第23話(最終話):世界で一番美しい赤字
第23話(最終話):世界で一番美しい赤字
その場所は、およそ「自己肯定感ゼロの男」が立っていいような空間ではなかった。
社交ダンス連盟のドン、バロン佐藤が主催する特別壮行舞踏会。
シャンデリアの狂おしいほどの輝きが、磨き抜かれたフロアを黄金色に染め上げている。壁際を埋め尽くすのは、世界中の審査員、名だたるダンサー、そして最前列で冷酷な美貌を称える零の母親、氷室雅の姿。
「ちょっと零くん、これ最後に一気に行きなさい!」
舞台袖の薄暗がりで、内海節子が自家製ニンニク卵黄とスッポンエキスを混ぜた怪しげなプロテインコップを突き出していた。鳳光代は、深夜の突貫工事で縫い上げられた零の燕尾服の背中を、バチンと豪快に叩く。
「世界を凍らせておいで、純血種! お葬式の段取りはいつでもバッチリよ!」
「光代さん……節子さん……。ありがとうございます。五臓六腑が焼け付くようです。これで僕の無駄な延命措置が完了しました……」
漆黒の燕尾服を纏った零は、生まれたての小鹿のように膝をガタガタと震わせていた。ベージュの美しい縦ロールの隙間から、額の冷や汗が滴り落ちる。
会場から湧き上がる割れんばかりの拍手と歓声。それが、彼の鼓膜には全く違う音に変換されて届いていた。
「結衣さん……聴こえますか、あの恐ろしい地鳴りのような怒号が。あれは僕を公式に処刑するための、ギロチンの刃が擦れ合う音です。僕の顔面という歩く公害を、いよいよ世界が総出でギロチンにかける時間が来たんです」
「あれは歓声よ、大馬鹿」
隣に立つ結衣が、低く、しかし鉄のように揺るぎない声で言った。
身に纏うのは、深夜の配送バイトで血反吐を吐きながら守り抜いた、鮮烈な赤のドレス。元婚約者の高梨が、客席の隅で呆然と彼女を見つめている。
「いい、零。脳内計算機なんて、ドブ川に捨ててきたわ。今の私の頭の中にはね、数字なんて一つもないの。あんたのその歪んだ絶望を、世界で一番高い値段でふっかける。それだけよ」
「……早く終わらせて、スタジオの床を磨きたいです」
「だったら、一瞬で終わらせるわよ。私のホールドから、一ミリも遅れないで」
アナウンスが二人の名を呼ぶ。
結衣が零の手を取った瞬間、零の全身の震えがピタリと止まった。
手が冷たい。死人のように冷たい。けれど、その冷徹さこそが、彼の狂気的な誠実さの証だった。
二人がフロアの中央へと歩き出した瞬間、会場の空気が目に見えて一変した。
神の最高傑作としか言いようのない零の美貌が、スポットライトを浴びて、周囲の空間を暴力的に削り取っていく。あまりの神々しさに、客席の女性たちが「無理、死ぬ……」とキャパオーバーの悲鳴を上げた。
「……やはり、ブーイングです。みんな僕を睨みつけて、苦痛に顔を歪めている」
零の脳内勘違いが、ここでフルスロットルに達した。
恐怖。拒絶。一刻も早く、この眩しすぎる日の下から逃げ出さなければならない。
音楽が鳴り響いた瞬間。
零の身体が、爆発的な躍動を以て駆動した。
それは、世界を驚愕させる「超高速のタンゴ」だった。
彼にとって、そのステップは社交ダンスなどではなかった。この悍ましい処刑場から、結衣を連れて最短距離で「逃走」し、己の不浄を「隠蔽」するための身のこなし。
身を隠そうと極限まで上体を反らすポーズが、人類の限界を超えた完璧なシェイプを生み出し、鋭く方向を変える逃走の足さばきが、見たこともないキレ味のサイドステップとなってフロアを切り裂いていく。
「これだ……! これこそが救いのないデカダンスだ!」
客席で、伝説の振付師シャルル・ボナパルトが立ち上がり、涙を流して叫んでいた。
お互いを泥沼に引きずり込みながら、しかし太陽に向かって傲慢に踊り狂う二人。借金取りのヤクザ、鮫島もまた、少女漫画かのようにハンカチを噛み締め、「尊い……今のホールド、5000億点だ……」と男泣きに暮れている。
凄まじい遠心力の中で、結衣は零の瞳を見ていた。
底なしの地底湖のような、哀しいほどに綺麗な瞳。
世界一位のジェニファーも、母親の雅も、もう二人の視界には入っていなかった。
結衣の脳内で、かつて元婚約者に言われた「君は一人で生きていける」という言葉が、粉々に砕け散っていく。
――一人で生きていけるから、誰かといるんじゃない。
――あんたがいない空間の損失を、埋められる数式なんて、この世のどこにもないのよ。
踊りながら、結衣の目から熱い涙が溢れ、遠心力でフロアに散った。
零の冷たい手が、その涙を拭うように、結衣の背中を、ホールドを、さらに強く締め上げる。
「結衣さん、もう逃げられませんよ」
激しいステップの最中、零の美しい唇が微かに動いた。
「逃げる気なんて、一ミリもないわよ」
それは、世界で一番美しく、完璧に計算の合わない、大赤字のラストダンスだった。
数ヶ月後。
街外れの、相変わらずカビ臭くて古いダンススタジオ。
蛍光灯の薄暗い光の中で、零は四つん這いになり、涙を流しながら床を磨いていた。
キュッ、キュッと、雑巾が床をこする規則正しい音だけが響いている。
「……はぁ。僕のせいで汚れてしまった床を、こうして清めている時間だけが、唯一の救いです」
ベージュの縦ロールを揺らしながら自虐を呟く零の横で、結衣はパイプ椅子に腰掛け、カタカタと猛烈な勢いで電卓を叩いていた。
世界大会での優勝を経て、世界中から天文学的な金額のオファーが殺到した。だが、二人はそのすべてを断り、この寂れた教室に戻ってきたのだ。
電卓の液晶画面に表示された数字を見て、結衣はふっと息を吐いた。
「ねえ、零。今月の収支、過去最大の赤字よ」
零は雑巾を持つ手を止め、床に四つん這いになったまま、ゆっくりと首を巡らせた。
前髪の隙間から覗く、世界を凍らせるほどの美貌。そこに、優しさと狂気が同居した、決定的に歪んだ微笑みが浮かぶ。
「お約束通りです、結衣さん。僕があなたの人生の計算式を、一生をかけて食いつぶしてあげます。もう、僕を処分しようなんて思わないでくださいね」
「……上等じゃない。1000億点の男を飼うんだから、これくらい当然よ」
結衣は電卓を机に放り出した。
数字なんて、最初からどうでもよかったのだ。この男の持つ底なしの絶望という名の呪いに、彼女の心はもう、引き返せないところまで侵食されているのだから。
結衣は立ち上がり、零の前に立って、その無骨で温かい手を差し出した。
「ほら、床磨きは終わり。レッスンを始めるわよ」
零はゆっくりと立ち上がり、自分の冷たい手を、彼女の手へと重ねる。
恋と呼ぶにはあまりに重く、依存と呼ぶにはあまりに気高いステップが、今日もまた、誰の目にも触れないスタジオの奥で始まろうとしていた。
窓の外では、名前もついていないドブ川のほとりで、枯れ草が静かに風に揺れている。
二人の影は重なり合い、フロアの闇の中へと、深く、深く沈み込んでいった。




