第11話:花の都の入国拒否と、100億点の迷子
第11話:花の都の入国拒否と、100億点の迷子
花の都、パリ。
シャルル・ド・ゴール空港の到着ロビーに降り立った瞬間、氷室零は崩れ落ちるように膝をついた。
「……終わった。結衣さん、見てください。フランスの空気が、僕という不純物を取り込んだせいでどんよりと濁っています。これはきっと、環境保護団体による緊急入国拒否の合図です。僕は今すぐ貨物室に戻り、日本まで段ボールに詰められて強制送還されるべきなんです……」
「あんたね、これはただの曇り空よ! それに不純物どころか、さっきから周りのフランス人たちが、あんたを見て『天使が舞い降りた』みたいな顔で絶句してるのが見えないの!?」
結衣の指摘通り、ロビーを歩く現地の人々は、零の姿を見た瞬間に彫像のように固まっていた。
ベージュの縦ロールをなびかせ、不安げに潤んだ瞳で周囲を怯えるように見渡す零。その姿は、あまりにも儚く、あまりにも美しい。現地のマダムの一人は、胸を押さえて「オー・ラ・ラ……」と呟きながら、そのまま近くの椅子に沈み込んでいた。
「ほら、見て! あの方、僕の顔のせいでショック症状を起こしています! ああ、申し訳ありません! パードゥン! メルシー! 僕がそこに立っていたせいで、パリの美しい街並みを汚してしまった!」
「メルシー(ありがとう)じゃないでしょ、使い方が違うわよ! ほら、行くわよ!」
結衣は半ば引きずるようにして零の腕を引き、タクシーへと押し込んだ。
彼女の脳内計算機は、すでにパリの物価と遠征費、そして優勝賞金のユーロ換算で火を吹いている。だが、それ以上に彼女を焦らせていたのは、背後に迫る「影」だった。
(……雅。あの女、必ずどこかで見てるわね)
タクシーの窓から見えるパリの街並み。その美しさですら、今の結衣には零を奪い去ろうとする華やかな牢獄のように思えた。
数時間後。
二人が到着したのは、大会主催者が用意した由緒ある高級ホテル――ではなく、その裏通りにある、一見すると歴史の重み(物理的なガタ)を感じさせる小さな宿だった。
「主催者側が用意したホテルは、母さんの息がかかっている可能性があります。……それに、僕のような産業廃棄物が豪華なベッドで眠るなんて、重力の法則に背く行為です。この、今にも床が抜けそうな屋根裏部屋こそが、僕の魂の避難所……」
「……まあ、確かにあっちに泊まるのは怖いわね。でも、ここ、隙間風がすごすぎない?」
「いいんです。この風は、僕が吐き出す二酸化炭素という名の毒素を、速やかにパリの空へ放流してくれる、神の慈悲です……」
零は満足げに、埃の溜まった部屋の隅を愛おしそうに見つめている。
その時、宿のロビーに一人の女性が飛び込んできた。
「オーマイガー! 見つけたわ! 実写版、私の推しキャラクター様ァァァーーーッ!!」
鼓膜を突き破らんばかりの絶叫。
そこにいたのは、世界ランキング1位のダンサー、ジェニファー・スミスだった。彼女は結衣よりも背が高く、太陽のような金髪を振り乱しながら、猛烈な勢いで零に突進してきた。
「ひっ……! あ、アメリカ代表の刺客!? ついに、僕を物理的に排除しに来たのか……!」
零は恐怖で壁際に追い詰められた。
ジェニファーは零の顔面数センチまで顔を近づけると、瞳をキラキラと輝かせてまくしたてる。
「アナタ! 武道館の動画見たわよ! あの『この世の全てを諦めたような絶望の瞳』! 私、日本のアニメでこういうキャラ大好きなの! まさか本物が、こんなに低解像度じゃない美しさで存在してるなんて信じられない!」
「……え、あの……(何を言っているのか分からないけれど、きっと『お前の存在はバグだ、修正して消してやる』と言っているんだ……!)」
零の脳内翻訳機は、ジェニファーの熱烈な好意を「最大級の罵倒」として出力した。
「……結衣さん。彼女は僕に、『お前の顔面は、全人類に対する冒涜だ。今すぐその髪を一本残らず引き抜いてやる』と宣告しています……。ああ、本場のトップダンサーは、言葉のナイフが鋭すぎる……!」
「……零、絶対違うと思うわよ」
結衣が困惑する中、ジェニファーは零の手を強引に掴み取った。
「カモン! 明日の公式練習、アナタのステップを見せなさい! もし私を満足させられなかったら、アナタを私のサンフランシスコの実家に連れて帰って、一生観賞用として飼ってあげるんだから!」
「……さ、観賞用……。そうですか、ついに人間としての尊厳を剥奪し、剥製にして飾るつもりですね……。……望むところです。どうせ僕は、生きていても床を汚すだけの存在ですから……!」
絶望が頂点に達した零の体から、凄まじい冷気が立ち上る。
ジェニファーはその迫力に「WOW! 最高にダークファンタジーな雰囲気じゃないの!」とさらに興奮し、零の肩をバンバンと叩いた。
その様子を、宿の向かいに停まった黒塗りの高級車の中から見つめる瞳があった。
「……フフ。いいわ、零。存分に恐怖し、絶望なさい。……あなたのその顔が、最も美しく歪む瞬間。それをパリの観客に高値で売り飛ばしてあげるから」
氷室雅は、冷徹にスマホのボタンを押した。
明日から始まる公式練習。
花の都は、絶望の騎士と、太陽の女王、そして暗躍する魔女が入り乱れる、混沌のダンスフロアへと変貌しようとしていた。
「……結衣さん。最後に、美味しいフランスパンを食べさせてください。……それが、僕の最後のご馳走です……」
「だから死なないって言ってるでしょ! さっさと練習に行くわよ!」
二人の、そして世界の運命を変える「パリのステップ」まで、あと――24時間。




