第19話:世界からの招待状と、すれ違うホールド
第19話:世界からの招待状と、すれ違うホールド
氷室雅に連れ去られるようにして零がスタジオを去ってから、二週間が経っていた。
佐倉社交ダンススタジオの床は、磨き手を失ったことで、ほんの少しだけその輝きをくすませていた。
「結衣さん、本当にあそこへ行くの? 私、あの母親の顔を見るだけでプロテインが逆流しそうだわ」
隣のフラダンスサークルの鳳光代が、高級車の助手席から心配そうに結衣を見た。
結衣の手には、大手の浅野妙子から送りつけられた『世界選手権特別壮行会・兼・新ペアお披露目会』の招待状が握られている。断る理由はいくらでもあった。けれど、結衣の脳内計算機は、感情を無視して「行くべきだ」と弾き出し続けていた。
彼が世界の中心でどう輝くのか、この目で確かめなければ、これからの損益計算が立たない――そんな鉄の女のプライドだけが、結衣の背中を押していた。
会場となった都内の最高級ホテルの特設フロアは、目も眩むようなシャンデリアの光で満たされていた。
フロアの中央。そこに、彼はいた。
「オーマイゴッド! レイ! あなた本当に生きてるの!? アニメからそのまま抜け出してきた私のパーフェクト・ハズバンド(旦那様)だわ!」
すさまじい声量で零に抱きつこうとしていたのは、世界ランキング一位のダンサー、アメリカ代表のジェニファー・スミスだった。金髪のグラマラスな美女が、全身で情熱的な好意をぶつけている。
対する零は、漆黒の燕尾服を身に纏い、ベージュの緩い縦ロールの髪を震わせながら、この世の終わりを見たような顔で硬直していた。
「……ウ、ウ、ウグッ。ジェニファーさん……。どうかそれ以上、僕のような歩く人類の恥部を直視しないでください。分かります……。あなたのその燃えるような視線は、『なぜこんなゴミが世界のフロアに立っているんだ、今すぐ射殺してやる』という、アメリカ式の強烈な罵倒と呪詛なのですね……。おっしゃる通りです、僕は今すぐ星条旗に包まれて大西洋の底へ沈むべきです……」
「ボーノ! これだ、これだよレイ! その救いのない絶望に満ちた表情! これぞ究極のデカダンス(退廃美)だ!」
手を叩いて狂喜乱舞しているのは、世界的な振付師シャルル・ボナパルトだ。
「君はそこに立っているだけで悲劇の主人公だ! ジェニファーの圧倒的な光に焼かれ、今にも灰になりそうなその美しさ! 素晴らしい、もっと死を意識してステップを踏むんだ!」
「ひぃっ、死の宣告……! やっぱり僕は今日、ここで公開処刑されるんだ……!」
怯える零と、暴走するジェニファー、それを芸術と称して煽るシャルル。
周囲の観客やマスコミは「さすが世界最高峰のクリエイティブ……」と感嘆の溜息を漏らしている。
遠巻きに見ていた光代が、呆れたように呟いた。
「……ねえ、結衣さん。零くん、相変わらずフルスロットルで勘違いしてるわね。少しだけ安心しちゃったわ」
「そうですね……」
結衣は短く答えた。
確かに、いつものコメディのようなやり取りだ。一見すれば、零は世界的なスタッフに囲まれ、最高の環境で、次のステージへと進もうとしているように見える。
だが。
音楽が鳴り、零とジェニファーがデモンストレーションのステップを踏み出した瞬間、結衣の胸に、冷たい針が突き刺さった。
(……何、これ)
結衣の目は、誤魔化せなかった。
零のステップは、完璧だった。指先の角度、燕尾服の裾の翻り方、シェイプの美しさ、どれをとっても世界基準の、非の打ち所がないダンスだ。
けれど、何かが決定的に違っていた。
かつて、佐倉社交ダンススタジオで、結衣の手を取って踊っていた時の零のダンスには、歪んだ「躍動感」があった。結衣から必死に逃げようとし、自分を隠蔽しようとする身のこなしが、結果として誰をも魅了する華麗なサイドステップを生んでいた。
今の零のステップからは、その「逃走」の気配すら消えていた。
ただ、母親である氷室雅にプログラムされた通りに動く、完璧に美しい「死体」。
自分の意思で逃げることすら諦めた人形が、ただフロアの上を滑っている。そんな、ぞっとするような違和感が、その美しいダンスの内側に仕込まれていた。
ダンスが終わり、割れんばかりの拍手が湧き起こる。
零はマスコミのカメラに囲まれながら、一瞬だけ、人混みの奥にいる結衣の姿を捉えた。
その瞬間、彼の完璧な仮面が、微かにひび割れたように見えた。
手洗いに立つフリをして、結衣は騒がしいフロアを抜け出し、ホテルの静かな裏通路へと歩いた。
背後から、カツ、カツ、と、聞き覚えのある靴音が近づいてくる。
振り返ると、そこには息を切らせた零が立っていた。マスコミの目を盗んで、結衣を追いかけてきたのだろう。
「……結衣、さん」
零の声は、掠れていた。
至近距離で見る彼の顔は、照明のせいだけではなく、痛々しいほどに白く、透き通っていた。
「見に来て、くださったんですね。……すみません、僕のようなゴミが、世界の一流の方々と並んで不快な泥を撒き散らしている姿を、わざわざお見せしてしまって。……やっぱり、僕はあなたのスタジオにいるべきではなかった。僕は、こうして世界の見世物物として、消費されて消えていくのが正しいんです」
自虐を口にする零の目は、笑っていなかった。ただ、結衣の反応を、恐る恐る窺うような、縋るような光が、その瞳の奥に微かに灯っていた。
「そんなことない」と言ってほしかったのかもしれない。「戻ってきなさい」と、いつものように力技で電卓を叩きつけてほしかったのかもしれない。
けれど、結衣は、零の背後に立つ氷室雅の冷たい視線を、そして彼を取り巻く巨額の資金と世界からのオファーの影を、現実主義者として計算せざるを得なかった。
私の小さな、カビ臭いスタジオじゃ、もうこの男に相応しい舞台を用意できない。
これ以上彼を縛り付けるのは、ただの私の独占欲だ。私の存在自体が、彼の足を引っ張っている。
結衣の脳内計算機は、冷酷な「最適解」を導き出していた。
「あんた、あっちに行きなさいよ」
結衣は、感情を完全に殺した声で、静かに言った。
「え……?」
「ジェニファー・スミス。世界一位のパートナーでしょ。シャルルっていう有名な振付師も、あんたのその陰気な顔を気に入ってるみたいじゃない。……私のスタジオじゃ、もうあんたに『100億点』のご褒美はあげられないわ。あんたはもう、世界の中心で、もっと高い価値をつけられるべきなのよ」
零の身体が、微かに震えた。ベージュの髪が、その絶望的な美貌を隠すように、パラパラと前に垂れ下がる。
「結衣さん……。それは、僕の『ため』を思って、言ってくださっているんですか? 僕が世界で輝くことが、あなたにとっての『正しい利益』だから……?」
零の問いは、驚くほど静かだった。激昂するわけでもなく、泣き叫ぶわけでもない。ただ、結衣の心の奥底を見透かすような、鋭いトーン。
結衣は、その視線から逃げるように、ふっと自嘲気味に笑った。
「『君のためを思って』っていう別れ文句、世界で一番ずるい自慰行為よね。傷つきたくないだけでしょ」
通路の空気が、一瞬で完全に凍りついた。
それは、結衣自身の本音だった。零のため、なんて綺麗な言葉で包装しているけれど、本当は、彼が自分を置いて遠くへ行ってしまうのが怖いだけ。彼に拒絶される前に、自分から綺麗に身を引いて、傷つかないポジションに逃げたいだけ。
その醜い自己保身を、結衣は自ら言語化して、零の前に差し出してしまった。
「私はね、現実主義の魔女なのよ。計算が合わない投資はしないの」
結衣は一呼吸置き、零の目を真っ直ぐに見据えた。
「氷室零。あんたを、佐倉社交ダンススタジオから『クビ』にするわ。これからは、そっちの世界で、お母さんの言う通りに、完璧な人形でいなさいよ」
その言葉が放たれた瞬間。
零の瞳から、最後の、本当に最後の微かな光が、ぷつりと消え失せた。
彼の心は、完全に凍りついた。
自虐の言葉すら、もう出てこない。頭を捨てるように下げることもしない。ただ、完全な、救いのない「無」が、その絶世の美貌を支配していた。
「……分かりました、結衣さん」
零は、静かに頭を下げた。その動作は、あの日、高梨徹に頭を下げた時よりも、ずっと滑らかで、ずっと美しく――そして、完全に命を失っていた。
「今まで、大赤字の僕を置いてくださって、ありがとうございました」
零はゆっくりと向きを変え、きらびやかなフロアの方へと歩き出した。その背中は、二度と振り返ることはないだろうと思わせるほどに、冷たく、遠かった。
結衣は、その場に立ち尽くしていた。
「クビ」だと告げた自分の口唇が、凍りついたように冷たい。
恋と呼ぶにはあまりに重く、依存と呼ぶにはあまりに気高い、二人のステップ。
その音楽が、今、完全に途絶えた。
騒がしいフロアからは、ジェニファーの歓声と、シャルルの「ブラボー!」という声が、遠く響いていた。
結衣の手の中の招待状は、いつの間にか、指の形に白く、くしゃくしゃに引き裂かれていた。




