↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

第3章 2人で開いたページ

月曜の朝、ホームルームの前に、校内放送のスピーカーが小さく鳴った。

「本日から一週間、読書週間が始まります。図書室に特設コーナーを設けていますので、ぜひ立ち寄ってください」

放送部の一年生だろうか、読みあげる声はどこか硬く、ところどころ上ずっていた。その声が古いコンクリートの壁に反響して、教室の隅まで届いた。私は頬杖をついて、窓の外を眺めていた。朝の薄い光の中で、校庭の端の芝が風に撫でられている。

胸の奥で、鼓動が少しずつ速くなっていた。

先週、美緒と二人で毎日遅くまで残って作った展示コーナー。ポップの色合いも、文字の大きさも、本の並べ方も、何度もやり直した。誰か一人の記憶にでも残ってくれればいい。そう思おうとしても、指先は冷たくなっていくばかりだった。

「緊張してる?」

隣の席の明美が、小声で訊いた。

「……うん、少し」

「大丈夫だって。美緒ちゃんと一緒に作ったんでしょ。絶対いいに決まってる」

「ありがとう」

短く返しただけだったけれど、それだけで肩から少し力が抜けた。


教室の引き戸が勢いよく開いて、美緒が入ってきた。いつもならチャイムと競うように駆けこんでくるのに、今朝はずいぶん早い。金色の髪を揺らしながら、まっすぐ私の席までやってきた。

「愛子、おはよ。今日からだね」

朝の光を透かした髪が、薄い蜜のような色をしていた。

「みんな、見てくれるかな」

「……どきどきする」

「大丈夫。あんなに頑張ったんだもん」

美緒の声には、迷いがなかった。その迷いのなさが、こわばっていた私の胸を、少しずつほぐしていった。


ホームルームが始まると、田中先生が読書週間の説明をした。

「今週は毎朝、ホームルームのあとに十五分、読書の時間を取ります。各自、好きな本を読んでください」

教室が小さくざわついた。毎日? めんどくさ、という声があちこちから漏れる。先生はそれを聞き流して、穏やかに続けた。

「それから、金曜日の六時間目には、学年集会で、ビブリオバトルをします」

聞き慣れない言葉に、教室がまた少しざわついた。先生はチョークを取って、黒板に大きく「ビブリオバトル」と書いた。

「知的書評合戦、とも呼ばれています。ルールは簡単です。発表する人は、自分が読んで面白いと思った本を一冊持ってきて、五分間でその本の魅力を紹介します。原稿を読み上げるよりも、できれば自分の言葉で話してください。一人の発表が終わるごとに、聞いていた人が質問したり、感想を言ったりする時間が少しあります」

先生は黒板に「五分」「質問タイム」と書き足して、こちらを振り返った。

「全員の発表が終わったら、聞いていた人全員で投票します。基準は、ひとつだけです。『どの本が、いちばん読みたくなったか』。話の上手さでも、本の難しさでもありません。いちばん票を集めた本が、チャンプ本になります」

チャンプ本、と誰かが繰り返して、小さな笑いが起きた。先生はそれにつられるように少しだけ笑ってから、続けた。

「各クラスから候補を一人出してもらうので、出てみたい人は、帰りのホームルームまでに考えておいてください」

どの本が、いちばん読みたくなったか。先生の言葉が、耳の奥に残った。話の上手な人が勝つのではなく、本そのものが選ばれる。それなら、と一瞬だけ思い、私はすぐにその考えを打ち消した。本が選ばれるのだとしても、その本を差し出すために人前に立つことに、変わりはない。去年も同じ催しがあった。そのとき私は、最後まで顔を上げることができなかった。人前に立つことなど、考えるだけで喉が塞がった。

斜め前の席で、美緒が振り返った。黒板を指さし、それから私を指さして、口の形だけで何か言った。愛子っぽい、と読めた。私は気づかないふりをして、目を伏せた。


読書の時間が始まると、教室は急に静かになった。ページをめくる乾いた音が、あちこちでまばらに鳴った。私は鞄から、読みかけの推理小説を取り出した。

ふと目を上げると、斜め前の席で、美緒が本を開いていた。このあいだ私が貸した『星の王子さま』だった。表紙の角が、少し折れている。毎日、鞄に入れて持ち歩いていたのだろう。

まわりでは、開いた本に顔を伏せて居眠りをしている子もいれば、ページをめくる手を止めて窓の外を眺めている子もいた。その中で、美緒は背筋を伸ばして、じっと文字を追っていた。伏せた睫毛が、文字の行に合わせてゆっくりと動く。窓からの光が、髪の一本一本を細かく光らせていた。私は、気づくとその横顔を見ていた。

きれいだ、と思った。何の飾りもなく、ただそう思った。

美緒が、不意にこちらを振り返った。目が合った。美緒は何も言わずに、ふっと笑った。

私は慌てて本に目を落とした。心臓が耳の奥で暴れていた。ページをめくろうとする指がうまく紙をつかめず、私は同じ一行を、何度も読み直した。

一時間目のチャイムが鳴っても、さっきの笑顔は、まだ瞼の裏に残っていた。


 

昼休み、私たちは展示の様子を見に、図書室へ行った。

扉を開けると、古い紙と木の匂いがした。特設コーナーの前には、もう何人かの生徒が立っていて、本を手に取っていた。

「これ、可愛い」

「ポップ、手描きなんだ」

そんな声が、小さく重なって聞こえた。

美緒が、私の腕をぎゅっとつかんだ。

「聞いた? 褒められてる」

「うん……よかった」

答えながら、胸の奥がじんわりと温かくなった。

並べた本は、二十冊。その一冊一冊に、美緒の描いたポップが添えてある。色鉛筆で描かれた絵は、どれも生き生きとしていて、表紙の向こうにある物語の扉を、そっと開いて見せているようだった。その下に、私の書いた短い紹介文が小さく貼られている。

カウンターから、山田先生が近づいてきた。

「二人とも、いい仕事をしてくれたわね。このポップは、桐谷さん?」

「はい。愛子が文章を書いて、私が絵を描きました」

「いいコンビね」

先生はそう言って微笑んだ。その一言が、胸の底に静かに沈んでいった。


昼休みの残りを、私たちは図書室の奥の席で過ごした。窓から差しこむ光の中に、細かな埃が浮かんでは消えていた。美緒は膝の上に『星の王子さま』を広げ、残りのページを読んでいた。私も隣で本を開いていたけれど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。すぐそばで、美緒の呼吸が規則正しく聞こえていた。

やがて、ぱたん、と本を閉じる音がした。顔を上げると、美緒は表紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。

「……いい本だね、これ」

「でしょう」

軽く返しながら、私は胸のどこかが小さく跳ねるのを感じていた。

「大切なものは目に見えない、ってとこ。なんか、すごく残った」

美緒の目が、うっすらと濡れていた。

「泣いた?」

「ちょっとだけ。……恥ずかしいな」

美緒は頬を赤くして、照れたように笑った。その笑顔はどこか頼りなくて、私は胸を軽く押されたような気がした。

「恥ずかしくないよ。いい本だもん」

「うん。愛子が貸してくれたからだよ。ありがと」

美緒が、膝の上の私の手に、自分の手を重ねた。温かかった。指先がかすかに触れあったところから、何かが小さく震えた。

「愛子ってさ、ほんとに本が好きだよね」

「……うん。本は、裏切らないから」

言ってしまってから、しまった、と思った。

「裏切らない?」

美緒が首を傾げた。私は言葉を探した。喉の奥が乾いていた。

「中学のとき、ちょっと……」

そこまで言って、声が続かなくなった。廊下の囁き声。下駄箱の扉。その先を言葉にしようとすると、喉が固く閉じてしまう。

「……ごめん。なんでもない」

私はうつむいた。美緒は、それ以上何も訊かなかった。ただ、重ねていた手に、少しだけ力をこめた。

「話したくなったら、いつでも聞くから」

その声は、驚くほど静かだった。私は頷くことしかできなかった。

しばらくして、美緒がぽつりと言った。

「私もね、中学のとき、ちょっと色々あったんだ」

「……え?」

「この見た目だけで、馬鹿にされたりとか。どうせ頭悪いんでしょ、とか、遊んでるんでしょ、とか。何も知らないくせに、って、ずっと悔しかった」

美緒の声が、かすかに揺れた。いつも明るい美緒の目の奥に、暗い影がよぎった。始業式の日、教壇の上で一瞬だけ見えた、あの翳りだった。

「だから、決めつけられるのって、ほんと嫌。……でも、愛子はちゃんと私を見てくれたでしょ」

美緒は、静かに笑った。

「だから、愛子のこと、大事だなって思ってる」

大事。その言葉は、胸の奥で温かく灯ると同時に、小さな怯えも連れてきた。大事なものほど、なくなったときに痛い。私はそれを知っている。

けれど、まっすぐこちらを見る美緒の目を見ていると、その怯えは少しだけ遠のいた。この人は、裏切らない。そう信じたいと思うこと自体が、まだ少し痛かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。