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氷の美貌と、恋のステップ 〜自己肯定感ゼロの絶世美青年、勘違いの猛特訓で社交ダンス界の頂点へ〜  作者: あめたす


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第15話:凱旋のドブネズミと、1000億点の請求書(シーズン2最終回)

第15話:凱旋のドブネズミと、1000億点の請求書(シーズン2最終回)


 シャルル・ド・ゴール空港の到着ゲート。

 自動ドアが開いた瞬間、氷室零は反射的にフードを深く被り、結衣の背後に隠れた。


「……結衣さん、聞こえますか。あの、地鳴りのような音。……ついに、僕という公害を日本から追放するための暴動が始まったんですね。分かります。パリで散々、不浄な二酸化炭素を撒き散らしてきましたから」


「あんたね、あれが怒号に聞こえるなら一度耳鼻科に行きなさい。あれはただの『歓声』よ」


 結衣の言葉が終わるより早く、空港のロビーに響き渡る黄色い悲鳴が、零の鼓膜を物理的に震わせた。

 そこには、横断幕を掲げた凄まじい集団がいた。


『祝・パリ優勝! 氷室零様(絶滅危惧種)凱旋!』


 先頭に立っているのは、隣のフラダンスサークルのリーダー、鳳光代おおとり みつよだ。彼女は、もはやフラダンスの衣装ではなく、どこかの王室の晩餐会にでも出るような金ぴかのドレスに身を包み、手には「零くん専用」と書かれた巨大な扇子を握っている。


「零くぅーん! 見てたわよ、ネット配信!あの燕尾服姿、もうルーヴル美術館が動いたのかと思ったわよ!」


「光代さん……。あ、ありがとうございます……。でも、美術館が動くのは、中身が幽霊か、不法投棄された粗大ゴミの場合だけです……」


 零が小刻みに震えながら頭を下げると、背後から内海節子うつみ せつこがプロテインのシェイカーを突き出した。


「さあ、零くん! パリの空気は薄かったでしょう? 日本の湿気とこの特製ニンニク卵黄入りプロテインで、その白すぎる肌に血の気を戻しなさい!」


「……死刑執行の前の最後のご飯ですね。頂きます……」


 零は絶望的な形相で、ドロドロの液体を飲み込んだ。彼にとって、この熱烈な歓迎は「自分を逃がさないための包囲網」にしか見えていなかった。


 一週間後。

 東京都内の古びたダンススタジオ。

 パリでの熱狂が嘘のように、そこにはいつもの、カビ臭い平和が流れていた。

 零は四つん這いになり、鏡のように光る床を必死に磨いている。


「……。……。……」


「零、もういいわよ。そこ、あんたがさっき磨いたところじゃない」


 結衣が呆れたように声をかけるが、零は雑巾を止める気配がない。


「いいえ、結衣さん。パリで浴びた拍手の数だけ、僕の体からは傲慢という名のすすが出ているはずです。……『優勝したからって調子に乗るなよ、このドブネズミ』。床の神様がそう言っているのが聞こえるんです」


「床の神様はそんなこと言わないわよ。……それより、これ」


 結衣が差し出したのは、一通の封筒だった。

 零はそれを受け取り、中身を見た瞬間に呼吸を止めた。


「……。……。……1000億、点?」


「バカね、よく見なさい。……借金の残高証明よ。あんたがパリで優勝して、その賞金と、その後に殺到した取材の出演料、それに光代さんたちが勝手に作ったファンクラブの会費……。全部ぶち込んだら、あの膨大な借金が、ついに『ゼロ』になったわ」


 零の手から雑巾が落ちた。

 彼がずっと、自分を結衣に繋ぎ止めるための「鎖」だと思っていた負債。

 自分が「資源」として搾取されることでしか、自分の存在価値を証明できなかった、あの重荷。


「……じゃあ、もう、僕は……。……自由、なんですね」


 零の言葉は、酷く弱々しかった。

 自由。

 それは彼にとって、最も恐ろしい言葉だった。

 借金という理由がなければ、自分のような「不快な美貌を持つ男」が、このスタジオに居座る正当性がなくなる。

 結衣のそばにいる理由が、消えてしまう。


「……分かりました。……今すぐ、荷物をまとめて古本屋の隅に戻ります。……あ、でも、スタジオの鍵は変えておいてください。僕が夜中に不法侵入して、勝手に床を磨き始めると警察沙汰になって、結衣さんの経歴に傷がつきますから」


 零はフラフラと立ち上がり、出口へと向かおうとした。

 その細い手首を、結衣が背後から力強く掴む。


「……どこ行くのよ、バカ」


「どこって……。……ゴミ捨て場か、さもなければ、この顔が誰の目にも触れない地底湖の底です」


「あんた、パリで何て言ったか覚えてる? 『この人の熱からは、もう逃げられない』……そう言ったのは、どこの誰よ」


 零の背中が、びくんと跳ねた。


「……それは。……あの時は、低酸素状態で脳がバグを起こしていただけで……。……本当は、僕のような者が、結衣さんのようなガテン系で力強い光のそばにいていいはずがないんです」


「いい加減にしなさいよ。……借金がなくなったのは、あんたを解放するためじゃないわ。……あんたを、私の『ビジネスパートナー』から、一人の『ダンサー』として………その、対等に……」


 結衣の声が、最後の方は消え入るように小さくなった。

 鉄の女と呼ばれた彼女の指先が、わずかに震えている。


「……対等?」


「そうよ。……これからは、お金のために踊らなくていい。……あんたが、あんたのために。……………私と一緒に、踊りなさいよ」


 静かなスタジオに、結衣の呼吸音だけが響く。

 零はゆっくりと振り返った。

 そこには、これまで「資源」として自分を評価していた冷徹なリアリストではなく、顔を真っ赤にして、唇を噛み締めている一人の女性がいた。

 理解されたと、零は思った。

 自分がどれだけ自分を否定しても、この人はそれを「理解」した上で、なお、隣にいろと言う。

 それは、どんな言葉よりも残酷で、どんな毒よりも甘美な「支配」だった。


「……。……結衣さんは、本当に計算機が壊れていますね」


 零の瞳から、一筋の涙がこぼれ、光る床へと落ちた。 


「僕を雇い続けるなんて、一円の得にもならない。……一生、赤字ですよ」


「赤字上等よ。……あんたのその、100億点の顔面を独占できるなら、私の人生、大赤字で結構」


 零は、静かに膝をついた。

 プロポーズのような騎士の誓いのような、完璧なシェイプ。

 けれどその内側にあるのは、相変わらずの深い、深い自虐。


「……分かりました。……心中しましょう。結衣さん。……僕の絶望が、あなたの人生を食いつぶし尽くすまで、僕は、あなたのホールドから逃げません」


 二人の影が、鏡のような床の上で、ゆっくりと重なった。

 それは恋と呼ぶにはあまりに危うく、依存と呼ぶにはあまりに気高い。

 氷室零の本当のステップは、ここから始まる。

 自分を愛することはできなくても、自分を愛する誰かのために、彼はこれからも、世界を凍らせるほどの美貌で踊り続ける。

 その夜、古本屋の影山店主は、一冊の本を棚に戻しながら独り言を呟いた。


「……世界は終わらなかったな。……代わりに、もっと厄介なものが始まったらしい」


 その本は、零がかつて愛した『地味な石ころの図鑑』ではなく。

 結衣が殴り書きで『1000億点』と記した、ボロボロの詩集だった。

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