第13話:亡霊の招待状と、100億点の絶望
第13話:亡霊の招待状と、100億点の絶望
公式練習の熱狂が冷めやらぬ夜。パリの古い宿の一室で、結衣はスマートフォンの画面を睨みつけていた。
送り主は、氷室雅。零を「呪い」で縛り付け、捨て去った実の母親だ。
『明日の本番前、零を私の元へよこしなさい。さもなければ、あなたのスタジオの借金を一括返済させる「ある手段」を、今すぐ白紙に戻してあげるわ』
(……手段? 白紙? 借金の件、あの女が裏で動いてたっていうの……?)
結衣の脳裏に、古臭いスタジオの床を必死に磨く零の背中が浮かんだ。彼は「僕が汚した床を清めなければ」と涙ながらに笑っていた。あの居場所を、彼自身の過去が壊そうとしている。
「……結衣さん、どうされました? そんなに怖い顔をして。……ああ、分かりました。僕の呼吸に含まれる有害物質が、ついに結衣さんの自律神経を破壊し始めたんですね。今すぐ窓から身を投げて、パリの酸素濃度を正常に戻してきます……」
「あんたは黙ってて! 投げない! 戻らない! ほら、明日早いんだからさっさと寝なさい!」
「……寝るなんて、横死した勇者でもない僕には贅沢な行為です。僕は壁のシミと対話しながら、立って夜を明かします……」
零は本気で部屋の隅にあるシミに向かって「夜分に失礼します、不肖・氷室です」と挨拶を始めた。その異様な光景に毒気を抜かれつつも、結衣は確信していた。
雅の目的は、零の輝きを奪うことではない。その輝きを「自分の所有物」として換金することだ。
翌日。本番直前の控室。
零は燕尾服に身を包みながら、鏡も見ずに髪を整えていた。その手つきは、もはや職人の域に達している。
「……零」
「はい、結衣さん。……お別れの挨拶ですね。分かっています。こんな豪華な舞台、僕のようなドブネズミが立っていいはずがない。今からでも遅くありません、僕を衣装袋に詰めてセーヌ川に流してください」
「違うわ。……少しだけ、あんたのお母さんに会ってくる」
零の動きが、ぴたりと止まった。
ベージュの縦ロールの間から覗く瞳が、激しく揺れる。
「……母さんに? ダメです。結衣さんが汚れてしまう。あの方は、僕という失敗作を産み落とした『美の神』です。あの方の前に立てば、結衣さんのその……力強い、ガテン系な生命力すら、一瞬で枯らされてしまう……」
「ガテン系は余計よ! 良い、零。あんたはここで、集中してなさい。あんたの仕事は、あんたをゴミだと言う奴らの目をつぶすくらい、綺麗に踊ることだけよ。分かった?」
「……。……はい。結衣さんが、僕を『資源』として有効活用してくださるなら……僕は、ボロ布になるまで踊り続けます」
ホテルの最上階。スカイラウンジ。
そこには、パリの街並みを背景に、一枚の絵画のように座る氷室雅がいた。
「あら。ゴミの飼い主さんが、何の用かしら」
「零はゴミじゃないわ。……あんたの借金肩代わりの話、乗るつもりはないから」
雅はくすりと笑い、ワイングラスを傾けた。
「威勢がいいわね。でも、現実を見なさい。あの教室の借金は、利子が膨らんで一般人には一生返せない額よ。……零を私に返しなさい。彼を私のプロデュースで、世界最高の『悲劇のモデル』として売り出す。そうすれば、あなたの借金なんて一瞬で消えるわ」
「……零を道具にするのは、私だけで十分よ」
「道具? 違うわ。彼は『鏡』なのよ。自分の醜さを映し出して、絶望させてくれる最高の鏡。……あの子自身、それを望んでいるわ。自分は生きている価値がない、誰かのために消費されるのが正解だと。……可哀想に。あなたが彼に『自由』を与えようとするほど、あの子は苦しむのよ」
雅の言葉が、鋭い針のように結衣の胸を刺す。
確かに零は、自分を犠牲にすることに快感を覚えている節がある。それが、彼なりの「誠実さ」であり「狂気」だからだ。
「……あんた、零のダンスを見た?」
「ええ。酷いものね。逃げ回るだけのアリの行列みたいで。……あんなの、ダンスじゃないわ」
「そう。……なら、あんたはもう、零を支配できないわ」
結衣は雅を睨み据え、言い放った。
「あのステップは『逃走』よ。あんたという、最低な過去から逃げるためのね。……そしてね、零はもう一人じゃない。あんたがどれだけ彼を鏡だと言い張っても、私がその鏡を、ダンスホールの一番まぶしい場所に叩きつけてやるわよ」
会場。
零は一人、出番を待っていた。
結衣が戻ってこない。
心細さが、どす黒い自己否定へと変わっていく。
(……やはり、結衣さんは僕を捨てたんだ。母さんの言う通りだ。僕のような人間に関われば、誰もが不幸になる。……僕は、ここで立ち止まってはいけない。消えなければ。跡形もなく……)
そこへ、一人の男が近づいてきた。
ひょっとこの面を被った、例の「お面男」だ。
「……お若いの。逃げるのは良いが、逃げる方向を間違えるなよ」
「……先代の店主? どうしてここに……」
「本を一冊、預かってきた。お前の古本屋の隅に、ずっと挟まってたやつだ」
渡されたのは、黄ばんだ一冊の詩集だった。
零が適当に開いたページには、結衣の殴り書きでこう記されていた。
『100億点の顔面。一歩も引くな。あんたのステップは、私の宝物よ』
零の視界が滲む。
「……。……宝物。ゴミを宝物だと言うなんて、結衣さんは本当に、計算機が壊れている……。……だったら、壊れた計算機が弾き出した『正解』を、僕は守らなければいけない」
アナウンスが響く。
氷室零、佐倉結衣組。
フロアに現れた零の姿に、会場中が静まり返った。
これまでの「絶望」に加え、そこには「覚悟」という名の冷たい火が灯っていた。
結衣が、ステージ脇から駆け寄ってくる。息を切らし、ドレスを振り乱して。
「……零! 間に合った!」
「結衣さん。……遅いですよ。僕の二酸化炭素で、観客の半分が窒息死するところでした」
「ふん、あんたの顔を見た瞬間に、みんな酸素なんて忘れてるわよ! ほら、いくわよ。世界中に、あんたの『逃げ様』を見せつけてやりなさい!」
二人がホールドを組んだ瞬間、フロアに落雷が落ちたかのような衝撃が走った。
雅が、観客席で目を見開く。
それは、もはや逃走ではなかった。
自分という呪いすら引き連れて、光の渦へと飛び込む、美しき反逆。
氷室零の100億点の美貌が、今、パリの夜を永遠に書き換えようとしていた。




