第16話:新婚(仮)生活と、光り輝く違和感
第16話:新婚(仮)生活と、光り輝く違和感
朝、目が覚めた瞬間に、佐倉結衣は自分が極上の幸福に包まれていることに気づいた。
肌に触れるシーツは驚くほど柔らかく、微かにお日様と、上質な柔軟剤の匂いがする。洗いざらしの真っ白な布地には、しわ一つ残っていない。
(ああ、私、生きてるわ……)
仕事と借金返済に追われ、万年床に泥のように倒れ込んでいたこれまでの生活からは考えられない目覚めだった。
リビングへ向かうと、キッチンにはすでに先客がいた。
エプロンを身に纏い、真剣な面持ちでお玉を握っているのは、氷室零だ。
ベージュの緩い縦ロールの髪を後ろで実用的に一つに結び、湯気の向こうから覗くその顔面は、相変わらず「神が二日酔いの時にうっかり全才能を注ぎ込んだ」としか思えない造形美を誇っている。彼はトントンと小気味よい音を立ててネギを刻んでいた。
「あ、結衣さん。おはようございます。……すみません、僕のような日陰のドブネズミが、朝一番にあなたの視界を汚してしまって。今すぐ生ゴミの袋を被って、気配を消しますから」
「朝からそんなアクロバティックな自虐しなくていいわよ。……っていうか、このシーツ、零が洗ってくれたの?」
「はい。結衣さんの神聖な睡眠時間を、僕の不浄な寝息や、体から出た有毒なガスで汚染するわけにはいきませんから。夜中に三回、酸素系漂白剤で徹底的に滅菌洗浄しておきました」
「三回も洗ったら生地が痛むわよ。……でも、ありがとう。すごく気持ちよかったわ」
結衣が素直に礼を言うと、零はなぜか酷く怯えたように肩を震わせ、お玉を握り直した。
「……気持ちいい、ですか。それは、僕の奉仕がまだ『足りている』という、執行猶予のサインですね。分かりました。明日は四回洗います。なんなら繊維の奥の原子レベルまで磨き上げますから」
「だから、そこまでしなくていいって言ってるの。ほら、お味噌汁焦げるわよ」
借金がゼロになり、二人は同じアパートでの「半同居生活」を始めていた。
結衣としては、名実ともに「対等なビジネスパートナー」になったのだから、生活費も折半し、お互いに支え合っていこうという現実的な提案のつもりだった。だが、零の脳内ではどうやら「借金という名の鎖が外れた以上、より高度な奴隷労働を差し出さなければ廃棄処分される」という、凄まじいバグに変換されているらしかった。
昼下がりの、佐倉ダンススタジオ。
カビ臭かったフロアは、零が夜な夜な涙ながらに磨き上げたおかげで、今や鏡のように光り輝いている。
「……尊い。実質これ、新婚生活じゃねえか……」
スタジオの陰から、ハンカチで涙を拭いながら身悶えしている男がいた。
元・借金取りのヤクザであり、現在はただの重度な狂信的ファンと化した鮫島だ。彼は強面をこれでもかと歪ませながら、フロアの隅に桐の箱をそっと置いた。
「これ、事務所の若い衆に並ばせて手に入れた、一玉一万円の最高級メロンだ。……受け取ってくれ、結衣の姐さん。零くんの、その、パリ優勝の祝いと……これからの二人の『門出』の足しにしてくれ」
「鮫島さん、いつも悪いわね。ありがたく頂くわ」
結衣がメロンを受け取ろうとした瞬間、背後から零が音もなく滑り込んできた。そのステップは完璧な「逃走」の軌道を描き、結衣を背中に隠すようにホールドする。
「しゃ、鮫島さん……! 分かっています、これはメロンの形をした新手の時限爆弾、あるいは、僕の臓器を海外に売り飛ばすための前金ですね……! パリの賞金だけでは足りず、ついに僕の身ぐるみを剥ぎ取る段階に入ったんだ。……大丈夫です、覚悟はできています。麻酔なしで、どうぞ一番高い腎臓からえぐり取ってください……!」
「零くん、違う! 違うんだ! 俺はただ、二人の小作農みたいな慎ましやかな愛を応援したいだけで……!」
「小作農!? やっぱり僕は、法的に人権を剥奪された存在なんですね……!」
白目を剥きかける零を、結衣がすかさず引き剥がす。
「あんたね、鮫島さんを怯えさせるんじゃないわよ。鮫島さんも、紛らわしいセリフで純粋なネガティブを刺激しないで!」
そこへ、ガタガタとけたたましい音を立ててドアが開いた。
「鉄壁の親衛隊」こと、隣のフラダンスサークルのママさん軍団の襲来である。
「零くぅーん! パリから帰ってきてから、心なしかまた白くなったんじゃないの!? ほら、光代さんが持ってきた特製の羊羹食べなさい!」
「零くん、それよりこっちよ! 筋肉の超回復には、この自家製ニンニク卵黄入りプロテインが一番なんだから! ほら、口を開けて!」
鳳光代と内海節子が、両側から零を挟み込む。
零は「これはいじめの一種だろうか……」と絶望的な形相を浮かべながらも、出された羊羹を器用に咀嚼し、プロテインを喉に流し込んだ。
「……うぐっ、ありがとうございます……。これで僕の無駄な延命措置が完了しました……。こんな高級な栄養素を摂取してしまい、地球の資源を無駄遣いして本当に申し訳ありません……」
「あら可愛い! 謙虚な子がプロテイン飲む姿って、まるで小鹿の給餌シーンを見てるみたいで癒やされるわよねぇ!」
光代が巨大な扇子を振り回しながら笑う。彼女たちの歪みなきポジティブさに、零のネガティブは完全に圧倒されていた。
「よし、零。ママさんたちも来たことだし、少しホールドの確認をするわよ。パリの時みたいに、世界を凍らせるステップ、ちょっと見せてみなさい」
結衣がフロアの中央に立ち、手を差し出す。
零はゆっくりと、まるでガラス細工に触れるかのような手つきで、結衣の手を取った。
その瞬間。
結衣の身体が、微かにびくんと震えた。
至近距離で見る零の美貌──ベージュの髪の隙間から覗く、吸い込まれそうなほど美しい瞳と、完璧な輪郭。それが視界に入った瞬間、結衣の脳内計算機は強制終了し、心臓が痛いほどの電流を走らせる。
(……無理。心臓が持たない……!)
結衣がキャパオーバーで震えているのを見て、零の顔がみるみるうちに青ざめていった。
「……あ、結衣さん。すみません……! 僕の手が湿っていて、不快なんですね……! それとも、僕の握力が強すぎて、あなたに物理的な恐怖を与えてしまったんだ。……分かります、僕のような粗大ゴミに触れられたら、誰だって鳥肌が立ちますよね。今すぐハイターで右手を消毒してきます……!」
「違うわよ、バカ! 誰もそんなこと言ってないでしょ!」
「いいえ、あなたの細胞が『拒絶』の悲鳴を上げているのが、僕のホールドを通じて伝わってきました……! 僕はやっぱり、誰かと目を合わせる資格すらないんだ……!」
零はそのまま、床に四つん這いになり、ポケットから雑巾を取り出して必死に床を磨き始めた。
「僕のせいで汚れた床を清めなければ……」
と呟きながら、涙を流して雑巾を往復させる姿は、周囲からは「究極のストイックさゆえの精神統一」にしか見えなかった。
「……素晴らしいわ、零くん。踊る前に床への感謝を忘れないなんて、やっぱり絶滅危惧種の純血種ね!」
光代たちが的外れな感嘆の声を上げる中、結衣はただ、胸の奥に小さなしこりのような違和感を覚えていた。
その日の夜。
スタジオの片付けを終え、アパートに戻った二人は、静かな時間を過ごしていた。
結衣がリビングに入ると、零はまたしても、何かの作業に没頭していた。
彼が真剣な表情で磨き上げているのは、結衣が仕事で履き古した、少しヒールの擦り減ったパンプスだった。
新品同様に光り輝く革靴。それを見て、結衣の胸の違和感が、明確な形を結び始める。
「……ねえ、零。なんで私の靴まで磨いてるの?」
零は雑巾を止め、髪の隙間から世界を狂わせるほどの美貌を申し訳なさそうに覗かせた。
「対等になったからです」
その声は、驚くほど静かで、日常的だった。
「これからは、借金という便利な言い訳がありません。僕がここに居座るためには、僕という公害の『迷惑料』を、労働で支払わなければならないんです。結衣さんの靴を磨き、シーツを洗い、家事を完璧にこなす。そうして初めて、僕はあなたの隣に立つ『資格』を、1ミリだけ認めてもらえる気がするんです」
「あんたね……。対等っていうのは、そういうことじゃないわよ。何かを差し出さなきゃ一緒にいられないなんて、それはただの……」
結衣の言葉を、零の静かな視線が遮った。
いつもなら、すぐに「すみません!」と頭を捨てるように下げるはずの彼が、その時は真っ直ぐに、結衣の瞳の奥を見つめていた。
「愛を無償だと思えるのは、最初から愛されて育った人だけです」
その一言が、静かに結衣の胸を刺した。
冷徹で、けれど圧倒的に純粋な、零の本音がそこにあった。
「僕は、差し出すものがなければ、あなたの隣にいてはいけない。何も持たない僕が、ただ『そこにいるだけで許される』なんて、そんな傲慢な奇跡、僕の人生には用意されていないんです。……だから、結衣さん。僕から『奉仕』を奪わないでください。それを奪われたら、僕は……」
零はフッと、寂しげに微笑んだ。
その笑顔は、世界中のどんな芸術品よりも美しく、そして、どんな刃物よりも鋭く結衣の心を抉った。
「……。……。……」
結衣の脳内計算機が、完全にフリーズした。
これまで、どんな問題も数値化し、現実的な解決策を導き出してきた彼女の頭脳が、初めて「エラー」の赤文字を点滅させている。
借金がなくなったことは、二人を自由にしたはずだった。
なのに、どうしてだろう。
目の前にいるこの美青年は、自由になればなるほど、自分をより深い「絶望の檻」へと閉じ込めていく。
そして結衣自身もまた、その歪んだ関係性の中に、奇妙な、引き返せないほどの心地よさを感じてしまっている。
理解された、と錯覚した瞬間に、もう逃げられない。
結衣は、零の冷え切った指先を見つめながら、言葉を失っていた。
カビ臭い平和の裏側で、二人のステップは、誰の目にも触れない地獄の底へと、確実に一段、狂いながら進み始めていた。




