第10話:地獄のティータイムと、漆黒の渡航準備
第10話:地獄のティータイムと、漆黒の渡航準備
氷室雅という巨大な「トラウマ」の襲来から一夜。
佐倉ダンススタジオの空気は、これまでとは違う意味で張り詰めていた。
「……結衣さん、出発の準備が整いました。どうぞ、これを確認してください」
スタジオの中央、零が悲壮な面持ちで差し出したのは、数冊に及ぶ分厚いノートだった。
「なによこれ、パリの観光ガイド?……って、ちょっと待ちなさい。『断頭台への最短ルート』『フランスの土に還るための手続き一覧』『万が一僕の顔を見た現地の人が石化した時のための賠償金計算書』……。あんた、いつまで処刑される気満々なのよ!」
「当然です。母さんが現れたということは、僕の『有毒性』が国際基準に達したということ。パリの街角で僕が顔を上げれば、エッフェル塔すら恥じらって折れ曲がるでしょう。せめてもの償いに、自決用のマイ・ギロチンを特注しようとしたのですが、予算が足りませんでした……」
「当たり前でしょ! そんなことにスタジオの経費は1ユーロも出さないわよ!」
結衣の怒声が響く中、隣のフロアから「あらあら、賑やかねぇ」と、嵐のような勢いで熟女たちがなだれ込んできた。ママさん軍団のリーダー、鳳光代である。
「零ちゃん! パリに行くんですって? お祝いに特製の『エッフェル塔おにぎり』を作ってきたわよ。具材は零ちゃんの青白さに合わせて、最高級のしじみエキスを凝縮したエキスよ!」
「ひっ……! み、光代様……。そんな高価な栄養素、僕のような末端の細胞が摂取しては、世界の生態系が狂います……」
「何言ってるの、零ちゃんはもう私たちの『生き神様』なんだから! パリの女たちに、日本の真の宝を拝ませてやるのよ。ほら、節子さんも持ってきたわよ!」
「零ちゃん、これ飲みなさい。フランスの硬水で体調を崩さないように、特製のニンニク卵黄・熟成発酵スペシャルよ」
「……あ、ありがとうございます……(これはいよいよ、胃袋から破壊される暗殺が始まったのか……)」
零は震える手で謎の茶色い球体を口に押し込まれ、悶絶しながらも「……美味しい、気がします……(毒が回ってきたのかも)」と涙を流した。その姿すら、ママさんたちの目には「感激に震える貴公子」として120点の輝きで映っていた。
一方、スタジオの隅では、零を「神」と崇める狂信者たちが密談を交わしていた。
「……漆原、聞いたか。零様がパリへ。あちらの美の基準が、零様によって完全に崩壊する歴史的瞬間が来るぞ」
美大生の漆原聖が、凄まじい筆致で零の悶絶顔をスケッチしながら、天才プログラマーの琴音に囁く。
「……解析済み。零様の美貌は、ルーヴル美術館の収蔵品すべてを足したよりも計算上の付加価値が高い。……すでにSNSでは『日本の絶望騎士、フランス上陸』のハッシュタグがトレンド入りしてる。……世界中のオタクが、零様の自虐ボイスを待ってる」
「素晴らしい。パリの街が零様の吐息という名の『毒ガス』で満たされる。……僕もキャンバスを持って密航するしかないな」
「……その必要はない。……私、すでに遠隔操作型の撮影ドローンをパリに配置済み」
狂信者たちの執念をよそに、結衣は一人、頭を抱えていた。
雅が言っていた「最高のパートナー」。世界ランキング1位のジェニファー・スミス。
彼女は、技術もさることながら、その圧倒的な「陽」のオーラで観客を魅了する。零の「陰」とは正反対の存在だ。
(……零。あんたを、ただの『商品』として利用させてたまるもんですか。……でも、今のままじゃ……)
「……結衣さん。何か、お悩みですか? ……ああ、やはり、僕をパリに連れて行くのが恥ずかしいのですね。今のうちに僕をこの床に塗り込んで、ワックスの一部にしてしまえば、渡航費も浮きますし——」
「……あんたは黙ってなさい! 塗り込まないわよ!」
結衣は零の肩を掴み、至近距離で見つめ返した。
零の瞳が、驚きで揺れる。ベージュの長い髪が、結衣の指先に触れた。
「零。あんた、パリに行く前に、一つだけ私と約束しなさい」
「……遺言ですか? 謹んで承ります」
「違うわよ! ……いい? パリのフロアに立ったら、誰の目も見なくていい。私のことだけ、見てなさい。あんたが『自分はゴミだ』って思おうがなんだろうが、あんたのリードに私の命が懸かってるんだから。私を落としたら、それこそ一生、あんたに借金を背負わせてやるんだからね!」
「……僕を見れば、結衣さんの網膜が焼けてしまうのでは……。……でも、分かりました。結衣さんの命を守るため、僕、命懸けで『僕という汚物』からあなたを遠ざけるような、完璧なディスタンス・リードを披露します」
「……離れる(ディスタンス)じゃなくて、掴む(ホールド)しなさいって言ってるのよ!」
二人のやり取りを、古本屋の影山が薄笑いを浮かべて眺めていた。
「(……ククッ、いいコンビじゃねえか。……だが、雅の女狐も、黙って見守るようなタマじゃねえからな)」
影山は、胸元のポケットに隠された「ある本」に触れた。先代店主――伝説のお面男から託された、社交ダンスの禁忌を記した古い教本。
光の都、パリ。
そこは、世界中の賞賛と嫉妬が渦巻く、美の最終決戦場。
自己肯定感ゼロの貴公子は、愛する資源を守るため、自らを「処刑台」へと追い込む、かつてない悲劇のタンゴを踊ることになる。
「……ポチ、君も連れて行けなくてごめんね。僕がパリのギロチンで消えたら、僕の貯金(500円)で美味しい缶詰を食べてくれ……」
「バウッ!(いいから早く荷造りしろ)」
迷い犬のポチにすら励まされながら、氷室零の「世界進出」へのカウントダウンが始まった。




