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氷の美貌と、恋のステップ 〜自己肯定感ゼロの絶世美青年、勘違いの猛特訓で社交ダンス界の頂点へ〜  作者: あめたす


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第12話:鏡の中の「汚物」と、100億点の戦慄

第12話:鏡の中の「汚物」と、100億点の戦慄


 パリの朝は、石畳を叩く雨の音で始まった。

 公式練習が行われるダンスホールは、中世の宮殿を改装したかのような豪華絢爛な空間だ。天井には巨大なシャンデリアが揺れ、壁一面には磨き抜かれた鏡が並んでいる。

 その鏡の前で、氷室零は震えていた。


「……結衣さん、見てください。この鏡。僕のような不浄な存在が映り込むことで、数百年の歴史を誇るフランスの芸術品にひび割れが生じようとしています。これはもはや、国際的な器物損壊事件です。僕は今すぐ顔を布で覆い、地下室のネズミと生活を共にすべきなんです……」


「あんた、朝から何を言ってるのよ! そのひび割れに見えるのは、あんたの美貌があまりに鋭すぎて空間が歪んでるだけ! いいから燕尾服に着替えなさい。ほら、背筋伸ばして!」 


 結衣は零の背中を力強く叩いた。

 だが、零の「五感のバグ」は止まらない。

 彼は鏡を見ることを「精神的自傷行為」だと定義している。髭剃りも洗顔も、常に薄暗い中で手探りで行う。その結果、無意識のうちに研ぎ澄まされた指先の感覚と洗練された体の動きが、今の彼に「鏡を見ずとも完成される究極の美」という誤解のオーラを纏わせていることに、彼自身だけが気づいていない。


「……着替えました。ですが、この燕尾服が可哀想です。最高級の生地が、僕という毒素に触れることで、一秒ごとに腐食していくのが分かります。せめてもの償いに、僕が歩いた後の床は、僕の涙で磨き上げておきました。見てください、あの反射を……」


 零が指差した先では、昨日彼が夜通し「清掃(自虐的ストイック)」した床が、シャンデリアの光を反射して、まるで水面のように輝いていた。

 会場に集まった世界各国のダンサーたちが、その輝きと、中央に立つ零の「氷の彫刻」のような美貌に、息を呑む音が聞こえる。


「……ホラ、見なさいよ。みんなあんたに見惚れてるわ。100億点の顔面パワー、全開じゃない」


「……違います。彼らは皆、僕という公害が聖域に立ち入ったことへの怒りで、言葉を失っているんです。……ああ、あの隅にいる方なんて、拳を握りしめています。きっと僕を床に叩きつけるタイミングを窺っているに違いない……」 


 零が怯える視線の先にいるのは、拳を握りしめているのではなく、あまりの美しさに感動して震えている若手ダンサーなのだが、零の脳内では「処刑人」として処理されていた。

 そこへ、一陣の風と共に太陽が舞い降りた。

 昨日宿を襲撃してきた世界王者、ジェニファー・スミスだ。


「ハロー、マイ・プレシャス! 昨日はよく眠れた? 今日のアンタ、昨日よりさらに『絶望の色』が濃くて最高にセクシーじゃない!」


「……っ。結衣さん、彼女です。昨日僕を『観賞用の剥製にする』と宣告した魔女が、獲物の鮮度を確認しに来ました……。……おはようございます、スミス様。僕の肝臓は、剥製にするには少し不健康かもしれませんが、煮るなり焼くなり好きにしてください……」


「キャハハ! 何それ、ジョーク? 最高! さあ、アンタのステップを見せなさい。私の心臓を止めてみせて!」


 ジェニファーが零の腕を取り、フロアの中央へと引きずり出す。

 音楽が流れ始めた。曲は、重厚で悲劇的な旋律のタンゴだ。

 零にとって、社交ダンスとは「表現」ではない。

 それは、自分という汚らわしい存在から、美しき資源パートナーである結衣を、そして不快感を与えてしまう周囲の観客から自分自身を、いかに速やかに、かつ悟られずに遠ざけるかという「逃走と隠蔽」の極致であった。


(……逃げなきゃ。スミス様のその輝くような眼差しが、僕という影を焼き尽くしてしまう前に……!)



 零が最初の一歩を踏み出した瞬間、会場の空気が凍りついた。

 彼のサイドステップは、あまりに鋭く、あまりに速い。それは獲物を狙う獣ではなく、光から逃れようとする深海の魚のような、切実で狂気じみた「速さ」だった。

 しかし、見る者にはそれが、音楽の拍子を完璧に捉えた、魂を削り出すような情熱的なアタックに見える。


(……隠れなきゃ。誰の網膜にも、僕という不純物を焼き付けさせてはいけない……!)


 零が身を沈め、結衣(今はジェニファー)を庇うように作るシェイプ。

 それは、世界を拒絶し、自分という殻の中に閉じこもろうとする必死のポーズ。

 だが、その曲線は、黄金比すら凌駕する「完璧なシェイプ」として、観る者の心に突き刺さった。


「……なんてこと。彼のステップには、『死』への憧憬と、『生』からの逃避が同居しているわ……」


 観覧席にいた伝説の振付師、シャルル・ボナパルトが震える手で眼鏡を直した。


「……オーマイガー。アンタ……本当、何者なの……?」


 一曲が終わった時、ジェニファーは零のホールドの中で呆然と立ち尽くしていた。

 彼女の指先が震えている。


「……ひっ! スミス様、震えている……! ああ、やはり。僕の体温が低すぎて、世界王者の血管を凍結させてしまった……。申し訳ありません、今すぐ解凍用の毛布を持ってきます、それとも僕ごと焼却炉で燃やして温度を上げますか!?」


「……違う、違うわよアンタ! これは、武者震いよ! 私、初めて負けるかもしれないって思ったのよ!」


 ジェニファーの叫び声が響くが、零はすでに古本屋の奥底に帰りたくなっていた。

 フロアの隅では、漆原が凄まじい音を立ててスケッチブックを更新し、琴音がドローンの映像を世界に配信していた。


「……解析完了。零様の逃走速度は、光速の80%に達した。……パリのサーバーが、零様の『美』のデータ量に耐えきれずオーバーヒートしてる」


「……当然だ。彼が動くたびに、世界から色彩が奪われ、零様という一点に収束していく……。ああ、汚してほしい、そのステップで僕の人生を……」


 狂信者たちの熱狂をよそに、結衣は一人、会場の入り口付近に立つ人影を見つめていた。

 黒いドレス。氷室雅だ。

 彼女は、零のステップを見ていた。

 賞賛でも、怒りでもない。

 まるで、自分が丹精込めて育てた毒花が、期待通りに周囲を枯らし始めたことを確認するような、残酷な微笑。


(……見なさい、零。あなたの逃げ場は、もうどこにもないわ)


 結衣は零の冷え切った手を、両手で包み込んだ。

 

「……零。あんた、最高だったわよ。あんたの言った『逃走』が、パリを支配したわ。……でも、一つだけ言わせて」


「……はい。やはり、僕のステップがフランスの公序良俗に反していたという指摘ですね……」


「違うわよ。……あんた、逃げてるつもりでしょうけど。あんたが逃げるたびに、追いかけたくなる人間が世界中に増えてるのよ。……私も含めてね」


 結衣の無骨で温かい手の温度が、零の指先に伝わる。

 零は困惑したように目を伏せた。

 

「……追いかけられるなんて。それは、地獄の追いかけっこの始まりでしょうか。……もしそうなら、僕は一生、結衣さんのリードから逃げられないのかもしれません……」


 花の都に、自己肯定感ゼロの騎士が刻んだ「絶望の爪痕」。

 それは、やがて世界を熱狂という名の狂気へといざなう序曲に過ぎなかった。

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