着たまま、内海節子は自家製の怪しい漢方薬の袋を抱えたまま、一歩も動こうとしない。
「結衣さん、本当に零くんは戻ってこないの? あの世界お披露目会から、もう丸三日よ。私、あの子が雅とかいう悪魔の母親に、ミンチにされて高級キャビアの代わりに缶詰にされてるんじゃないかって、心配で夜も八時間しか眠れないわ」
「十分寝てるじゃない。……大丈夫よ、あいつはそんな簡単に死なないわ。ただの、ちょっとした契約上のバグよ」
結衣は努めて軽い声を出しながら、事務机の上でパチパチと電卓を叩いた。
画面に表示されるのは、完璧に清算された「借金ゼロ」の数字。
これ以上ないほど健全な経営状態。理想的な黒字転換。
それなのに、指先がひどく冷たかった。
「……ねえ、結衣さん」
不意に、床に頬を押し付けたままの光代が、ぼんやりと呟いた。
「今日の床、なんだか滑りが悪くない?」
結衣の電卓を叩く手が、ピタリと止まる。
言われてみれば、そうだった。
夕日が差し込むフロアの木目は、どこか白く濁り、以前のような鏡のような輝きを失いつつあった。
夜な夜な、「僕のせいで汚れた床を清めなければ」と涙を流しながら床を磨き上げていた、あの異常なまでの掃除の痕跡が、文字通り消えかかっている。
彼がいない。
その事実が、スタジオの輝度という物理的な数値になって現れていた。
「……ちょっと、出かけてくるわ。留守番、お願いね」
結衣は上着をひったくるように掴むと、ママさんたちの引き留める声を背に、スタジオを飛び出した。
向かったのは、零のもう一つの居場所であった古本屋だ。
街の路地裏、カビと古い紙の匂いが立ち込める薄暗い空間。店主の影山は、いつもと変わらない無愛想な顔で、カウンターの奥で文庫本をめくっていた。
「影山さん、零は……氷室零は、ここに来てない?」
結衣の問いに、影山は本のページから目を上げようともしなかった。ただ、古びた紙をめくる乾いた音が、静かな店内に響く。
「あいつなら、もうここにはいないよ。荷物も全部引き払っていった」
「引き払ったって……どこへ? あいつ、母親との契約も全部破棄して失踪したって、浅野妙子から連絡があったのよ。違約金がどれだけ発生するかも分かってないのよ、あの馬鹿は!」
憤る結衣の言葉を聞きながら、影山はゆっくりと本を閉じた。
その目は、どこか遠く、底の見えない地底湖を眺めているようだった。
「結衣ちゃん。あいつはな、最初からいなかったんだよ。お前が見たのは、この暗い古本屋の隅に、ほんの一瞬だけ差し込んだ幻光みたいなもんだ」
「何よ、それ。意味が分からないわ」
「あいつは自分の美貌を『毒』だと思って生きてきた。君がそれを『資源』として値段をつけたから、あいつは一時的に、自分が人間としてここに立っていいような錯覚を起こしたんだ。だけど、君があっちの世界へ行けと言った瞬間、その錯覚は終わった」
影山は煙草に火をつけ、紫煙の向こうから結衣を静かに見つめた。
「あいつはな、君のために完璧な人形でいることすら、耐えられなかったんだよ。君に嫌われるくらいなら、世界の中心で消費されて消える前に、自分の意思でドブの底に沈むことを選んだんだ。……あいつにとって、君に『クビ』だと言われることは、この世からの存在全否定と同じだったんだよ」
結衣の喉が、引き攣るように鳴った。
脳内計算機が、激しく警告音を鳴らす。
私は間違っていないはずだ。あの場所で、零にあのまま泥沼の契約を続けさせるわけにはいかなかった。私の小さなスタジオでは、彼の価値を支えきれない。だから、手放すのが、最も正しい「損切り」だったはずなのに。
「……私は、あいつに、もっと広い世界で輝いてほしかっただけよ。一人でも生きていけるように、価値をつけてあげたかっただけ……」
「そうかい」
影山は短く言い、カウンターの下から一匹の大型犬を呼び寄せた。零が道端で拾ったと言い張っていた、迷い犬のポチだ。
ポチは結衣を見ると、いつもなら嬉しそうに駆け寄ってくるはずなのに、今日はただ、悲しそうな目で結衣を見上げ、影山の足元に丸まった。
犬にすら、哀れまれている。
「本当に一人のほうが楽なら、なんでそんなに、部屋の電気が消える瞬間に怯えてるんだい?」
影山の言葉は、低く、けれど結衣の胸の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。
「え……?」
「君だよ、結衣ちゃん。一人で生きていける鉄の女、だっけか。元婚約者に言われた言葉を呪いみたいに抱えて、誰かに頼るのを負けだと思い込んでる。だけどな、あいつがいた時、君はあいつのネガティブな言葉に呆れながらも、飯を食わせて、手を引いて、確かに生きていた。……今、一人になって、せいせいしてるかい?」
結衣は何も言えなかった。
言い返せるだけの鋭い言葉を、彼女の優秀な脳内計算機は、何一つとして弾き出せなかった。
「……帰るわ」
逃げるように古本屋を後にした。
近所の食堂にも寄ってみたが、無口な店主はただ「あいつは来てない」とだけ言い、いつも零が座っていた席には、主のいない冷たい空気が流れているだけだった。
夜遅く、結衣は零と半同居生活を送っていたアパートの部屋に戻った。
玄関を開けても、明かりはついていない。
いつもなら、聞き覚えのある情けない声で「おかえりなさい、結衣さん。すみません、僕のような日陰者があなたの神聖な居住スペースの酸素を無駄に消費してしまって……」という自虐のフルスロットルが出迎えてくれるはずだった。
部屋に入り、電気をつける。
完璧に洗濯され、シワ一つなく畳まれたシーツが、ベッドの上に静かに置かれていた。
台所には、ピカピカに磨かれた鍋と、一人の夕食。
コンビニで買ってきた弁当を口に運んでみる。けれど、砂を噛んでいるようで、まったく味がしなかった。
「……何よ、これ。完全に大赤字じゃない」
結衣はぽつりと呟いた。
借金はなくなった。スタジオは守られた。私は一人で、何不自由なく生きていけるはずだ。元婚約者の言う通り、私は強い女なのだから。
なのに、部屋の電気が消える瞬間が、どうしようもなく怖かった。
暗闇の中で、自分がどこに向かってステップを踏めばいいのか、完全に分からなくなっていた。
ふと、零の使っていた小さな机の上に、一冊の古ぼけた本が残されているのが目に入った。
彼が唯一の趣味として愛読していた、『地味な石ころの図鑑』だった。
誰も見向きもしない、道端の地味な石ころばかりが淡々と並んでいる、救いのないほど地味な本。
結衣はそれを手に取り、パラパラとめくった。
すると、あるページに、一枚の付箋が挟まれているのを見つけた。
それは、以前、結衣がスタジオの経営難でイライラしていた時、零が「僕の顔は粗大ゴミです」と泣きついた際、彼女が勢いで殴り書きしたメモだった。
『氷室零:価値・100億点(ただし、私のスタジオ限定)』
その数字の横に、零の細く、美しい筆跡で、微かに震えるような文字が書き加えられていた。
『結衣さん。僕を処分せずに、ここに置いてくれてありがとう。
僕にとって、あなたの電卓の音だけが、この世界で唯一、僕の存在を許してくれる音楽でした。』
さらに、その下に、結衣が気づかないうちに、彼の手によってさらに大きな数字が書き直されていた。
『1000億点』
結衣の目から、熱いものが溢れ、図鑑の古い紙の上にぽつりとシミを作った。
「馬鹿ね……。本当に、大馬鹿野郎だわ……」
彼は、世界ランキング一位のパートナーも、伝説の振付師も、世界のきらびやかなステージも、何一つ求めていなかった。
ただ、結衣の叩く電卓の音のそばで、大赤字の存在として、怯えながら、縋りつきながら、踊っていたかっただけなのだ。
それを、現実主義だの、彼のためだのという綺麗な言葉で追い出したのは、他でもない、自分自身だった。
引き裂かれた招待状の破片が、床の上で静かに夜風に揺れている。
結衣は図鑑を強く胸に抱きしめたまま、薄暗い部屋の中で、ただじっと、戻らない足音を待ち続けていた。
二人のステップは完全に途絶え、フロアはくすんだまま。
けれど、結衣の心は、あの絶望的な美貌を持つ青年の呪いに、気づけば深く、深く、侵食されていた。




