九話 母
利政が帰蝶の名を口にすると、小見の方の指が、膝に掛けた小袖を握り締めた。
「帰蝶が、戻ってきた」
館の北の端にある小さな棟には、朝になっても灯が残っている。庭へ向いた蔀は半分しか上げられておらず、細い光が、枕元の飲み残した湯を照らしていた。
娘を亡くしてから、小見の方は人と会うことを厭うようになった。食事を運ぶ女と、薬を届ける者。それだけに出入りを限らせたのは利政である。山で見つかった娘の噂も、この部屋へは持ち込ませなかった。
まず、何者なのか確かめてから。そのつもりで先延ばしにしているうちに、一月が過ぎた。昨夕、紗季が斬られたと聞いた時には、二度目をどう知らせるのかという考えが、手当てを命じる声と一緒に浮かんでいた。
「どこに」
小見の方が尋ねる。
「同じ館におる。傷を負うたが、命に別状はない」
「傷……」
衾を除けようとした手に、力が入らない。利政が支えるより先に、戸口の侍女が膝を寄せた。
「会わせてくだされ」
「その前に、話しておかねばならぬことがある」
「会わせて」
顔を上げた妻の頬は痩せ、目の下に影が落ちている。その目だけが、利政を退かせなかった。
彼は廊下の者を呼び、肩に掛ける衣を持ってくるよう命じた。
右の袖へ腕を通す時、紗季は思わず息を止めた。
「こちらは、まだ通さずにおきましょう」
槙が袖を戻し、小袖を肩から掛け直す。右の前腕に巻かれた布が、胸元から白くのぞいた。
昨夜、傷を洗われた時の痛みは、刀を受けた瞬間よりはっきり覚えている。傷口を改めた者は、深くはない、と槙に告げた。それでも、手を開くたび、腕の外側が引きつれる。逃げる時に捻った腰も、寝返りのたびに目を覚まさせた。
朝になって戸が鳴ると、刀を抜く音に聞こえた。廊下の影が動けば、入口を見ずにはいられない。
「お梅は?」
「湯を替えに。今朝から三度目でございます」
槙は紗季の背に手を当て、屏風から少し離して座らせてくれた。枕元へ置かれた椀には、軟らかく煮た飯が半分残っている。お梅が匙を差し出すたび、紗季は食べていたつもりなのに、なかなか減らなかった。
「帰蝶」
廊下から、女の声がした。
槙の手が止まる。
戸口に現れたのは、紗季の知らない女だった。薄い色の小袖に、もう一枚を肩から羽織っている。袖から出た手首が細い。女は付き添いの腕を離し、敷居の前でよろめいた。
「奥方様」
槙が立つより早く、後ろにいた利政が肘を支えた。
奥方。では、この人が。
教わった挨拶をしなくては、と紗季は左手を畳についた。けれど女は、その手の前に膝を落とした。
「帰蝶……」
顔を見つめられる。額から頬へ、唇へ。何かを一つずつ確かめるような目が、すぐに涙で曇った。
紗季は何も言えないうちに、抱き締められた。
右腕が触れて、小さな声が漏れる。槙が「お傷が」と言うと、女は慌てて力を緩めたが、離れようとはしなかった。左の肩へ顔を寄せ、何度も帰蝶の名を呼んだ。そのたびに、紗季の襟が少しずつ湿っていく。
「小見。その娘は――」
利政の声に、紗季は顔を上げた。
この人は違う。そう言ってくれるのだと思った。言われたら、女の腕は離れる。安堵するはずなのに、紗季の左手は、女の背に触れかけたまま動かなかった。
利政は妻を見下ろし、それから紗季を見た。口元がわずかに動く。だが、続く言葉はなかった。
「よう、戻って……よう……」
小見の方の肩が震える。
知らない人の匂いがした。家で母の服に顔を埋めた時の、洗剤の匂いとは違う。けれど、頭の後ろを包んでくれる手は温かい。昨日、刀が迫った時には、もう誰にもこんなふうに触れてもらえない気がした。
触れているのは、私じゃない。
そう思いながら、紗季は左手を女の背に添えた。骨の形が、衣越しにも分かるほどだった。
謝ろうとして唇を開いたが、何を謝るのか言えず、また閉じる。小見の方はその仕草も泣くのを堪えていると思ったらしく、紗季の髪をそっと撫でた。
しばらくして槙が体を休めるよう勧めると、小見の方はようやく顔を上げた。
「ここに、座らせておくれ」
娘の顔が見える場所を指している。
槙が壁際に敷物を用意し、お梅が持ってきたばかりの湯をそちらへ運んだ。紗季はその間、左の肩に残る湿り気を、指で押さえていた。
翌日は、小見の方が起きられなかった。
会いたいという気持ちだけでは、体はついてこないのだと、槙が言った。紗季は小さく頷き、見舞いに行ってよいかとは尋ねなかった。会えばまた、あの顔で喜ばせてしまう。それを喜んでしまう自分も怖かった。
代わりに、小見の方の侍女へ、昨夜は眠れたと伝えてもらった。本当は何度も目が覚めたが、前の夜よりは眠れたので、嘘ではないと思うことにした。
お梅は紗季の座の近くで、傷んだ袖を畳んでいた。裂け目の端に、乾いた血が残っている。
「それ、捨てないの」
「繕える所は、繕います」
返事はいつもどおりなのに、布を置いた後も、指が裂け目をなぞっている。
「怖かったよね」
お梅は顔を上げ、すぐに伏せた。
「水など、取りに行かなければ」
「いてくれたから、呼んでもらえたんだよ」
口にすると、あの時の叫び声が耳に戻った。自分では出せなかった声。紗季は膝の上で左手を握り、ほどいてから、お梅の手の近くへ置いた。
「ありがとう」
お梅は布を畳み直した。今度は裂け目が内側に入るように。
「次は、もっと早く呼びます」
次なんてない方がいい。そう言いかけて、紗季は頷くだけにした。
昼過ぎ、作兵衛が戸外から槙を呼んだ。篠原清十郎は牢へ移され、取り調べを受けているという。槙が戸を閉めようとした時、紗季は呼び止めた。
「篠原様の、お処しは」
作兵衛の視線が、一度、白い布に落ちる。
「まだ、仰せはございませぬ」
安堵したのか、怖くなったのか、紗季には分からなかった。あの人が刀を持っていない。それだけを確かめたかったはずなのに、牢という言葉を聞くと、今度はそこで何を考えているのかが気に掛かる。
槙は紗季の前へ戻り、袖の掛かりを直した。
「今は、お傷を治すことに心をお向けください」
紗季は逆らわず、背を敷物へ預けた。
小見の方から、少しだけ話をしようと使いが来たのは、さらに二日後の午前だった。
紗季の部屋を出て、庭沿いの廊下を北へ折れる。いつもの表へ続く渡りを左に見送り、細い廊下をまっすぐ進むと、竹を植えた坪庭があった。小見の方の居所はその向こうにあり、途中の戸口には女が一人、控えている。
お梅は紗季の左後ろを歩いた。腰が痛んだら腕を貸せるように、という槙の指示だったが、紗季が足を緩めると、お梅も黙って歩調を落としてくれる。
小見の方は寝所の隣に座っていた。東から入る光が、庭へ開けた戸の手前で途切れている。室の奥には屏風が立ち、その前の畳に小見の方、廊下に近い板敷には侍女が控えていた。
紗季は槙の目を見てから、入口に近い畳の端へ膝をついた。
「もう少し、こちらへ」
呼ばれて動こうとすると、腰が痛む。槙が脇から支えようとしたが、小見の方が手で留めた。
「そこが楽なら、そこでよい。槙、背へ当てるものを」
言われた槙は隣の侍女に小声で頼み、畳んだ衣を受け取って紗季の後ろへ置いた。お梅は入口の外へ下がり、紗季の顔が見える位置で座る。
「立派に挨拶できましたね」
小見の方に言われ、紗季は首を振りかけた。
「でも、まだ、どこへ座ればいいのか……」
「分からなくなる?」
「はい。槙に教わりましたが、お部屋が変わると」
小見の方は、少し思案してから侍女に扇を借りた。閉じたままの扇で、自分の前を示す。
「今日は母の部屋へ、おまえが訪ねてきた。だから、私が迎える側。おまえの座はこちらです」
紗季のいる所から、もう少し奥の位置だった。
「けれど、目上のお客様をお招きしたなら、私がそこを空けることもある。奥へ座ればよい、とばかり覚えてはなりません」
紗季は入口を振り返った。人の出入りする場所から遠い方が上、と覚えようとしていたので、その決め方では足りないらしい。
「お父上がおいでの時は?」
「誰とお会いになるかにもよります。表とここでも違う。まずは、ここで私が客を迎える時の座を見ておきなさい」
小見の方は槙を呼び、客に見立てて先ほどの位置へ座らせた。槙は一瞬ためらったものの、扇の示す方へ膝を進める。紗季はその脇へ移ろうとして、袖を引かれた。
「そこでは、槙が私に話しかける間を塞いでしまうでしょう」
二人の顔を交互に見ると、確かに自分の肩が、小見の方から槙を見る邪魔になっていた。
紗季は少し後ろへずれた。そこなら、二人とも見える。入口にいるお梅が器を運ぶ道も空いた。
「こんなに、変わるんですね」
「相手が変わればね。迷ったら、迎えてくれる者の案内を待つことです。急いで座らずとも、誰も取りはしませんよ」
小見の方が笑う。紗季もつられて笑い、右腕の布を左手で押さえた。
その時、侍女が外から届いた包みについて告げようとした。小見の方が紗季に話し終えるまで口を開かず、目が向けられて初めて差出人の名を言う。紗季も中を見たいと思ったが、問いを飲み込んで待った。
客役を終えて下がった槙と、目が合った。ほんの少し、頷いてくれた。
包みは乾かした菓子だった。小見の方は分けるように言い、それから息をついた。肩が落ちて、先ほどまでより顔色が白く見える。
「母上、今日は……」
呼びかけてから、紗季は自分の声に驚いた。
「もう、お休みください」
「そうね。少し、喋りすぎました」
小見の方は嬉しそうに頷いた。その表情を見ていると、呼び直すことなどできなかった。
部屋へ戻ると、槙が硯箱を運んできた。
「お腕を使うのは、ほんの少しにいたしましょう」
机は庭からの光を左に受ける位置へ据えられる。お梅が水を注ぎ、槙が墨を磨る間、紗季は渡された手本を眺めた。
ばらばらの仮名なら、少しずつ読めるようになってきた。けれど、続けて書かれると、どこで一字が終わるのか分からない。二つの字だと思っていたものが一字で、その下の払いだと思ったところから、次の字が始まる。
「これが、『おん』?」
「はい。こちらまででございます」
槙の指が細い墨の跡を辿る。紗季は指の動きを見て、もう一度、声に出した。
今日は小見の方へ、菓子と教えへの礼を文にする。すぐそばにいる相手へ手紙を書くのは、不思議な感じがした。廊下を戻って、ありがとうと言えば済む距離なのに。
「何を書けば……いえ、お礼は言いたいんです。でも」
「では、まず、どなたへ何をお伝えしたいか、口でおっしゃってみてください」
紗季は、菓子を頂いたこと、席を教えてもらったこと、無理をしないでほしいことを挙げた。槙は頷き、紙の端に短い言葉を書き留めていく。
「一度に何もかも申し上げようとなさらずに。頂いたものへの礼を先に。そのあと、お体を案じる言葉を添えましょう」
並べ直された言葉を読み、紗季はそこで初めて、自分がずいぶん長いことを言おうとしていたと気づいた。
筆を取る。柄を握り込まないよう指を置き直すと、傷がぴりりとした。槙が紙を少し寄せてくれたので、肘を大きく動かさずに済む。
一字目は、墨が多すぎた。次は慎重になりすぎて、線が途中で痩せた。
「今日は、字を続けようとなさらなくて結構です」
「でも、手本と違います」
「読めるように書く方が先でございます」
紗季は息を吐き、手本の線を追うのをやめた。覚えた形で、一つずつ書く。たった数文字なのに、腕より先に肩が疲れた。
槙はそこまでにさせた。書きかけを片づけず、墨が乾くまで待つようお梅に伝える。
「あと一行だけ」
「明日にも、書けます」
ぴしゃりと言われ、紗季は筆を置いた。
仕上がったのは翌日の昼だった。宛てる相手をどこへ記すか、自分の名をどれほど下げるか。槙の指示を受けながら余白を残し、最後に帰蝶と書く。
その二字だけは、もう何度も練習している。自分の名前より先に、筆で書けるようになってしまった。
紙を折ろうとすると、お梅が覗き込んだ。
「姫様のお書きになった字は、ここが分かりやすうございます」
「上手じゃないってこと?」
「そうは、申しておりません」
慌てる顔に、紗季は小さく笑った。お梅も遅れて笑い、折り目をつける手を貸してくれる。
「届けてくれる?」
「はい」
お梅が立つ前に、紗季はもう一つ頼んだ。
「お返事は、急がなくていいって。お休みになっていたら、そのまま置いてきて」
呼び止めるような口ぶりにならないよう、今度はお梅が顔を上げるのを待って伝えた。
昼の光が傾く頃、お梅は小見の方から言葉を預かって戻った。
「よく書けました、と。次には、お手本をお選びくださるそうでございます」
紗季は机の上に残った練習の紙を見た。母上と書きかけ、途中で筆を止めた一枚がある。槙に渡そうとして、やめた。
帰蝶の母へ届けた文は、今、あの部屋にある。自分の母へは、まだ一通も届かない。それでも、今日、小見の方の体を心配したことまで、偽物にしたくはなかった。
紗季はその紙を二つに折った。まだ痛む右手に代わって、お梅がそっと端を押さえてくれた。




