第18話:ラスボス降臨。呪いを編んだ母親
第18話:ラスボス降臨。呪いを編んだ母親
零が、高梨に向けて「結衣さんを、よろしくお願いします」と告げ、完全に凍りついた絶望の瞳を残したあの日から、佐倉社交ダンススタジオの空気は、どこか薄いガラスで覆われたように張り詰めていた。
零は相変わらずスタジオに残り、四つん這いになって床を磨いている。そのベージュの緩い縦ロールの髪が激しく揺れるたび、床は狂気的なまでの輝きを増していくが、二人の間に交わされる言葉は、あの日を境に極端に減っていた。
「あ、あの、零くん……? これ、今日の分の特製プロテインおはぎなんだけど……」
隣のフラダンスサークルの鳳光代が、いつになくおずおずとした様子でスタジオのドアを細く開けた。後ろには、元看護師の内海節子が、いつもの褐色の液体ではなく、市販のポカリスエットを大事そうに抱えて控えている。
「光代さん、節子さん……。わざわざありがとうございます。僕のような、世界中の網膜を汚染するだけの粗大ゴミのために、尊いお時間を割いていただき、本当に申し訳ありません。僕は今すぐ、この磨き上げた床に頭を叩きつけ、そのまま床の木目の一部となって消滅すべきだと考えております……」
零は床に額を擦りつけんばかりの勢いで、静かに、しかし流れるような動作で自虐を吐き出した。
いつもなら「あら可愛い!」と高笑いするはずの光代は、どこか寂しそうな、それでいて少し怯えたような目をして、そっとタッパを置いた。
「いいのよ、零くん。無理して食べなくて。……なんだか最近の零くん、見ているだけで、胸の奥がキリキリ痛むのよねぇ。まるで、今にも消えちゃいそうなガラスの細工物を見ているみたいで……」
「そうよ、零くん。あんまり自分を責めちゃダメよ。ほら、水分だけでも摂りなさい」
ママさん軍団ですら、零のまとう「本物の絶望」を前にして、いつもの強引なポジティブさを失いつつあった。彼らの鋭い直感は、零がただ弱気になっているのではなく、何かもっと決定的な、引き返せない場所に足を踏み入れようとしていることを察知していた。
フロアの隅で、佐倉結衣は一人、点滅する電卓の画面を見つめていた。
パリでのバズ。新規入会。高梨徹の襲来。そして、自分が放った「一人で生きていけるから誰かといる」という言葉。
あの言葉は、零の「差し出すものがなければ隣にいてはいけない」という歪んだ奉仕の論理を否定するために放ったはずだった。なのに、彼はそれを「自分は必要ない」という意味に変換して受け取ってしまった。
数字が合わない。どれだけ計算しても、零の心の計算式だけが、エラーを吐き出し続ける。
「零、次の一曲、ホールドの確認を……」
結衣が言いかけた、その時だった。
カツ、カツ、カツ。
スタジオの古びたドアの向こうから、極めて洗練された、そしてどこか他者を寄せ付けない威圧感を孕んだ靴音が響いた。
ドアが静かに、滑らかに開く。
そこに立っていたのは、大手の浅野ダンススタジオの経営者である浅野妙子──そして、その後ろに佇む、一人の女性だった。
大ぶりのサングラスを外し、スタジオのカビ臭い空気を嫌悪するように鼻を鳴らしたその女性の顔を見た瞬間、フロアの空気が一瞬で排気されたように軽くなった。
驚くほどに整った、冷徹な造形。零のベージュの髪とは対照的な、漆黒の、一切の無駄を削ぎ落としたショートヘア。年齢を感じさせない、むしろ時間を支配しているかのような圧倒的な美貌。
「……相変わらず、安っぽいドブネズミの巣ね、ここは」
その声が響いた瞬間、それまで四つん這いで床を磨いていた零の身体が、まるで強烈な電流を流されたように、びくんと硬直した。
零はゆっくりと立ち上がろうとしたが、膝がガチガチと音を立てて震えている。呼吸の仕方を忘れたように、彼の喉から「ひゅう、」と短い空気が漏れた。
「母……さん……」
氷室雅。
かつて世界的なトップモデルとして君臨し、そして零に「お前の美貌は、他人を威圧し、不快にする毒だ」と完璧なまでに叩き込んだ、彼の呪いの元凶その人だった。
雅は一歩、フロアに足を踏み入れた。その瞬間、隣にいた光代と節子が、本能的な恐怖を感じたように一歩後ずさりした。
結衣は、雅の前に立ちはだかるように進み出た。
「……雅さん。何の用ですか。部外者は帰ってください」
雅は、ふっと哀れむような笑みを浮かべた。その視線は、結衣の着ている着古したレッスン着の繊維一本一本までを見透かし、価値をゼロと断定するような冷たさがあった。
「佐倉結衣さん。あなたがこの子の『顔』を利用して、小銭を稼いでいる現実主義の魔女ね。……でも、ビジネスとしてはあまりにも三流だわ。妙子、契約書を」
後ろから浅野妙子が、一通の厚い書類を差し出した。
「結衣さん、これは世界的なファッションブランドとの独占契約書よ。零くんを、次のシーズンのメインアイコンとして、世界的な広告塔に起用することが決まったの。もちろん、マネジメントは私のアカデミーと、雅さんが共同で行うわ。……あなたのような弱小スタジオが彼を囲っておくのは、社会的な損失なのよ」
結衣の脳内で、再び計算機が激しく動き出す。世界的なブランド。独占契約。それは、零が完全に「世界の中心」へと連れ去られることを意味していた。
「断るわ。零はうちの所属よ。パリの大会だって、私と二人で――」
「二人で、何?」
雅が結衣の言葉を、静かに、しかし絶対的な力で遮った。
「結衣さん。あなた、この子を自分の力で輝かせたとでも思っているの? 笑わせないで。この子の美しさは、私が私の人生をすべて犠牲にして、完璧にコントロールし、編み上げた芸術よ。この子が自分の顔を汚いと思い、怯え、世界の隅で震えるように仕込んだのは、すべてこの『究極の退廃美』を完成させるためのプロセスだったの」
雅は零の元へと歩み寄る。零は一歩も動けない。まるで、蛇に睨まれた剥製のように、ただ美しい瞳を大きく見開いて震えている。
雅は細く、完璧に手入れされた指先で、零のベージュの髪を乱暴にすくい上げた。
「ほら、見てごらんなさい。この怯えた仔犬のような瞳。自分の美しさを罪だと信じ込んでいる、この歪んだ表情。これこそが、世界が求めているデカダンスなのよ。……結衣さん、あなたの安っぽい『愛』や『日常』はね、この子の呪いを薄めるだけの不純物なの。そんなもので、私の芸術を汚さないで」
「……、……」
零の唇が、小刻みに震える。彼は結衣の方を見ようとはしなかった。ただ、雅の指先が触れる場所から、彼の体温が急速に奪われていくのが、遠目からでも分かった。
「零! 何黙ってるのよ! 嫌なら嫌って言いなさい!」
結衣が叫ぶ。だが、零の口から出たのは、結衣の期待を完璧に裏切る、静かな、諦念に満ちた言葉だった。
「……結衣さん。母さんの言う通りです。僕は、母さんに作られたお人形だ。僕のこの呪われた顔も、ステップも、すべては最初から、僕のものではなかったんだ。……僕のせいで、あなたのスタジオがこれ以上汚れる前に、僕は、あるべき場所へ帰るべきなんです」
零はゆっくりと、雅の後ろへと歩を進めた。その足取りは、いつもの華麗なステップではなく、ただ処刑台へと向かう罪人のようだった。
「待ちなさいよ、零!」
結衣が一歩前に出ようとした時、雅がサングラスをかけ直し、冷ややかに言い放った。
「無駄よ、結衣さん。呪いはね、解くものじゃないの。解けないからこそ、呪いと言うのよ。あなたごときの安っぽい日常じゃ、この子の深淵には届かないわ。この子はね、呪われたまま、私と一緒に地獄の底で踊るのが一番美しいの」
雅は零の肩に手を置き、スタジオの出口へと向かう。
零は一度だけ、振り返った。
そのベージュの髪の隙間から見えた彼の瞳は、あの日高梨徹に向けたものよりも、さらに深く、暗い色をしていた。
理解されたと錯覚していた。
結衣の言葉に、一瞬でも救いを見出そうとした自分が、何より愚かだったのだと、彼の瞳が語っていた。
「零……」
結衣の手が、虚空を掴む。
パタン、と、スタジオのドアが、驚くほど静かに閉まった。
カビ臭いスタジオには、鳳光代が残していったプロテインおはぎの匂いと、あまりにも不自然に光り輝く、零が磨き上げた床だけが残されていた。
結衣は床に視線を落とす。そこには、鏡のように自分の、歪んだ、情けない顔が映り込んでいた。
脳内の計算機は、すでに完全に停止していた。
赤字とか、黒字とか、そんなものはどうでもよかった。
ただ、零が残していったあの「凍りついた絶望」が、結衣の胸の奥底に、消えない冷たいシミのように、じわじわと侵食を始めていた。




