第9話:呪いの再来と、パリへの処刑宣告
第9話:呪いの再来と、パリへの処刑宣告
日本武道館での奇跡的な優勝から数日。
佐倉ダンススタジオは、かつてない活気に満ち溢れていた。
「……影山さん、僕はもうおしまいです。あの日、武道館という名の巨大な処刑場で、僕の醜態は全国に生中継されてしまった。今や僕は、日本中の皆さんの視界を汚したA級戦犯です」
スタジオの隅で、零は一心不乱に床を磨きながら呟いた。
彼の「負のストイックさ」によって磨き上げられた床は、もはや鏡を通り越して深淵のような光沢を放っている。
「零、いい加減にしろ。お前が磨きすぎて床が滑りすぎるって、隣のフラダンス教室のママさんたちが悲鳴を上げてるぞ。……まあ、あいつらはお前の顔を見ただけで失神しかけてるんだがな」
古本屋の店主・影山が、呆れたように煙草をくわえてスタジオを覗き込んでいた。
零のビジュアルは、優勝を経てさらに研ぎ澄まされていた。ベージュに染まった縦ロールのロングヘアは、掃除の激しい動きに合わせて優雅に舞い、その美しさはもはや暴力に近い。
「影山さんの言う通りです……僕が床を磨くたび、摩擦係数が減り、皆さんの生存確率を下げている……。ああ、僕は清掃すら満足にできない、磨き上げる資格さえない産業廃棄物なんだ……!」
「あんたね! ゴミ磨きしてる暇があったら、こっちの書類に判を押しなさい!」
結衣の怒声が響く。彼女の手には、金色の縁取りがなされた仰々しい封筒が握られていた。
「これを見なさい! 世界ダンス連盟からの招待状よ! 武道館の映像を見た海外のプロデューサーが、あんたの『絶望のステップ』に心底惚れ込んだんですって。次はフランス、パリで開催される世界大会『グラン・パレ・ドール』への特別招待枠よ!」
「……パリ」
零の手が止まった。その瞳が、恐怖に大きく見開かれる。
「……そうですか。ついに、国際問題に発展してしまったのですね。僕のような者が日本代表として海を渡れば、成田空港の税関で『有害物質』として差し押さえられるに決まっています。……いえ、それ以前に、パリはギロチンの本場。結衣さんは、僕を本場の断頭台へ送り込み、この顔を物理的に処分しようとしているのですね……?」
「だから、処刑じゃないって言ってるでしょ! あんたの顔は1000億ユーロの価値があるって世界が認めたの! これはビジネスチャンス、いえ、あんたが世界一の騎士になるチャンスなのよ!」
「……騎士。……くっ、結衣さんがそこまで僕の処刑を望むなら、僕は甘んじて受け入れます。せめてパリの石畳を汚さないよう、自分の血液をすべて透明な香水に入れ替える修行を始めておきますから……」
零は悲愴な決意を胸に、再び猛烈な勢いで雑巾がけを再開した。その動きはすでに、世界レベルの高速シャッセへと昇華されている。
「……ったく、相変わらずのわからず屋ね」
結衣はため息をつきつつも、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
借金は完済し、スタジオの経営は上向いた。しかし、彼女の脳内計算機が弾き出す「零の価値」は、もはや金銭では測れない領域に達している。
彼が落ち込むたびに、その冷えた手を温める。その瞬間、結衣の胸に走る電流は、どんな大金を得たときよりも彼女の心臓を熱くさせていた。
――だが、二人の背後には、どす黒い影が忍び寄っていた。
「……あら。随分と楽しそうね、零」
スタジオの入り口に、一人の女が立っていた。
その場にいた全員の時間が凍りついた。
女は、零と同じベージュの髪を美しく巻き上げ、全身をシャネルの最新作で固めていた。その顔立ちは、零の美貌の「根源」であることを一目で理解させるほど、残酷に完成されている。
「……母、さん……」
零の声が、恐怖で裏返った。
氷室雅。
かつてトップモデルとして一世を風靡し、幼い零に「お前の顔は、私を汚す毒だ」と刻み込み、彼を捨てた実の母親。
「武道館の映像、見たわよ。……あんな薄汚れた場所で、私の『商品』を安売りするなんて。不愉快極まりないわ」
雅は優雅な足取りでフロアへ踏み込んだ。零が夜な夜な涙ながらに磨き上げた床を、ハイヒールで無慈悲に踏みつける。
「零。あなたのような『呪われた美しさ』は、こんな掃き溜めには相応しくない。……世界大会の招待、受けるのでしょう? 安心なさい。私が全てを管理してあげる。あなたは私の言う通りに、美しき人形として立っていればいいのよ」
「ひっ……! あ、ああ……」
零はガタガタと震え、床に這いつくばった。幼少期に植え付けられた支配の記憶が、彼の思考を真っ白にする。
「ちょっと、あんた誰よ! 土足で上がり込んで勝手なこと言わないでくれる!?」
結衣が、震える零を背中に隠すようにして立ちはだかった。
「……あら、あなたがこの子の『飼い主』さん? 下品な顔。……零、こんな女に頼らなければ生きていけないなんて、本当に惨めね」
「……ううっ、……申し訳ありません。僕は惨めなゴミです、生きていてすみません……」
「零! 謝るんじゃないわよ!」
結衣は雅を鋭く睨みつけた。
「あんたが母親か何か知らないけど、零を『商品』なんて呼ぶのは許さないわ。この子はね、自分の足でフロアに立って、自分のステップで人を笑顔にしたの。あんたの操り人形じゃないわよ!」
「……笑顔? 滑稽ね。この子の顔が、どれだけの人間を狂わせ、壊してきたか。……いいわ。パリで証明しましょう。零がどちらに相応しい存在かを。……私の方でも、最高のパートナーを用意しておくわ」
雅は冷笑を浮かべ、スマホの画面に映る「世界ランク1位のダンサー、ジェニファー・スミス」の姿を一瞥すると、風のように去っていった。
静まり返るスタジオ。
零は、自分の顔を覆って蹲っていた。
「……結衣さん。やっぱり僕は、関わってはいけない人間なんです。母さんの言う通り、僕の顔は人を壊す。……パリには、一人で行ってください。僕は、古本屋の奥の、一番暗い隙間に戻ります……」
「……あんたねぇ」
結衣は深く、深いため息をつくと、零の隣に座り込んだ。
そして、彼の冷え切った手を、少し乱暴に、でも力強く握りしめる。
「いい? あんたがゴミだろうが公害だろうが、私はあんたを世界の中心に立たせるって決めたの。……あんたの母親がなんだって言うのよ。私が見ているのは、鏡の中のあんたじゃない。フロアで私を必死にリードしようとして、手が震えてる『氷室零』よ」
「……結衣、さん……」
「パリに行くわよ。……世界大会の舞台で、その母親の鼻を明かしてやるんだから! あんたの『絶望』がどれだけ美しいか、世界中に知らしめてやるわ!」
「……鼻を、明かす。……そうですか、母の顔面に物理的なダメージを。……わかりました、僕、パリの空気抵抗を計算して、最も破壊力の高いターンを練習しておきます……」
「だから物理的な攻撃じゃないって言ってるでしょ! もう、このわからず屋!」
二人の噛み合わない、けれど確かな絆を感じさせる声が、夜のスタジオに響く。
スポットライトの光が強くなれば、影もまた深くなる。
氷の貴公子の物語は、パリという「光と影」の都で、新たな、そして最も過酷なステップへと踏み出そうとしていた。
(シーズン2、開幕)




