第3章 2人で開いたページ
月曜の朝、ホームルームの前に、校内放送のスピーカーが小さく鳴った。
「本日から一週間、読書週間が始まります。図書室に特設コーナーを設けていますので、ぜひ立ち寄ってください」
放送部の一年生だろうか、読みあげる声はどこか硬く、ところどころ上ずっていた。その声が古いコンクリートの壁に反響して、教室の隅まで届いた。私は頬杖をついて、窓の外を眺めていた。朝の薄い光の中で、校庭の端の芝が風に撫でられている。
胸の奥で、鼓動が少しずつ速くなっていた。
先週、美緒と二人で毎日遅くまで残って作った展示コーナー。ポップの色合いも、文字の大きさも、本の並べ方も、何度もやり直した。誰か一人の記憶にでも残ってくれればいい。そう思おうとしても、指先は冷たくなっていくばかりだった。
「緊張してる?」
隣の席の明美が、小声で訊いた。
「……うん、少し」
「大丈夫だって。美緒ちゃんと一緒に作ったんでしょ。絶対いいに決まってる」
「ありがとう」
短く返しただけだったけれど、それだけで肩から少し力が抜けた。
教室の引き戸が勢いよく開いて、美緒が入ってきた。いつもならチャイムと競うように駆けこんでくるのに、今朝はずいぶん早い。金色の髪を揺らしながら、まっすぐ私の席までやってきた。
「愛子、おはよ。今日からだね」
朝の光を透かした髪が、薄い蜜のような色をしていた。
「みんな、見てくれるかな」
「……どきどきする」
「大丈夫。あんなに頑張ったんだもん」
美緒の声には、迷いがなかった。その迷いのなさが、こわばっていた私の胸を、少しずつほぐしていった。
ホームルームが始まると、田中先生が読書週間の説明をした。
「今週は毎朝、ホームルームのあとに十五分、読書の時間を取ります。各自、好きな本を読んでください」
教室が小さくざわついた。毎日? めんどくさ、という声があちこちから漏れる。先生はそれを聞き流して、穏やかに続けた。
「それから、金曜日の六時間目には、学年集会で、ビブリオバトルをします」
聞き慣れない言葉に、教室がまた少しざわついた。先生はチョークを取って、黒板に大きく「ビブリオバトル」と書いた。
「知的書評合戦、とも呼ばれています。ルールは簡単です。発表する人は、自分が読んで面白いと思った本を一冊持ってきて、五分間でその本の魅力を紹介します。原稿を読み上げるよりも、できれば自分の言葉で話してください。一人の発表が終わるごとに、聞いていた人が質問したり、感想を言ったりする時間が少しあります」
先生は黒板に「五分」「質問タイム」と書き足して、こちらを振り返った。
「全員の発表が終わったら、聞いていた人全員で投票します。基準は、ひとつだけです。『どの本が、いちばん読みたくなったか』。話の上手さでも、本の難しさでもありません。いちばん票を集めた本が、チャンプ本になります」
チャンプ本、と誰かが繰り返して、小さな笑いが起きた。先生はそれにつられるように少しだけ笑ってから、続けた。
「各クラスから候補を一人出してもらうので、出てみたい人は、帰りのホームルームまでに考えておいてください」
どの本が、いちばん読みたくなったか。先生の言葉が、耳の奥に残った。話の上手な人が勝つのではなく、本そのものが選ばれる。それなら、と一瞬だけ思い、私はすぐにその考えを打ち消した。本が選ばれるのだとしても、その本を差し出すために人前に立つことに、変わりはない。去年も同じ催しがあった。そのとき私は、最後まで顔を上げることができなかった。人前に立つことなど、考えるだけで喉が塞がった。
斜め前の席で、美緒が振り返った。黒板を指さし、それから私を指さして、口の形だけで何か言った。愛子っぽい、と読めた。私は気づかないふりをして、目を伏せた。
読書の時間が始まると、教室は急に静かになった。ページをめくる乾いた音が、あちこちでまばらに鳴った。私は鞄から、読みかけの推理小説を取り出した。
ふと目を上げると、斜め前の席で、美緒が本を開いていた。このあいだ私が貸した『星の王子さま』だった。表紙の角が、少し折れている。毎日、鞄に入れて持ち歩いていたのだろう。
まわりでは、開いた本に顔を伏せて居眠りをしている子もいれば、ページをめくる手を止めて窓の外を眺めている子もいた。その中で、美緒は背筋を伸ばして、じっと文字を追っていた。伏せた睫毛が、文字の行に合わせてゆっくりと動く。窓からの光が、髪の一本一本を細かく光らせていた。私は、気づくとその横顔を見ていた。
きれいだ、と思った。何の飾りもなく、ただそう思った。
美緒が、不意にこちらを振り返った。目が合った。美緒は何も言わずに、ふっと笑った。
私は慌てて本に目を落とした。心臓が耳の奥で暴れていた。ページをめくろうとする指がうまく紙をつかめず、私は同じ一行を、何度も読み直した。
一時間目のチャイムが鳴っても、さっきの笑顔は、まだ瞼の裏に残っていた。
昼休み、私たちは展示の様子を見に、図書室へ行った。
扉を開けると、古い紙と木の匂いがした。特設コーナーの前には、もう何人かの生徒が立っていて、本を手に取っていた。
「これ、可愛い」
「ポップ、手描きなんだ」
そんな声が、小さく重なって聞こえた。
美緒が、私の腕をぎゅっとつかんだ。
「聞いた? 褒められてる」
「うん……よかった」
答えながら、胸の奥がじんわりと温かくなった。
並べた本は、二十冊。その一冊一冊に、美緒の描いたポップが添えてある。色鉛筆で描かれた絵は、どれも生き生きとしていて、表紙の向こうにある物語の扉を、そっと開いて見せているようだった。その下に、私の書いた短い紹介文が小さく貼られている。
カウンターから、山田先生が近づいてきた。
「二人とも、いい仕事をしてくれたわね。このポップは、桐谷さん?」
「はい。愛子が文章を書いて、私が絵を描きました」
「いいコンビね」
先生はそう言って微笑んだ。その一言が、胸の底に静かに沈んでいった。
昼休みの残りを、私たちは図書室の奥の席で過ごした。窓から差しこむ光の中に、細かな埃が浮かんでは消えていた。美緒は膝の上に『星の王子さま』を広げ、残りのページを読んでいた。私も隣で本を開いていたけれど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。すぐそばで、美緒の呼吸が規則正しく聞こえていた。
やがて、ぱたん、と本を閉じる音がした。顔を上げると、美緒は表紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……いい本だね、これ」
「でしょう」
軽く返しながら、私は胸のどこかが小さく跳ねるのを感じていた。
「大切なものは目に見えない、ってとこ。なんか、すごく残った」
美緒の目が、うっすらと濡れていた。
「泣いた?」
「ちょっとだけ。……恥ずかしいな」
美緒は頬を赤くして、照れたように笑った。その笑顔はどこか頼りなくて、私は胸を軽く押されたような気がした。
「恥ずかしくないよ。いい本だもん」
「うん。愛子が貸してくれたからだよ。ありがと」
美緒が、膝の上の私の手に、自分の手を重ねた。温かかった。指先がかすかに触れあったところから、何かが小さく震えた。
「愛子ってさ、ほんとに本が好きだよね」
「……うん。本は、裏切らないから」
言ってしまってから、しまった、と思った。
「裏切らない?」
美緒が首を傾げた。私は言葉を探した。喉の奥が乾いていた。
「中学のとき、ちょっと……」
そこまで言って、声が続かなくなった。廊下の囁き声。下駄箱の扉。その先を言葉にしようとすると、喉が固く閉じてしまう。
「……ごめん。なんでもない」
私はうつむいた。美緒は、それ以上何も訊かなかった。ただ、重ねていた手に、少しだけ力をこめた。
「話したくなったら、いつでも聞くから」
その声は、驚くほど静かだった。私は頷くことしかできなかった。
しばらくして、美緒がぽつりと言った。
「私もね、中学のとき、ちょっと色々あったんだ」
「……え?」
「この見た目だけで、馬鹿にされたりとか。どうせ頭悪いんでしょ、とか、遊んでるんでしょ、とか。何も知らないくせに、って、ずっと悔しかった」
美緒の声が、かすかに揺れた。いつも明るい美緒の目の奥に、暗い影がよぎった。始業式の日、教壇の上で一瞬だけ見えた、あの翳りだった。
「だから、決めつけられるのって、ほんと嫌。……でも、愛子はちゃんと私を見てくれたでしょ」
美緒は、静かに笑った。
「だから、愛子のこと、大事だなって思ってる」
大事。その言葉は、胸の奥で温かく灯ると同時に、小さな怯えも連れてきた。大事なものほど、なくなったときに痛い。私はそれを知っている。
けれど、まっすぐこちらを見る美緒の目を見ていると、その怯えは少しだけ遠のいた。この人は、裏切らない。そう信じたいと思うこと自体が、まだ少し痛かった。




