第17話:元婚約者の逆襲と、100億点の『正しい使い方』
第17話:元婚約者の逆襲と、100億点の『正しい使い方』
パリの国際大会から帰国して、数週間が経っていた。
佐倉社交ダンススタジオのフロアは、相変わらず鏡のように光り輝いている。氷室零が夜な夜な「僕のせいで汚れた床を清めなければ」と、涙ながらに磨き上げている成果だった。
「ちょっと、零くん! これを見て頂戴!」
けたたましい音を立ててドアを開けたのは、隣のフラダンスサークルのリーダーであり、地元の不動産王の妻でもある鳳光代だった。その後ろからは、元看護師の内海節子が、怪しげな褐色の液体が入ったボトルを抱えて続いている。
「あんたのパリでの写真、海外の専門誌に『東洋の奇跡、デカダンスの極致』って見開きで載ってるわよ! ほら、ご褒美に光代さんが特製の高級プロテイン入りおはぎを作ってきたから、全部食べなさい!」
「零くん、それよりこっちよ!疲労には、この自家製ニンニク卵黄入り特製ドリンクが一番なんだから。ほら、口を開けて!」
ベージュの緩い縦ロールの髪を揺らし、零は両側からママさん軍団に挟まれながら、絶望的な形相でそれらを器用に咀嚼し、喉へと流し込んだ。
「……うぐっ、ありがとうございます……。これで僕の無駄な延命措置が完了しました……。僕のような歩く視覚公害が、フランスの皆様の神聖な網膜を汚染してしまい、国際問題に発展しないか毎日怯えております。今すぐルーブル美術館の地下に自首し、絵画の裏側のカビとして余生を過ごしてきます……」
「あら可愛い! 謙虚な子がプロテインおはぎを喉に詰まらせかける姿って、まるで絶滅しそうな小動物の餌付けシーンを見てるみたいで本当に癒やされるわよねぇ!」
光代が巨大な扇子を振り回しながら高笑いする。彼女たちの歪みなきポジティブさに、零の誠実すぎるネガティブは完全に圧倒されていた。
フロアの隅で電卓を叩いていた佐倉結衣は、ふう、と小さく溜息をついた。
パリでのバズのおかげで、スタジオの新規入会希望のメールが数件届いている。結衣の脳内計算機は、久しぶりに「黒字の兆し」を弾き出していた。
「零、あんまりママさんたちを怯えさせないの。ほら、次の一曲、ホールドの確認をするわよ」
結衣がフロアの中央に立ち、手を差し出す。
零はゆっくりと、まるでガラス細工に触れるかのような手つきで、結衣の手を取った。
その瞬間、結衣の身体が微かにびくんと震えた。
至近距離で浴びる零の美貌──「神が二日酔いの時にうっかり全才能を注ぎ込んだ」と称されるその完璧な造形が視界に入った瞬間、結衣の心臓は痛いほどの電流を走らせる。
(……無理。何回ホールドしても、心臓のヒューズが飛びそうになる……!)
結衣がキャパオーバーで震えているのを見て、零の顔がみるみるうちに青ざめていった。
「……あ、結衣さん。すみません……! 僕の手が湿っていて不快なんですね。あるいは僕の不浄な体温が、あなたの聖なる細胞を凍えさせてしまったんだ。……分かります、僕のような粗大ゴミに触れられたら、誰だって鳥肌が立ちますよね。今すぐハイターで右手を滅菌消毒してきます……!」
「違うわよ! 誰もそんなこと言ってないでしょ!」
いつもの、少し騒がしくて、カビ臭くて、どこか安心できる日常のやり取り。
しかしその時、スタジオにカツ、カツ、と、場違いに硬質で高級な靴音が響き渡った。
スタジオの古びたドアが開き、皺ひとつないイタリア製スーツを纏った男が立っていた。
「……相変わらず、薄汚れた場所だね、結衣」
高梨徹。
結衣を「君は一人で生きていける」という呪いの言葉と共に捨てた、元婚約者でありエリート銀行員だ。以前このスタジオで零の「卑屈の重戦車」に轢き殺されて逃げ出したはずの男が、なぜか今回は、余裕に満ちた冷笑を浮かべて戻ってきた。
「徹……。何の用よ。二度と来ないんじゃなかったの?」
結衣の声が強張る。脳内計算機が「不快指数200%」を記録した。
高梨は鼻で笑い、スタジオの古びた内装を冷ややかに見渡した。
「銀行員として、君の『資産』の動向をチェックしに来たのさ。パリでの成功、ネットでのバズ……。見たよ。なるほど、君がこの素人を看板にして、少なからぬ利益を上げ始めたことは認めよう」
光代がすかさず扇子をバチンと閉じた。
「ちょっと何よあの男、また来たわね!」
節子も腕をまくる。
「あんな男、プロテインの粉末にして、スタジオの床の滑り止めにしてやろうか!」
しかし、今回の高梨は動じなかった。彼はエリート銀行員としての「計算」を完了させていた。一時的なバズで得た知名度、そして『氷室零』という世界に通用するダイヤの原石。これらはすべて、ビジネスとして正しく「管理」すれば、莫大な富を生む。そう判断したからこそ、彼はプライドを捨てて復縁を迫りに来たのだ。
「結衣、一時的なブームに踊らされるな。こんな持続可能性のない自転車操業のスタジオで彼を囲っていても、すぐに資金は底をつく。君のような女には、やはり僕のような安定した基盤を持つ男が、君の人生を正しく管理してあげる必要があるんだ。それが、君の元婚約者としての僕の義務だ」
「あんたに管理される筋合いなんてないわよ! さっさと帰って!」
結衣が怒鳴る。だが、高梨は彼女の言葉を無視し、冷たい視線を零へと向けた。
「それに、そこの男だ。……君は、彼女に寄生しているだけだろ?」
その一言が、スタジオの空気を一瞬で凍らせた。
いつもなら、ここで零が「おっしゃる通りです! 僕は寄生虫以下のドブネズミです!」と、滑稽なまでの自虐トークを展開し、高梨の調子を狂わせるはずだった。
しかし、零は動かなかった。
零のベージュの髪が静かに垂れ下がり、その下に隠された瞳から、完全に光が消え失せていた。
彼は反論しなかった。頭を捨てるように下げることすらしなかった。ただ、彫刻のように硬直したまま、高梨の言葉を「この世で最も正しい事実」として、静かに、深く受け入れてしまっていた。
結衣の胸に、冷たいざわつきが走る。
いつものような自虐がない。零のまとう空気が、あまりにも静かで、重い。
昨日の夜、アパートの静寂の中で、彼は言っていた。
『愛を無償だと思えるのは、最初から愛されて育った人だけです。僕は、差し出すものがなければ、あなたの隣にいてはいけない』
高梨の「寄生している」という言葉は、零のその歪んだ確信の、最も触れられたくない核心に、寸分の狂いもなく突き刺さってしまったのだ。
「君のその美貌という『資産』を、結衣の知名度と実家を利用してロンダリングした」
高梨は勝ち誇ったように、冷酷な正論を重ねる。
「君が世界の中心でスポットライトを浴びたのは、彼女から搾取した結果だ。それが100億点の『正しい使い方』なのかい? 君がそこにいるだけで、彼女の人生は大赤字だ。僕なら、もっと効率的に君というリソースをビジネスとして管理できる」
「徹、黙りなさい! あんたにこの子の何が分かるのよ!」
結衣が怒鳴り声を上げようとした、その時。
「……結衣さん。彼は、正しいです」
零の、掠れた声が響いた。
零はゆっくりと顔を上げ、結衣を見つめた。その瞳には、涙すら浮かんでいない。ただ、底なしの深海のような、完全な納得だけがあった。
「僕は、あなたの『大赤字』だ。彼はあなたに利益と安定をもたらす、正確な計算機です。……前にも言いました。僕は、差し出すものがなければ、あなたの隣にいてはいけない。だけど、僕がダンスで得たと思った光さえも、あなたから搾取した汚いものだったのなら、僕は……これ以上、あなたの隣にいてはいけない」
その声は、驚くほど静かで、日常的なトーンだった。激昂するわけでもなく、悲鳴を上げるわけでもない。だからこそ、その内側にある「誠実すぎる狂気」が、結衣の胸を鋭利な刃物で抉るように突き刺さる。
高梨は、勝利を確信したように口元を歪めた。
「分かればいいんだ。結衣、これが現実だ。君の脳内計算機も、本当は分かっているんだろ? 誰が君にとって『正しい利益』をもたらすのか。寄りかかるだけのゴミを養う余裕なんて、今の君にはないはずだ」
結衣の脳内計算機は、激しくエラーの赤文字を点滅させていた。
数字が合わない。計算が立たない。
借金がなくなって、対等なパートナーとして自由になったはずなのに、どうして私たちはこんなにも息苦しい場所に立っているのか。
結衣は、ぎゅっと拳を握りしめ、一歩前に出た。高梨を睨みつけ、そして、その隣で完全に魂を失った人形のようになっている零を、真っ直ぐに見据えた。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ」
結衣の声が、スタジオのフロアに冷たく響く。
「徹。あんた、前に私を振った時、『君は一人で生きていける』って言ったわよね。だから私を捨てた。……でもね、勘違いしないで」
結衣は一呼吸置き、言葉を紡ぐ。その言葉は、高梨の薄っぺらな損益計算を、何より零の歪んだ奉仕の論理を、根底から覆すものだった。
「人はね、一人で生きていけるから誰かといるのよ。寄りかからなきゃ立てないのは、恋じゃなくてただの骨折よ」
一人で生きていける鉄の女。そう呼ばれ、誰かに頼ることを負けだと思って生きてきた結衣だからこそ言える、痛烈な本音だった。
誰かに管理されるためでもない。何かを差し出して資格を得るためでもない。一人で立てる人間同士が、それでも一緒にいることを選ぶ。それが、結衣の導き出した、計算を超えた答えだった。
高梨は、結衣の言葉の意味を理解できず、呆然と口を開けていた。
「な、何を言っているんだ、結衣……。そんな感情論で、現実の損益が解決するわけが――」
だが。
結衣の放った「一撃」は、零の脳内では、全く別の、最悪の形に変形して届いてしまった。
(結衣さんは、一人で生きていける)
(だから、ただの『大赤字』でしかない僕は、やっぱり最初から必要ないんだ)
零はゆっくりと、高梨の方を向いた。そして、静かに、深々と頭を下げた。
「結衣さんを、よろしくお願いします」
その声には、一切の感情が宿っていなかった。
怒りも、悲しみも、拒絶もない。ただ、完全に凍りついた、美しい絶望だけがそこにあった。
「零……?」
結衣が手を伸ばそうとしたが、その手は空を切った。
理解されたと錯覚した瞬間に、もう逃げられない。
結衣は、零の冷え切った瞳を見つめながら、自分が彼という底なしの深淵に、完全に囚われてしまっていることを知るのだった。
カビ臭い平和が、音を立てて崩れていく。
二人のステップは、誰の目にも触れない地獄の底へと、確実に一段、狂いながら進み始めていた。




