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第4章 ビブリオバトル

帰りのホームルームで、田中先生がもう一度、ビブリオバトルの話をした。

「金曜のビブリオバトル、一組から候補に出てみたい人はいますか」

教室が静まった。誰も手を挙げない。私は机の上で両手を握りしめていた。去年と同じように、この沈黙が過ぎるのを待つつもりだった。

斜め前の席で、美緒が振り返った。

「愛子、出なよ」

小声だった。私は首を横に振った。

「無理だよ。人前とか……」

「展示の紹介文、すごくよかったもん。愛子が本の話すると、その本、読みたくなるんだよ。いちばん読みたくなった本が勝ちなんでしょ。だったら愛子だよ。私、ほんとにそう思う」

美緒の目は、まっすぐだった。冗談を言っている顔ではなかった。

気づくと、私の手は、机の上から少しだけ浮いていた。

「……水原さん?」

先生の声に、私はそのまま、手を挙げきった。

「ありがとう。ほかにいなければ、一組の候補は水原さんで決まりですね。水曜の学年予選で、ほかのクラスの候補と一緒に発表してもらいます。チャンプ本に選ばれた人が、二年生の代表です」

学年集会、という言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。教室の三十人ではなく、二年生全員の前に立つことになる。

ホームルームが終わると、美緒が椅子ごと振り返った。

「愛子、聞いた? 三組からは、井上結衣って子が出るんだって。さっき廊下で噂になってた」

その名前を聞いて、私は息を詰めた。

井上結衣。定期テストのたびに廊下に貼り出される順位表で、いつも私の名前の一つ上にある名前だった。去年から、私は一度も彼女を抜いたことがない。生徒会の役員で、全校集会で壇上に立つ姿を何度も見た。背筋がまっすぐで、話し方に少しも無駄がなかった。

「……勝てるはずないよ」

「なんで? やってみなきゃ分かんないじゃん」

「井上さんは、すごいから。話すのも上手だし、成績だって、私よりずっと上で」

「成績で勝負するんじゃないでしょ。読みたくなった本が勝ちなんだから」

美緒はあっさりと言った。

「大丈夫。愛子の話、絶対伝わるから。……で、何の本にするの?」

「……まだ、決めてない」

「じゃあ、放課後一緒に考えよ」


放課後の図書室で、私たちはノートを広げた。窓の外の空が、少しずつ橙色に染まりはじめていた。

「『星の王子さま』にしないの?」

「あれは展示で紹介したから。それに……みんなの前では、別の、好きな本の話をしてみたい」

「愛子が好きな本、いっぱいありそう」

私は少し考えて、一冊の題名を口にした。

「『夜は短し歩けよ乙女』」

「知らない。どんな話?」

「京都が舞台の恋愛小説。ある先輩が、クラブの後輩の女の子に恋をしてて、なんとか彼女の目にとまろうとするんだけど……」

「面白そう」

「面白いよ。でも、発表には向かないかも。恋愛の話だし」

「いいじゃん、恋愛。みんな好きだよ」

美緒は屈託なく笑った。

「それに、愛子が好きな本なら、好きって気持ちが伝わるでしょ。それがいちばん大事だと思う」

その言葉に、背中をそっと押された気がした。

「……じゃあ、それにする」

「うん。原稿、一緒に考えよ」

私がペンを走らせ、美緒が横からのぞきこんだ。ここ、もうちょっと愛子の気持ち入れたほうがいい。このエピソード、絶対入れよう。美緒の言葉は、いつも思いがけないほど的確で、ノートの上の文章は、少しずつ呼吸を始めていった。

気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていて、ガラスに図書室の蛍光灯がぼんやりと映っていた。

「美緒、バイトは?」

「今日は休み。だから、いくらでも付き合える」

少し疲れた顔で、美緒は笑った。

「ありがとう。……すごく助かった」

「どういたしまして。愛子の発表、絶対うまくいくよ」

美緒がそばにいるだけで、自分の弱さが、少しだけ支えられている気がした。


翌日の放課後、私たちは教室に残った。図書室には自習している生徒がいるから、声を出して練習するなら教室のほうがいい、と美緒が言ったのだ。掃除当番が机を戻して帰っていくと、二年一組の教室には私たち二人だけが残された。三十の机が並んだ教室は、誰もいないと、いつもよりずっと広く感じられた。

「じゃ、本番ね。愛子、前に立って」

言われるまま、私は教壇に上がった。美緒は最前列の真ん中の席に座り、頬杖をついてこちらを見上げた。スマホの画面にストップウォッチを出し、親指をその上に構える。

「五分。よーい、スタート」

私は原稿を胸の前に持って、話しはじめた。昨日二人で書いた言葉が、紙の上に並んでいる。それを順番に追いかけていけばいい。そう思っていた。

「……そして、自分にとって大切な人のことを、少しだけ考えてみてほしいです」

読み終えて顔を上げると、美緒はスマホを見て、それから私を見た。

「三分十二秒」

「え」

「速すぎ。あと、ずっと紙と喋ってた」

美緒は容赦がなかった。

「私、三分間ずっと、愛子のつむじしか見てなかったよ」

頬が熱くなった。たしかに、一度も顔を上げなかった。顔を上げたら、そこに誰かの目がある。それが怖くて、私は紙の中に逃げこんでいた。

「でも、原稿がないと、何を言うか分からなくなりそうで」

「じゃあさ」

美緒は椅子の上で少し身を乗り出した。

「原稿は持ってていいから、一段落ごとに一回だけ、顔上げて。で、そのとき私を見て」

「美緒を?」

「本番も、私のこと探せばいいじゃん。ほかの人は見なくていいよ。私だけ見て話して」

冗談めかした口調だったけれど、美緒の目は笑っていなかった。私は何か言い返そうとして、言葉を見つけられないまま頷いた。


二回目は、四分を少し過ぎた。三回目は、四分四十秒。段落の終わりで顔を上げるたびに、最前列に座った美緒と目が合った。そのたびに美緒は、小さく頷いたり、わざと大げさに目を丸くしたりした。そうされると、次の段落の言葉が、紙を見なくても少しずつ口から出てくるようになった。

「いいじゃん。今の、ちょっと読みたくなった」

「ちょっと?」

「だいぶ」

美緒は笑って、ストップウォッチを止めた。

「じゃ、次は質問タイムね。私、意地悪な客やるから」

「意地悪な客って……」

「はい、質問です」

美緒は背筋を伸ばして手を挙げた。

「その先輩って、最後、告白できるんですか?」

「えっと、それは……最後のほうで、先輩が……」

言いかけたところで、美緒が机を軽く叩いた。

「はい、アウト」

「え?」

「それ言っちゃったら、もう読まなくてよくなるじゃん。いちばん読みたくなった本が勝ちなんでしょ? いちばん気になるとこは、言っちゃダメだって」

私は口を開けたまま、しばらく美緒を見ていた。言われてみれば、その通りだった。物語のいちばん大事なところを、私は今、自分の手で明け渡そうとしていた。

「……じゃあ、なんて答えればいいの」

「読んでのお楽しみです、とか?」

美緒はにやりと笑った。

「私なら、そう言われたら絶対読む」


それから何度も、美緒は質問をした。主人公の先輩はかっこいいんですか。京都に行ったことはありますか。その本、何回読みましたか。答えに詰まると美緒が笑い、うまく答えられると美緒が拍手をした。その音が、誰もいない教室に小さく響いた。

「美緒も、やってみてよ」

休憩のときに、私は言った。

「え、私?」

「『不死鳥の騎士団』。一分だけでいいから」

美緒は少し照れたように髪を耳にかけて、それから私と入れ替わりに教壇に立った。原稿は持たなかった。

「えっと……この巻のハリーは、ずっと怒ってます。誰も自分の話を信じてくれなくて、大人はみんな隠しごとをしてて、友だちにまで八つ当たりしちゃう。読んでて、正直イライラします。でも」

美緒はそこで、ふっと声を落とした。

「でも、ひとりじゃ立ってられないときに、ちゃんと隣にいてくれる人がいるって、この巻でいちばん分かるんです。だから私は、シリーズの中でこれがいちばん好きです」

美緒が話し終えたとき、私は渡されたスマホのストップウォッチを止めるのを忘れていた。画面の数字は、一分を少し過ぎていた。

「……ずるい」

「なにが?」

「今の、すごく読み返したくなった」

美緒は一瞬きょとんとして、それから、照れくさそうに笑った。

「でしょ。好きって気持ちが伝われば勝ちなんだって。愛子がいちばん、それできるはずなんだから」

窓の外では、いつのまにか日が落ちていた。下校時刻を告げる放送が、スピーカーから流れはじめた。

私たちは顔を見合わせて、慌てて荷物をまとめた。昇降口へ向かう廊下で、美緒はスマホの時計を見て、やば、バイト遅れる、と小さく叫んだ。それでも、別れぎわに振り返って言った。

「明日、私のこと探してね。絶対」



金曜日、六時間目。多目的ホールには二年生が全員集まり、クラスごとに床に座っていた。前方の低いステージの脇に、五人の候補が並んでいた。演台の上には、五分を計るためのキッチンタイマーが置かれていた。いちばん端に、井上結衣がいた。膝の上に原稿を置いたまま、一度もそれに目を落とさず、まっすぐ前を見ていた。

私の番は、四番目だった。ステージに上がると、百人を超える視線が、一斉にこちらを向いた。喉が乾き、手のひらが汗で湿っていた。

昨日の約束どおり、私は美緒を探した。二年一組の列の中ほどで、美緒がこちらを見て微笑んでいた。それを見ると、胸を覆っていた霧が、少しずつ晴れていった。

「私が紹介したい本は、森見登美彦さんの『夜は短し歩けよ乙女』です」

一度息を吸ってから、私は話しはじめた。

「京都を舞台にした恋愛小説です。主人公の先輩は、同じクラブの後輩の女の子に恋をしています。でも臆病で、なかなか気持ちを伝えられません。だから先輩は、偶然を装って、何度も何度も彼女の行く先に現れます。でも彼女は、まったく気づきません。そのすれ違いが、おかしくて、少し切ないんです」

ホールは静かだった。誰も、笑っていなかった。言葉が、少しずつ滑らかになっていった。

「この本を読んで思ったのは、恋って不器用なものなんだな、ということです。好きな人に気持ちを伝えるのは、とても難しい。でも、その不器用さが、愛おしいんだと思います」

一組の列で、美緒が小さく頷いていた。

気づくと、私は原稿から目を離していた。

「私たちも、きっと同じだと思います。誰かを大切に思う気持ちは、簡単には言葉にできない。でも、その気持ちがあるから、毎日が少しだけ明るくなるんだと思います。だから、この本を読んで、不器用な恋の可笑しさに触れてみてほしいです。そして、自分にとって大切な人のことを、少しだけ考えてみてほしいです」

言い終えたのと同時に、タイマーが鳴った。拍手が起きた。その中でいちばん大きく聞こえたのは、一組の列からの拍手だった。

「では、質問のある人」

学年主任の先生の声に、後ろのほうで手が挙がった。ほかのクラスの、名前も知らない子だった。

「その先輩って、最後、告白できるんですか」

ホールに小さな笑いが広がった。私は一瞬、言葉に詰まった。一組の列で、美緒が口もとを押さえて、笑いをこらえているのが見えた。昨日の放課後の教室で、まったく同じことを訊かれたのだった。

「それは……読んでのお楽しみです」

笑いが、さっきより大きくなった。私は頬が熱くなるのを感じながら、ステージを降りた。


最後に、井上さんが『こころ』について話した。先生と「K」との関係を丁寧にたどり、人が人を裏切ることの重さを、落ち着いた声で語った。原稿は、最後まで一度も開かれなかった。整理された言葉には隙がなく、ホールじゅうが引きこまれていた。やっぱり、井上さんはすごい。私なんかとは比べものにならない、と思った。


投票用紙が配られ、二年生が一人ずつ、いちばん読みたくなった本の題名を書いて箱に入れていった。集計のあいだ、候補の五人はステージ脇で待たされた。私は膝の上で、指先が白くなるほど手を握りしめていた。

一組の列から、美緒が口の形だけで何か言った。絶対勝てるよ、と読めた。

私は小さく首を振った。井上さん、すごかったし。そう言い返す代わりに、ただうつむいた。

やがて、学年主任の先生がマイクの前に立った。

「集計結果を発表します。上位の二冊だけ読み上げます。『こころ』、五十八票。『夜は短し歩けよ乙女』、六十二票」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「二年生のチャンプ本は、『夜は短し歩けよ乙女』です。金曜日の本番には、一組の水原愛子さんが二年生代表として出場します」

拍手が起きた。信じられなかった。私が、選ばれた。

一組の列から美緒が駆け寄ってきて、私に抱きついた。その体温が、制服越しに伝わってきた。

「やった、愛子」

「ありがとう、美緒」

美緒は、本当に嬉しそうだった。ホールのあちこちで、拍手はまだ続いていた。いくつもの視線が、抱きあう私たちに向けられているのが分かった。けれどそれは、中学の廊下で背中に貼りついていた視線とは、まるで違っていた。誰かを笑うためではなく、誰かを祝うための目だった。人からそんなふうに見られることがあるのだと、私は初めて知った。


集会が解散になり、生徒たちがホールから流れ出していくなかで、誰かが私の名前を呼んだ。

「水原さん」

振り返ると、井上さんが立っていた。近くで見ると、思っていたより背が低かった。

「おめでとう」

声は落ち着いていて、表情も変わらなかった。けれど、原稿を持つ指先に、わずかに力がこもっているのが見えた。

「……ありがとう」

「あなたの話、よかった。原稿から目を離したところ、とくに」

井上さんはそれだけ言うと、小さく会釈をして、人の流れの中に戻っていった。


教室に戻ると、クラスメートたちが口々に声をかけてくれた。おめでとう。あの本、読んでみたい。明美も笑顔で近づいてきた。

「愛子、すごかったね。泣きそうになっちゃった」

「ありがとう、明美」

明美は、ぽんと私の肩を叩いた。


 

放課後、私と美緒は図書室へ行った。特設コーナーの棚には、ところどころ隙間ができていた。貸し出された本の跡だった。カウンターの山田先生が、『夜は短し歩けよ乙女』には集会のあとだけで予約が三件入ったのだと教えてくれた。

「三件だって。愛子のおかげじゃん」

美緒が、隙間の空いた棚に本を並べ直しながら言った。

「……なんか、まだ信じられない」

私は返却された本を一冊ずつ棚に戻しながら、この数日のことを思い返していた。遅くまで残って作った展示。放課後の教室での練習。百人を超える二年生の前に立ったこと。中学のころの私には、どれも考えられないことだった。

「愛子? ぼーっとしてる」

美緒の声に、我に返った。

「ごめん。ちょっと、考え事」

「何考えてたの?」

少し迷った。けれど、美緒になら、少しだけ話せる気がした。

「……中学のころは、人に見られるのが怖かったの。誰かがこっちを見てるだけで、何か言われてるんじゃないかって思って。だから、人前に立つなんて、絶対にできなかった」

美緒は、何も訊かなかった。月曜日、この図書室で私が言いかけてやめたことを、美緒は覚えているはずだった。それでも、黙って続きを待ってくれていた。

「でも、今日は」

私は窓の外を見た。夕陽が、校庭を赤く染めていた。

「全然、怖くなかった。緊張はしたし、手も声も震えてたけど、怖くはなかった」

「どうして?」

「美緒がいたから」

その言葉は、驚くほど自然に口からこぼれた。

「美緒が、ずっとこっちを見て笑ってくれてたから。美緒が、私ならできるって信じてくれたから」

美緒の目が、ゆっくりと潤んでいった。

「それにね、美緒と一緒にいるようになってから、人の目が前ほど怖くなくなった気がするの。美緒は、いつも堂々としてるでしょう。自分のままでいることを、恥ずかしがらない。そういう美緒を見てたら、私も、少しずつ変われた気がする」

私は振り返って、美緒を見た。

「今日のことができたのは、美緒のおかげだよ。……ありがとう」

美緒の目から、涙が一筋こぼれた。

次の瞬間、美緒は私を抱きしめていた。驚いたけれど、私もそっと、その背中に腕を回した。温かかった。美緒の体温が、制服を通してゆっくりと伝わってきた。

「私のほうこそ、ありがと」

耳もとで、美緒の声が震えていた。

本を並べ直す途中の書架のあいだで、西日だけが、私たち二人を照らしていた。

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