文化祭準備は波乱の予感
読書週間が終わって、何日かが過ぎた。
教室の空気は、いつのまにか少しだけ形を変えていた。どこがどう、と言えるほどの変化ではない。ただ、私と美緒が一緒にいることを、誰ももう珍しがらなくなっていた。
朝、引き戸が勢いよく開くと、美緒はまっすぐ私の席へやってくる。鞄を机に置く音さえ、どこか弾んで聞こえた。休み時間には前の席の椅子を借りてこちらを向き、昼休みには弁当を並べ、放課後になると「一緒に帰ろ」と笑う。
「二人、ほんとに仲良くなったねえ」
明美はそんな私たちを見て、おかしそうに笑った。
美緒の笑顔は、窓から差し込む朝の光よりも眩しくて、ときどき、眩暈にも似た小さな息苦しさを覚えた。そして同時に、羨ましかった。どうして美緒は、あんなにまわりの目を気にせずにいられるのだろう。どうして、あんなにまっすぐに笑えるのだろう。
そんなことをぼんやり考えていた、ある月曜日の朝だった。チャイムが鳴り、田中先生が教卓の前に立った。
「来月、文化祭があります。各クラスで出し物を決めてください」
その一言で、教室が一気にざわめいた。
何やる。喫茶店が無難じゃない。劇とか、お化け屋敷とか。でも準備、大変そう。いくつもの声が重なり、椅子の脚が床を擦る音がそれに混じった。田中先生がぱん、ぱん、と二度手を叩くと、ざわめきは潮が引くように静まった。先生は穏やかに続けた。
「このあとのロングホームルームで話し合って、水曜日までに決めてください。それから、実行委員も募集します」
話し合いでは、学級委員の相沢さんが前に立った。
「今出てるのは、喫茶店、劇、お化け屋敷、縁日……ですね。とりあえず、多数決で決めましょうか」
挙手が数えられ、出し物はあっけなく喫茶店に決まった。定番ではあるけれど、準備の様子が思い描きやすく、誰もが何かしらの役目を持てる。教室には、なんとなく納得したような空気が流れた。
「じゃあ次、実行委員。立候補してくれる人」
相沢さんの声に、何人かが手を挙げた。明美。その後ろの席の子。それから。
「はい!」
美緒の右手が、ほとんど跳ねるように振り上がった。教室が小さくざわめく。美緒はそれを気にするふうもなく、はっきりと言った。
「私、衣装とか飾りつけとか得意なんで。絶対やりたいです」
「ありがとう、桐谷さん。ほかには」
私は、指先が冷たくなっていくのを感じながら、迷っていた。
実行委員になれば、美緒と一緒に準備ができる。それは嬉しい。とても嬉しい。けれど、大勢で何かを決める場に自分が座っている姿を、私はうまく思い描くことができなかった。
斜め前の席で、美緒がくるりと振り返った。
「愛子も出なよ」
小声だった。ビブリオバトルのときと、同じ言葉だった。
「え……」
「愛子、計画立てたりまとめたりするの得意じゃん。私もいるんだから、一緒にやろ」
美緒の目には、迷いがなかった。その目に背中を押されるように、私はゆっくりと手を挙げた。
「水原さんも? ありがとう」
挙げた手を下ろすと、振り返ったままの美緒と目が合った。隣では、先に手を挙げていた明美が、こちらを見ていた。三人の視線が、机のあいだで一瞬だけ重なった。誰からともなく、小さく笑みがこぼれた。
こうして、実行委員は六人に決まった。相沢さん、明美、美緒、私、それにほかに二人。
「明日の放課後、第一回のミーティングをします。残ってくださいね」
ホームルームが終わると、美緒が私の席に飛んできた。
「愛子、一緒だね。やった」
美緒の目には、もう文化祭の光景が映っているようだった。
「……うん」
私は曖昧に笑うことしかできなかった。胸の奥で、名前のない小さな不安が渦を巻いていた。美緒は、それに気づいていないようだった。
翌日の放課後、実行委員のミーティングが始まった。教室の後ろに机を寄せて、六人で輪になって座る。グラウンドから運動部の掛け声が遠く響き、窓ガラスがときおり、かすかに震えた。
「まず、喫茶店のコンセプトを決めましょうか。どんな雰囲気にしたいですか」
相沢さんがノートを開くと、すぐに意見が飛び交った。
「可愛い感じがいいよね。ピンクとか、リボンとか」
「落ち着いた大人っぽいのもよくない? 木目調とか」
「レトロな純喫茶は? 古いポスター貼ったりして」
声が重なり、ときどき笑い声が混じった。空気が少しずつ温まっていくなかで、美緒が手を挙げた。
「私、仮装喫茶やりたい。みんなで衣装着て、お客さんがドア開けた瞬間に、テンション上がっちゃうようなの」
「仮装って、何の?」
「え、それは……何でもいいけど」
美緒が言葉に詰まると、輪の中に小さな笑いが起きた。何でもいいなら、まとまらないよね。誰かがそう言って、話は少し宙に浮いた。
そのとき、ふっと、頭の中に一冊の本の背表紙が浮かんだ。図書室の、児童書の棚の、いちばん下の段。何度も手に取った、角の擦れた童話集。
「……童話は、どうかな」
自分の声だと気づくまでに、少し時間がかかった。六人の視線が、一斉にこちらを向いた。喉が乾いた。それでも、言いかけたことを途中でやめたくはなかった。
「赤ずきんとか、アリスとか、帽子屋とか。魔女とか、王子さまとか。違うお話の登場人物が、みんな同じ喫茶店で働いてるの。お話が終わったあと、めでたしめでたしのあとで、みんながここに集まってきた、っていう」
しばらく、誰も何も言わなかった。顔が熱くなって、私はうつむきかけた。
「それ、いい」
最初に声を上げたのは、美緒だった。
「めっちゃいい。赤ずきんがコーヒー運んできて、帽子屋が紅茶いれてくれるんでしょ。絶対かわいい。衣装、全部私が考える」
「お話のあとの喫茶店、って素敵かも」
「お店の名前、童話館とかどう?」
輪の中の空気が、ぱっと明るくなった。相沢さんが、ノートに大きく「童話の喫茶店」と書いた。
「じゃあ、これで決まりですね。役割分担は……登場人物の設定とメニューは、言い出した水原さんにお願いしていい? 衣装と飾りつけは、桐谷さん」
「はい」
私と美緒の返事が、同時に重なった。美緒がこちらを振り返り、嬉しそうに目を細めた。
「愛子と一緒に作れるんだ。楽しみ」
その笑顔に、心臓がひとつ大きく跳ねた。自分の思いつきが、みんなの手でかたちになっていく。その喜びの傍らで、かすかな不安が胸をよぎった。輪になって楽しそうに語り合う声を聞けば聞くほど、「万が一、失敗したら」という思いが、無視できないほど大きくなっていった。
相沢さんが黒板に、準備のスケジュールを書き出していく。チョークの音が、乾いた音を立てた。
「準備期間は三週間。一週目で企画を固めて、二週目で材料の買い出しと試作、三週目で仕上げと練習。こんな流れでどうでしょう」
いいと思います、と何人かが頷いた。私はノートに、そのスケジュールを丁寧に書き写した。日付を並べ、その横に小さな四角を描いて、項目をひとつずつ立てていく。計画どおりに進めなければ、間に合わない。そう思いながらペンを走らせ、ふと横を見た。
美緒のノートには、スケジュールはひとつも書かれていなかった。代わりに、ページいっぱいに絵が描かれていた。赤いフードをかぶった女の子。大きな帽子をかぶって、ティーポットを掲げる誰か。水色のエプロンドレス。美緒の頭の中では、もう、物語の登場人物たちが働きはじめているのだった。
「桐谷さん、スケジュール、大丈夫?」
相沢さんの声に、美緒は慌ててページをめくった。
「あ、はい。大丈夫です」
大丈夫、なのだろうか。私は自分のノートに並んだ小さな四角を見下ろした。日付も期限も書かれていない美緒のページが、少しだけ心配になった。
「次は金曜日。それまでに、それぞれの担当で案を考えてきてください」
はーい、とみんなが返事をして、椅子を引く音が教室に響いた。荷物をまとめていると、美緒が近づいてきた。
「ねえ愛子。設定、一緒に考えない?」
「え? でも、美緒は衣装でしょう」
「うん。でも、どんな子なのか分からないと、衣装も描けないじゃん」
たしかに、その通りだった。
「じゃあ……明日の放課後、図書室で」
「やった。じゃあ明日ね」
美緒は手を振って、廊下の向こうへ駆けていった。その軽やかな背中を見送りながら、私は小さく息をついた。ノートの四角と、登場人物でいっぱいのページ。同じ喫茶店を思い描いているはずなのに、私たちの見ているものは、ずいぶん違う気がした。
翌日の放課後、私たちは図書室の奥のテーブルに向かい合って座った。窓から差しこむ西日が、テーブルの木目を橙色に染めていた。
私は児童書の棚から何冊か本を抜いてきて、テーブルに積んだ。グリム童話集。『不思議の国のアリス』。アンデルセン。それから、ノートに表を作った。登場人物の名前の欄、出てくるお話の欄、喫茶店での仕事の欄、それから、どうしてこの店で働くことになったのか、の欄。
「赤ずきんは、ホール係。狼から逃げたあと、おばあさんの家にお菓子を届ける仕事をしてたから、運ぶのが得意。帽子屋は、紅茶係。原作では、ずっと六時のお茶会を続けてるから」
「六時?」
「時間と喧嘩して、時計が六時のまま止まっちゃったの。だから、いつでもお茶の時間」
「なにそれ、かわいい」
美緒は身を乗り出して、笑った。
「魔女は、お菓子係。白雪姫に林檎を食べさせた魔女だと怖すぎるから、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家の魔女のほうがいいかも。お菓子を焼くのは上手だし」
「愛子、ほんとに詳しいね」
美緒の声に、からかう響きはなかった。私は少しだけ照れて、ペンを握りなおした。
「それで、王子さまは……」
「ねえ、赤ずきんはさ」
美緒が、ペンを持つ私の手にそっと触れた。
「もっと強い子にしたくない? 狼に食べられるだけじゃなくて、自分で狼やっつけて、そのまま喫茶店の用心棒やってる、みたいな」
「でも、原作だと、狼をやっつけるのは猟師で……」
「原作どおりじゃなくてよくない? めでたしめでたしの、あとなんでしょ」
私は言葉に詰まった。めでたしめでたしのあと。それは、私が言い出したことだった。
「……でも、元のお話から離れすぎたら、お客さんが分からなくなるよ」
「分かんなくても、面白ければいいじゃん。やりながら変えていけばいいよ」
「直前で設定が変わったら、演じる子が困るでしょう」
「大丈夫だって。なんとかなる」
「なんとかなる、って……」
「愛子は心配しすぎ」
美緒の語気に、かすかな苛立ちがにじんだ。眉がわずかに寄る。図書室の静けさが、かえってその苛立ちをくっきりと際立たせた。
「……とりあえず、表だけは作っておこう」
私は話を戻した。自分の声が硬くなっているのが分かった。
「うん」
美緒も頷いた。けれどそのあとの作業は、少しも進まなかった。私が原作ではこうだから、と書けば、美緒はもっと面白くしたいと言う。美緒がこうしたい、と言えば、私はそれじゃ別のお話になると答える。ノートの表は、いつまでも半分空いたままだった。
閉館を知らせるチャイムが鳴ったとき、言葉を交わす気力もなく、二人とも黙り込んでいた。
金曜日、二回目のミーティング。各担当が、順番に案を発表していった。広報担当の明美は、手描きのポスターの下絵を広げた。本のページが開いて、そこから登場人物たちが飛び出してくる絵だった。いいね、と拍手が起きた。会計担当の子は、材料費は一人五百円の集金でまかなえそうだと報告した。
順調に進むなかで、私の番が来た。
「登場人物は、赤ずきん、アリス、帽子屋、魔女、王子さまの五人にしました。それぞれの設定は、こんな感じです」
ノートの表を読み上げる。それから、メニュー。
「メニューは、お話にちなんだ名前にしました。赤ずきんの、おばあさんに届けるクッキー。帽子屋の、六時のお茶会の紅茶。お菓子の家の魔女の、マフィン。値段は、ドリンクが二百円、フードが百五十円です」
「ちょっと待って」
美緒が手を挙げた。
「名前はいいけど、中身、ふつうのクッキーと紅茶だよね。それじゃ、もったいなくない?」
「え……」
「せっかくお話の喫茶店なのに、出てくるのがふつうのお菓子じゃつまんないよ。アリスの、わたしを食べて、ってカードが刺さったケーキとか。魔女の、色が変わる不思議なお茶とか。もっと特別感あるのにしたい」
頬が熱くなった。
「でも、これなら確実に作れるし、お金もかからないよ」
「お金より、来た人が喜ぶほうが大事じゃない?」
「喜ぶって言っても、作れなかったら意味がないでしょう」
「作れるよ。やってみなきゃ分かんないじゃん」
教室の空気が、目に見えて張りつめた。相沢さんが慌てて間に入った。
「二人とも、落ち着いて。基本のメニューと、一日に数を決めた特別メニューを分けて作るのはどうかな」
「……それなら」
私は頷いた。美緒も頷いた。けれど、私たちは一度も目を合わせなかった。
ミーティングが終わると、美緒は誰よりも先に教室を出ていった。廊下を遠ざかる足音を、私は席に座ったまま聞いていた。窓の外では、夕焼けが校舎の壁を赤く染めていた。
「愛子、大丈夫?」
明美が隣の椅子を引いて座った。
「美緒ちゃんと、ちょっとぎくしゃくしてるよね」
「……分かる?」
「分かるよ。でも、それって悪いことじゃないと思うな」
「え?」
「違う意見があるから、いいものができるんでしょ。二人とも本気だから、ぶつかるんだよ。だいたい、童話の喫茶店って言い出したの、愛子じゃん。愛子が本気じゃなかったら、こんな喧嘩にならないよ」
明美の言葉に、胸のつかえが少しだけ軽くなった。
「……ありがとう、明美」
明美は微笑んだ。それでも、心のどこかにわだかまりが残っていた。
週末、私は家でひとり、設定の続きを考えていた。リビングのテーブルに童話集とノートを広げ、登場人物の一人ひとりについて、原作の場面を読み返しては、表の欄を埋めていく。きちんと原作に沿って決めておけば、失敗はしない。そう信じてペンを動かしているのに、ページの余白に浮かんでくるのは、美緒の顔ばかりだった。
自分で狼をやっつけて、用心棒をしている赤ずきん。読み返した物語のどこにも、そんな赤ずきんはいなかった。それなのに、なぜか、その姿がいちばんはっきりと目に浮かんだ。
美緒は今、何をしているのだろう。衣装の案は、ちゃんと考えているのだろうか。そう考えたそばから、そんなふうに疑っている自分が嫌になった。窓の外で雨が降りはじめ、ガラスを細い水の筋が伝っていった。
日曜日の夕方、スマホが短く鳴った。
『愛子、明日話せる? 衣装の案、見てほしい』
画面の文字を読んで、肩から力が抜けた。美緒も、ちゃんと考えてくれていたのだ。
『うん。放課後、図書室で』
『ありがと! じゃあ明日ね』
美緒と話せば、きっと分かりあえる。そのときの私は、そう思っていた。
月曜日の放課後、美緒はスケッチブックを胸に抱えて図書室にやってきた。
「見て。描いてきた」
開かれたページには、五人の登場人物が並んでいた。
赤ずきんは、膝丈の赤いケープに、白いブラウス。腰には、焼き菓子の入った籐の籠を提げている。アリスは、水色のワンピースに真っ白なエプロンドレス。帽子屋は、身長の半分はありそうな大きなシルクハットに、値札がぶら下がったまま。魔女は、裾が床まで届く黒いマントに、星の刺繍。王子さまは、金の縁取りのある赤いマントと、小さな冠。色鉛筆の線はのびやかで、紙の上の五人は、今にもページから歩き出して、注文を取りに来そうだった。
「……きれい」
思わず、そう言っていた。
帽子屋の帽子の値札には、小さく「10/6」と書かれていた。原作の挿絵と同じだった。
「美緒、これ……」
「愛子が言ってたじゃん。帽子屋は、帽子を売る人だって。だから値札つけたの。図書室でアリス借りて、挿絵見ながら描いた」
美緒は少し得意げに笑った。私の話を、ちゃんと聞いてくれていたのだ。胸の奥が熱くなった。それなのに、その熱のすぐ横で、頭の片隅の別の声が、数字を数えはじめていた。
「美緒。これって、予算内で作れる?」
「え?」
「マントとかケープとか、布をちゃんと買ったら、けっこうお金かかると思う。集金は一人五百円だから……」
美緒の表情が、ゆっくりと曇っていった。
「じゃあ、どうすればいいの」
「もう少し、シンプルにするとか。エプロンだけにして、小物で分かるようにするとか」
「エプロンだけって、それ、ただの喫茶店じゃん」
「そういう意味じゃなくて……」
「愛子って、いつも現実的すぎるよ」
「現実的じゃなきゃ、実現できないでしょう」
「でも、夢がないじゃん。お話の中の人たちが働いてるんでしょ。それっぽくなかったら、意味ないじゃん」
「それっぽくするのも大事だけど、ちゃんと計画しないと」
「計画、計画って、愛子はそればっかり!」
美緒の声が、図書室の静けさを破った。閲覧席の何人かがこちらを振り返り、カウンターの山田先生が眼鏡の奥からこちらを見た。
「二人とも、静かにね」
「……すみません」
小さく頭を下げた。けれど、空気はもう元には戻らなかった。
「ねえ、愛子」
美緒が、低い声で言った。
「私のこと、信用してない?」
「え?」
「設定のときも、メニューのときも、今も。いつも、私の言うこと否定するよね。原作と違うとか、作れないとか、予算オーバーするとか」
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもり?」
美緒は私をまっすぐに見ていた。その瞳には、隠しきれない悲しみがにじんでいた。
「私、本気で考えてきたんだよ。愛子が考えたお話の喫茶店、ちゃんと本物にしたくて。でも愛子は、私のこと信用してないんだね」
「違うよ」
思わず、声が大きくなった。山田先生が、今度ははっきりとこちらを向いた。
「話し合いなら、外でしてもらえるかしら」
私たちは黙って図書室を出た。
廊下には西日が斜めに差しこみ、私たち二人の影を床に長く伸ばしていた。
「愛子は、私の案、どう思ってるの」
「素敵だと思う。本当に。でも……」
「でも?」
「現実的に考えないと、失敗するかもしれない」
「失敗、失敗って。やる前から諦めてどうするの」
「諦めてないよ。慎重になってるだけ」
「慎重すぎるんだよ、愛子は」
美緒の目の縁が、赤くなっていた。
「私、愛子と一緒に頑張りたかった。でも、こんなに合わないなら……」
「美緒」
「もういい。一人でやるから」
美緒はスケッチブックを抱えなおすと、そのまま廊下を駆けていった。足音が階段の向こうに消えても、私は動けなかった。夕日に伸びた自分の影だけが、廊下に取り残されていた。
その夜、私はベッドの上で膝を抱えていた。美緒に言われた言葉が、何度も頭の中を巡っていた。
私は何か、間違ったことを言っただろうか。現実的に考えただけだ。けれど、美緒を傷つけたことだけは確かだった。スケッチブックを開いたときの、輝いていた目。帽子屋の値札を指さして、得意げに笑った顔。美緒は、私の話を聞いて、図書室で本を借りて、挿絵を見ながら描いてくれたのだ。それなのに私は、絵のことを何ひとつ言わないうちに、お金の話をした。
スマホを見ても、美緒からのメッセージはなかった。いつもなら、寝る前に必ず「おやすみ」が届くのに。何度も文字を打ちかけては、消した。ごめん、とだけ送っても、何も伝わらない気がした。結局、何も送れないまま、画面の明かりが消えた。暗くなった画面に、自分の顔がぼんやりと映っていた。
翌朝、私はいつもより早く学校に着いた。美緒に会って、ちゃんと話したかった。けれど、美緒はなかなか来なかった。チャイムが鳴る直前、引き戸が開いて、美緒が駆けこんできた。いつもと同じぎりぎりの時間。けれど、美緒は私のほうを見なかった。自分の席に座り、すぐにうつむいた。
声をかけられなかった。授業中も、美緒は一度も振り返らなかった。休み時間も、昼休みも、ほかの子と話していた。斜め前の背中が、昨日までよりずっと遠くに見えた。
「愛子、美緒ちゃんと何かあった?」
昼休み、明美が小声で訊いた。
「……喧嘩した」
「仲直り、しないの?」
「したい。でも、なんて言えばいいか分からない」
明美は少し考えてから、言った。
「謝るだけじゃなくて、愛子がどう思ってたのか、ちゃんと話したほうがいいよ。なんでぶつかったのか、二人で分からないと、また同じことになるから」
明美の言うとおりだった。けれど、勇気が出なかった。話しかけても、無視されたらどうしよう。そう思うと、緊張で体がこわばり、声をかけられなかった。
その日の放課後も、ミーティングがあった。私と美緒は同じ輪の中に座っているのに、一度も目を合わせなかった。
「じゃあ、衣装の進み具合を教えてください」
相沢さんに促されて、美緒が立ち上がった。
「衣装は、みんなおそろいのエプロンにして、小物で役が分かるようにします。予算内に収まるように工夫します」
声はいつもより小さく、張りがなかった。胸が締めつけられた。赤いケープも、星のマントも、値札のついたシルクハットも、美緒は断念してしまった。私が、妥協させてしまったのだ。
「設定とメニューのほうは?」
「……予定どおりです」
私も短く答えた。ミーティングは淡々と進み、終わると、美緒はすぐに教室を出ていった。私はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
翌日も、美緒は私を避けつづけた。喧嘩をしてから、二日が過ぎていた。このまま、もう元には戻れないのかもしれない。そう思った瞬間、目の奥が熱くなって、私は昼休みに一人でトイレの個室にこもった。
美緒の笑う声が聞きたかった。美緒のいない毎日なんて、もう考えられなかった。
個室を出ると、洗面台の前に明美が立っていた。
「愛子。泣いてた?」
「……うん」
「まだ、美緒ちゃんと話してないんだ」
「話せないの。怖くて」
「何が?」
「もし美緒に、もう友達じゃないって言われたら……」
明美は私の両肩をつかんだ。いつもの柔らかな顔ではなかった。
「愛子。逃げちゃだめだよ」
「……え」
「美緒ちゃんも、きっと同じこと考えてる。愛子が怖がって逃げたら、二人とも傷ついたままになっちゃう」
明美の手のひらから、体温が伝わってきた。
「ちゃんと、向き合って」
私は、頷いた。今日、美緒と話そう。そう決めた。
放課後、私は美緒を探した。教室にはいなかった。図書室にもいなかった。校舎の中を歩き回り、最後に、屋上へつづく階段をのぼった。重い扉を押し開けると、強い風が吹きこんできた。
美緒は、フェンスに寄りかかって街を見下ろしていた。金色の髪が、風に吹かれて揺れていた。
「美緒」
美緒が振り返った。
「……愛子」
「話、してもいい?」
美緒は少し迷うような顔をしてから、小さく頷いた。私は、その隣に並んで立った。遠くのビルの向こうに日が沈みかけていて、空が橙色から薄い紫へ移ろっていた。
「この前は、ごめん」
「……」
「美緒が、アリスを借りて、挿絵まで見て描いてきてくれたのに、私、絵のこと何も言わないうちに、お金のことばっかり言った」
美緒は何も言わなかった。風の音だけが、二人のあいだを抜けていった。
「私ね、失敗するのが怖いの。だから、先に全部決めておかないと落ち着かない。お話も、原作どおりにしておけば間違いないって、ずっと思ってた」
声が震えた。それでも、止めなかった。
「でも、週末に設定を考えてたら、自分で狼をやっつける赤ずきんが、ずっと頭から離れなかったの。原作のどこにもいないのに。いちばん、生きてるみたいだった」
美緒が、ゆっくりとこちらを向いた。
「めでたしめでたしのあと、って言い出したのは私なのに。お話が終わったあとのことなんて、誰にも決められないのに。……美緒のほうが、ずっと分かってた」
「……ほんとに?」
「ほんとだよ。美緒の描いた五人、本当にきれいだった。あの五人が働いてる喫茶店を、私も見たい」
美緒の目が、ゆっくりと潤んでいった。
「でも私、愛子を困らせてばっかりだった。愛子が本読んで、ちゃんと考えてくれてたのに、私、描きたいことばっかりで……」
美緒はうつむいた。その肩が、小さく震えていた。
「困ってないよ」
私は、フェンスを握る美緒の手に、自分の手を重ねた。冷たい金網の上で、美緒の手だけが温かかった。
「二人で考えよう。美緒の衣装を、ちゃんと形にできる方法」
美緒が顔を上げた。
「……仲直り、してくれる?」
私が訊くと、美緒は泣きながら何度も頷いた。
次の瞬間、私たちはどちらからともなく抱きあっていた。美緒の体温が、制服越しにゆっくりと伝わってきた。心のどこかに残っていたわだかまりが、少しずつ溶けていくのが分かった。
「ごめんね、愛子。私も、意地張ってた」
「ううん。私も、ごめん」
屋上を渡る風が、さっきより少しだけ、やわらかくなった気がした。
その日から、仲直りした私たちは、あらためて二人で準備を始めた。
美緒のスケッチブックを机の真ん中に置き、その隣に私のノートを開く。描かれた五人の衣装のひとつひとつに、私が材料と値段と作り方を書き添えていく。赤ずきんのケープは、百円ショップの赤い不織布を切って、襟もとをリボンで結ぶことにした。アリスのエプロンドレスは、家庭科室の白いエプロンを借りて、裾に美緒がレースのテープを縫いつける。帽子屋のシルクハットは、黒い画用紙を丸めて作り、値札の「10/6」は、私が原作の挿絵を見ながら書き写した。魔女のマントは、古いカーテンを持ってきてくれる子がいた。王子さまの冠は、厚紙に金の折り紙を貼った。
設定のほうも、少しずつ形を変えた。赤ずきんは、自分で狼を追い払ったあと、この店の看板娘兼用心棒になった。帽子屋は、六時のまま止まった時計を店の壁に掛けている。お菓子の家の魔女は、焼いたお菓子をお客さんに食べてもらうのが、何よりの楽しみ。王子さまは、どのお話の王子なのか自分でも忘れてしまって、それを思い出すまでここで働いている。
「愛子、その王子さま、ちょっと切なくない?」
「切ないけど、ちょっとだけ面白いでしょう」
「うん。好き」
美緒はそう言って、王子さまの横顔を、スケッチブックに描き足した。
魔女の色が変わるお茶も、本当に作れることが分かった。青い花のハーブティーにレモンを搾ると、紫に変わるのだと、美緒がどこかで調べてきたのだ。試しに家庭科室で作ってみると、透明なカップの中で、青がゆっくりと紫に染まっていった。私たちは顔を見合わせて、声を上げて笑った。特別メニューは一日二十杯まで、と私がノートに書き足すと、美緒は「さすが」と言って、私の肩を軽く叩いた。
中学のころから、誰かとぶつかることは、私にとって何よりも避けなければならないことだった。けれど、美緒とぶつかって、初めて分かったことがある。物語に精通した私と、想像力にあふれた美緒。どちらか一人だけでは、私たちのクラスの出し物は、きっと完成しなかった。
ときどき、明美も手伝いに来てくれた。
「仲直りできて、よかったね」
「うん。明美のおかげ」
「私は何もしてないよ。二人がちゃんと向き合ったからでしょ」
明美はそう言って、段ボールの看板を指さした。そこには美緒の字で、大きく「童話館」と書かれていた。
文化祭まで、あと二週間。空き教室の机の上で、赤いケープと黒いシルクハットが、出番を待つように並んでいた。




