第2章 ノートに咲いた小さな花
翌朝、私はいつもより三十分早く家を出た。
理由は、自分でもよく分からなかった。目が覚めたときから胸のどこかが落ち着かず、部屋にじっとしていられなかった。四月の朝の空気はまだ冷たく、制服の袖口から手首のあたりへ忍びこんできた。
昇降口はまだ静かだった。生徒の姿はまばらで、体育館のほうから、朝練のボールが床を打つ音が遠く響いていた。上履きに履き替えようと屈んだとき、背後で弾んだ声がした。
「あ、愛子。おはよー」
振り返ると、桐谷美緒が大きく手を振りながら近づいてくるところだった。朝の薄い光の中で、金色の髪がやわらかく光っていた。スカートは昨日よりさらに短くなったように見え、歩くたびに裾が小さく揺れた。赤いリボンは決められた形ではなく、わざと崩したように首元で結ばれていた。
「……おはよう」
「早いね。私もなんか早く来ちゃった」
彼女は私の隣でローファーを脱ぎ、慣れた手つきで上履きに足を滑りこませた。甘いシャンプーの香りが、すぐそばでふわりと立った。
それから鞄を開けて、昨日借りていった文庫本を取り出した。
「ねえ、これ、もう読んじゃった」
「え、もう?」
「うん。めっちゃ面白かった。続きある?」
私は言葉に詰まった。軽い読み口の本とはいえ、三部作の一冊目で、ページ数もそれなりにある。一晩で読み終えるとは思っていなかった。
「……ある。図書室に、二巻も三巻も」
「やった。じゃあ今日も放課後、一緒に行こ」
私は頷いた。頷きながら、口の端がわずかに持ち上がっているのが自分で分かった。
廊下を並んで歩きながら、彼女は昨日の本の話を始めた。
「主人公の女の子、すごい可愛いよね。でもさ、相手の男子、ちょっとウザくない?」
「……そうかな」
「だって自分の気持ち全然言わないし、女の子困らせてばっかじゃん」
私は、以前何度も読み返した場面を思い浮かべた。たしかに、あの男の子の煮え切らなさには、読んでいてもどかしくなるところがあった。
「……まあ、たしかに」
私が行間を何度もなぞって、ようやく輪郭をつかんだ感情を、彼女はたった一言で「ウザい」と片づけてしまう。乱暴なのに、どこか的を外していない。その身も蓋もなさが妙に可笑しくて、胸の奥がくすぐったくなった。
「愛子はどう思う?」
「私は……不器用なだけだと思う」
「へえ。愛子、優しいね」
彼女は振り返って笑った。
教室では、もう明美が窓際の席でノートを広げていた。
「おはよー、愛子。あれ、美緒ちゃんも一緒?」
「おはよー。今日もよろしくね」
明美はすぐに笑顔を返し、二人は本の話で盛り上がりはじめた。私は少し離れたところから、それを眺めていた。明美とも、彼女はもう打ち解けている。そのことに、私はほんの少し安心した。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室は一気に騒がしくなった。窓から差しこむ春の光が机の上を白く照らし、誰かの弁当箱から卵焼きの甘い匂いが流れてきた。明美が委員会の集まりで教室を出ていき、私は一人で弁当の包みを解こうとした。
「愛子、ちょっといい?」
彼女が私の机の横に立ち、空いている前の席の椅子をくるりとこちらに向けた。
「数学、教えてくれない? 今日の授業、全然分かんなくて」
「……うん。いいよ」
私は弁当を脇に寄せて、ノートを広げた。彼女が開いた教科書のページには、赤ペンの丸がいくつも重なっていた。
二次関数の文章題だった。条件がいくつも絡みあっていて、慣れていないとどこから手をつければいいのか分からない。私は言葉を選びながら、ゆっくり説明を始めた。
「まず、この『周りの長さが』っていうところを、xで表すと……」
彼女ははじめ、眉を寄せて首を傾げていた。けれど、私が式を一行書き足すたびに、少しずつ表情がほどけていった。俯いた睫毛の影が、ノートの上でかすかに揺れた。
「あ、そっか。そういうことか」
分かった瞬間、彼女はぱっと顔を上げて、私の腕を軽く叩いた。その手のひらが思っていたよりも温かくて、私は一瞬、言葉を失った。
「愛子、教えるのめっちゃ上手。先生より全然分かりやすい」
「そんな……普通に説明しただけ」
「普通じゃないって。頭いいし、優しいし」
その声には、何の含みもなかった。だからこそ、私はどうしていいか分からなくなった。誰かにまっすぐ褒められることに、私は慣れていなかった。中学の終わりのほうは、誰かが私の名前を口にするだけで、身体がこわばった。顔が熱くなるのを止められず、私はノートに目を落とした。
「……ありがとう」
彼女は笑って、また問題に戻った。
しばらく二人で問題を解いていると、彼女がふと手を止めた。私のノートをじっと見つめていたかと思うと、余白に、赤ペンで小さなハートを描き足した。
「え……」
「記念」
悪戯っぽく笑う。私はそのハートを消すことができなかった。昨日、退屈な授業のあいだに彼女がノートの端に描き散らしていたのと同じ形だった。それが今、私のノートの上にある。たったそれだけのことで、胸の奥がじんわりと熱を持った。
「ねえ、愛子」
彼女は少し声を落として、私の顔をのぞきこんだ。
「私さ、愛子みたいな子、初めてかも」
「……え?」
「私みたいな見た目だと、すぐチャラいとか、どうせ勉強できないんでしょとか、決めつけられるじゃん。でも愛子は、ちゃんと話聞いてくれるし、本貸してくれるし、こうやって勉強も教えてくれるし」
彼女の声が、ほんのわずかに揺れた。
「だから、嬉しいんだ」
私は何も言えなかった。
昨日の朝、教壇に立つ彼女を見て、私は何を思っただろう。金色の髪と短いスカートを見て、本なんて読まない子だと決めつけた。図書委員に手を挙げたときも、冗談だろうと思った。彼女がいちばん嫌がることを、私は誰よりも先にしていた。
「……ごめん」
私が言うと、彼女はきょとんとした顔をした。
「私も、最初は見た目で決めつけてた。ちゃんと見ようとしてなかった。……ごめんなさい」
彼女の目が、ゆっくりと丸くなった。それから、その縁がうっすらと光った。
彼女は不意に、両手で私の手を包みこんだ。少しひんやりしていた指先が、私の体温でゆっくりと温まっていく。心臓の音が、耳の奥まで響いた。
「じゃあさ、これからは仲良くしてね。あと」
彼女は私の手を握ったまま、少しだけ口を尖らせた。
「桐谷さん、じゃなくて、美緒ね。昨日、先生に私のことそう言ってたでしょ。聞こえてたんだから」
「……美緒」
声に出すと、その名前は思っていたよりも柔らかく、舌の上に残った。
「うん」
美緒は満足そうに笑った。
教室のざわめきが遠くに聞こえた。誰かが笑い、誰かが椅子を引く音がした。けれど、この机の上の小さな場所だけは、私たち二人のものだった。
予鈴が鳴るまで、美緒は私の手を離さなかった。ノートの上には、並んだ式と、小さな赤いハートが残っていた。
放課後、教室の空気が緩むと、美緒が私の机に両手をついた。
「愛子、図書室行こ」
「うん」
二人で教室を出た。部活へ向かう生徒たちの足音や笑い声が廊下を満たしていたが、私たちの周りだけは、不思議と静かだった。その静けさが、私には心地よかった。
図書室の扉を開けると、いつもの紙の匂いがした。傾きはじめた陽が大きな窓から斜めに差しこみ、書架のあいだに長い影を落としていた。カウンターで本の整理をしていた山田先生が、私たちに気づいて微笑んだ。
「あら、今日も二人そろって。ちょうどよかった。春の読書週間の準備、そろそろ始めましょうか」
先生は企画書を広げて説明してくれた。毎年四月の終わりから五月にかけて、図書室では展示を行う。今年のテーマは「心に残る一冊」。生徒や先生に思い出の本を紹介してもらい、展示コーナーにまとめる。紹介文を添えたポップ作りが、図書委員の仕事だった。
「楽しそう」
美緒が言った。その声は、教室で聞くよりも少し静かだった。
私たちは奥の閲覧テーブルに座り、紹介する本の候補を書き出しはじめた。美緒はノートの上で頬杖をつき、ペンを指先でくるくる回しながら考えていた。
「愛子の心に残ってる本って、何?」
「……『星の王子さま』かな。何度読んでも、そのたびに違うところが引っかかる」
「読んだことない。でも、タイトルきれいだね。貸してほしい」
私は鞄から文庫本を取り出した。表紙は少し色褪せ、角が丸くなっている。
「これ、私の。貸すよ」
「いいの? ありがと。……じゃあ私は、『ハリー・ポッター』かな。全部読んだけど、いちばん好きなのは『不死鳥の騎士団』」
美緒の声が、少し低くなった。
「つらいことばっかりなのに、最後にちょっとだけ、希望が見えるとこが好き」
指先で表紙をなぞりながら、美緒はどこか遠くを見るような目をしていた。その横顔を見ていると、胸の奥がきゅっと縮んだ。派手な見た目からは想像できないほど、美緒の言葉にはいつも、嘘のない熱がこもっている。そして私は、その熱に少しずつ引き寄せられていた。
ポップの案を出しあっているうちに、美緒は絵を描くのが好きなのだと言って、ノートの隅にさらさらとペンを走らせた。箒に乗った女の子が、星空を横切っていく絵だった。線は簡単なのに、風を切る勢いがあった。
「これ、ポップに使えないかな」
「いいと思う。……美緒の絵、すごく好き」
口にしてから、自分でも驚いた。美緒は頬を赤くして、照れ隠しのように私の肩を軽く叩いた。
「もう、愛子って褒めるのうますぎ」
ページをめくる音と、ときどき漏れる小さな笑い声だけが、図書室の静けさの中に落ちていった。窓から差しこむ光が少しずつ赤みを帯び、書架の木目を染めていった。
ふと時計を見ると、窓の外はもう薄暗くなりはじめていた。
「あ、やば。バイト」
美緒が慌てて立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「ごめん、愛子。先に帰るね」
「ううん。気をつけて」
「ありがと。また明日ね」
美緒は小走りに図書室を出ていった。扉の閉まる音が静かに響き、私は一人、テーブルに残された。
向かいの椅子には、まだ美緒の体温が残っているような気がした。ノートの隅には、箒に乗った女の子と、星がいくつか。私はそのページを指先でそっと撫でた。一人になると、図書室の静けさはいっそう深くなる。けれど今日は、それが寂しくなかった。
帰り道、街灯がぽつぽつと灯りはじめた通学路を歩きながら、私は今日のことを思い返していた。一緒に問題を解いたこと。名前を呼んだこと。手を握られたこと。図書室で笑いあったこと。どれもが小さく、やわらかく、胸の底に溜まっていった。
家に帰ると、母が台所で夕食の支度をしていた。鍋から立ちのぼる湯気に味噌の匂いが混じり、魚焼きグリルからは、鯖の脂がはぜる音がしていた。
「おかえり。今日も遅かったのね」
「うん。図書室で」
「また? 毎日行かなくてもいいんじゃないかしら」
母の声に、わずかな棘があった。私は鞄を下ろしながら、静かに答えた。
「でも、好きだから」
母は鍋をかき混ぜる手を止めて、小さく息をついた。
「昨日話してた、派手な子。まだ一緒にいるの?」
「……うん。一緒に図書委員やってる。桐谷美緒っていうの」
母の眉が、わずかに寄った。
「愛子。ああいう子のまわりには、トラブルが起きやすいのよ。また中学のときみたいになったら……」
二日続けて、母は中学のことを口にした。その言葉は、昨日よりも深く刺さった。廊下の囁き声。閉めきった部屋の暗さ。一瞬でよみがえりかけたものを、私は奥歯を噛んで押し戻した。
今は、違う。
「美緒は、いい子だよ。本が好きで、頑張り屋で……私のこと、ちゃんと見てくれる」
声が震えた。母はしばらく黙って私を見つめていた。
「……そう。ならいいけど。気をつけなさいね」
それ以上、母は何も言わなかった。黙ってグリルから鯖を取り出し、皿に移しはじめた母の背中を見てから、私は自分の部屋に戻った。
ベッドに腰を下ろし、ノートを開いた。赤い小さなハートと、星空を飛ぶ女の子。指先で触れると、胸の奥がまた、静かに鳴りはじめた。




