十話 お梅の失態
廊下で鞘が柱に触れる音がして、紗季は帯を結ばれる途中で身を引いた。
槙の指が止まる。戸の向こうでは、客を迎えに出る男たちが何事もなく通り過ぎていった。
「少し、緩めましょうか」
「ううん。今ので、いい」
腕の傷に触れないよう、槙は右の袖口を整えた。小見の方へ礼の文を届けてから二日。ようやく袖を通して過ごせるようになったものの、腕を伸ばしきると、布の下で傷が引きつれる。
日が暮れれば、表の座敷で酒宴が始まる。招かれているのは、美濃の土豪、久瀬宗兵衛とその家臣たちだった。久瀬の家との誼を深める席である、と利政から伝えられている。
帰蝶も顔を見せよ。長居はせずともよい。
その言葉に、断る余地があるのか紗季には分からなかった。槙も、支度をしながら、腰が痛むようなら自分に知らせるよう繰り返すばかりだった。
「久瀬様は、帰蝶様をよく御存じなの?」
「お小さい頃に、お見かけしたほどと伺っております」
それなら、昔のことを細かく尋ねられずに済むだろうか。
安堵しかけて、篠原清十郎の目を思い出す。誰の前で育ったのか。なぜ、あるはずの傷がないのか。答えられなかった問いは、刀の光より長く頭に残っていた。
「篠原様は、まだ……」
「お調べの最中でございます」
槙は結び目を確かめてから、紗季の正面に座った。
「今宵、そのお話はなさいませぬよう」
「分かってる」
口に出さないことには慣れてきた。考えないでいる方は、少しも上手くならない。
戸口に、お梅が顔を出した。今日は自分の付き添いだけでなく、宴の給仕もするという。袖は邪魔にならぬようまとめられ、髪もいつもよりきつく結っている。
「お席へ、とのことでございます」
紗季が立つ時、お梅は左側へ回った。手を貸そうとして、槙の顔を見てから引っ込める。
「大丈夫。ゆっくりなら」
そう伝えると、お梅は戸を大きく開けて待ってくれた。
表へ渡る廊下の下を、水が細く流れていた。庭の向こうの山は、夕日を受けた上の枝だけが明るい。台所から来る者とすれ違うたび、焼いた魚や温かな汁の匂いが近づいては離れた。
紗季は座敷の手前で足を止めた。
ここで奥へ進みすぎてはいけない。迎える人の案内を待つ。
槙が先へ出て、控えの者と言葉を交わした。その背越しに、室の北側に座る利政が見える。
正面の入口から向かって左、庭に近い側には客の席が設けられ、反対側に斎藤家の者が並んでいた。
真ん中は人の通る幅を残して空けられている。
紗季の席は、利政の右脇から少し下がったところだった。そこなら、向かいの主客と利政との間を塞がずに済む。
教わったことを一つずつ確かめながら座る。袖を直し、顔を上げると、白いものの交じる太い眉がこちらを向いていた。
「帰蝶にございます」
挨拶をして頭を下げる間、誰も何も言わなかった。それが長く感じられ、上げる時を間違えたのではないかと不安になる。
「これは。お健やかなお顔を拝見でき、何より」
宗兵衛は五十を幾つか越したほどに見えた。日に焼けた首が太く、片頬に深い皺がある。広げた膝の前に置かれた手は、紗季の両手を合わせたほど大きかった。
「まだ養生の途中でな。今宵は挨拶ばかりと思われよ」
利政が言うと、宗兵衛は心得たように頷いた。それ以上、病のことは尋ねられず、紗季は膝の上で指を緩めた。
盃が行き渡り、利政が宗兵衛の労をねぎらう。続いて、春の雨で傷んだ道と、荷を運ぶ馬の話になった。
「道を直せと言うても、人を出せば、その間は畑が空きますでな」
「一度に出させるからであろう」
「そこを細かく割り振るのが面倒だと、若いのが申す」
宗兵衛が後ろを振り返ると、控えた若い家臣が困った顔をした。
「そのまま仰せにならずとも」
「面倒を引き受けるために、おぬしを呼んでおる」
笑いが起こった。利政も笑い、宗兵衛の盃へ酒を勧める。紗季の知っている教科書には、こんな声の道三はいなかった。
客の家臣は三人。そのうち年嵩の一人は、主が口をつけてから自分も盃を取った。さっき笑われた若者は、料理の皿へ目を落としつつ、話を聞き逃すまいと時折顔を上げる。
紗季も箸を持ったが、焼き魚の身をほぐしたところで止まってしまった。
牢では、もう夕飯が出たのだろうか。
あの人は、今も私が帰蝶様を殺したと思っているのだろうか。
右の袖が膳の縁に触れ、現実へ引き戻される。
向こうでは、お梅が空いた器を受け取り、ほかの女と入れ替わりながら次の料理を運んでいた。紗季のそばへ来た時だけ、小さく目を合わせる。まだ大丈夫、と紗季が頷くと、すぐに客の方へ戻っていった。
槙は入口近くに座り、運ばれてくる膳と客の手元を交互に見ている。女に短く何かを言って送り出し、別の者からは、小見の方がお休みになったと報告を受けていた。
灯を継ぎ足す者もいる。宴は、座っている人たちより、周りで立ち働く人の方がずっと忙しい。
宗兵衛が一つの膳を横へ寄せた。
「いや、もう入らぬ。若い者へ回してやってくだされ」
腹を押さえて笑うその背後へ、お梅が銚子を運んできた。主客の脇へ進もうとして、後ろから膳を下げる女と行き合う。お梅は半歩よけた。
その踵が、横へ出ていた膳の脚に当たった。
銚子が傾く。持ち直そうとした手が、かえって注ぎ口を下へ向けた。
酒は宗兵衛の頭を濡らし、額から鼻の脇へ流れ落ちた。
「何をする!」
宗兵衛の声と、銚子が畳へ倒れる音が重なる。
お梅は膝をついたまま、空になった両手を見ていた。
「も、申し訳……」
宗兵衛が袖で顔を拭う。髪から落ちる滴が、襟にも膳にも黒い染みをつくった。先ほど笑っていた若者が立ちかけ、年嵩の家臣が腕で制する。その家臣も、もう盃を置いている。
「利政殿。これは、どういうおつもりか」
宗兵衛は低く言い、膳を押しやって利政へ向き直った。
「誼を結ぼうと招かれ、供の前でこの仕打ちとは」
「お梅!」
利政の怒声に、お梅は両手をついた。額が畳に擦れるほど身を伏せ、申し訳ございませぬ、と繰り返す。途中から声が掠れ、何を言っているのか聞き取れなくなった。
槙が入口から動くのが見えた。だが、その足よりも、利政が脇の刀へ伸ばす手の方が早かった。
「わしの顔に泥を塗りおって」
紗季は膝を引いた。
抜き放たれた刃が灯を受ける。
何とかしないと……。
お梅が……。
「成敗してくれる」
利政が一歩、お梅へ近づいた。
誰も動かない。
顔を伏せたままのお梅の首が、衣の間から細く見えた。
「お待ちください」
考えるより先に、声を出し、紗季は立っていた。
膳を回り込む時、袂を踏みそうになり、左手で掴んだ。
「帰蝶、其方は控えろ」
「父上。お待ちくださいませ」
次の言葉が出ない。間違えただけだと言えば済む席ではない。ならば何を言えばいいのか。利政は紗季の肩越しにお梅を見ている。脇へ押しのけられたら、それで終わる。
宗兵衛へ顔を向けると、濡れた顔がこちらを見返した。
「久瀬様、お耳を」
「……何と」
「お願いにございます」
紗季は身を屈めた。宗兵衛がわずかに顔を寄せたところで、ほかの者に届かないよう囁く。
「今一度だけ、ご辛抱くださいませ」
眉が寄った。分かってもらえたわけではなかった。
宗兵衛の膳には、飲みかけの酒が残っている。
紗季は左手で盃を取った。考え直すための間を置けば、もう手が動かなくなる。宗兵衛の目を見たまま持ち上げ、その頭へ酒をかけた。
ほんの一杯。けれど今度は、誰の目にも過ちとは映らない。
「帰蝶!」
紗季は盃を置き、利政へ向き直って膝をついた。右の手のひらを床へ添えると腕が痛んだが、引っ込めずに顔を上げた。
「ならば、私もお手打ちに」
声が震えた。言い直すことはできない。
利政の目が細くなる。紗季はその目から逃げたくてたまらなかったが、顔を伏せれば、お梅を一人にしてしまう気がした。
「お梅より先に私を成敗致すよう……」
その先は、喉に詰まった。
背後で、お梅が姫様と呼ぶ。紗季の膝から少し離れたところに、酒が染みていた。畳の目に沿って、細く広がっていく。
宗兵衛の袖が動いた。
怒鳴られると思った。首を掴まれるかもしれない。紗季が肩を固くすると、宗兵衛はもう一度、ゆっくりと顔を拭った。
「利政殿」
呼ばれても、利政は刀を下げなかった。
宗兵衛は紗季の手元を見た。右袖から白い布がのぞいている。次に利政を見上げ、最後に、自分の供へ目をやった。
「娘御まで、お斬りになるか」
問いに、返事はない。
利政は、紗季を睨んだままでいる。
宗兵衛の口の端が動いた。鼻で短く息を吐き、堪えきれなくなったように、大きな声で笑い出す。
「これは、よい余興でございますな!」
若い家臣が、ぽかんと口を開けた。
「久瀬が酒一杯で、いつまで腹を立てておるかと試された。いや、参った」
宗兵衛はなお笑いながら、紗季に盃を寄越すよう手を出した。空の盃を渡すと、それを自分の膳へ据え直す。
「その娘も、帰蝶殿も、わしはもう咎めませぬ。今宵の酒を、血で濁されますな」
利政が宗兵衛を見た。
長い間だった。灯の芯が焦げ、小さな音を立てる。
「……久瀬殿には、敵わぬ」
ようやく利政が笑った。先ほどの笑いより低く、短い。刃が鞘へ戻りきるまで、紗季は自分が息を止めていることにも気づかなかった。
「お梅。今回は許す。久瀬殿へ、詫びよ」
お梅の肩が大きく上下した。
「申し訳、ございませぬ。まことに……」
「顔を上げよ。もう聞いた」
宗兵衛に言われても、お梅はすぐには動けない。利政は刀を置き、客へ頭を下げた。
「こちらの者の不始末。申し訳ない」
その時、槙が座敷へ入ってきた。腕には乾いた衣を載せ、後ろの女には布を持たせている。
「お召し替えを。湯の支度も整っております」
宗兵衛は首元を引いて、濡れた襟を見た。
「それは、ありがたい。どうも酒臭うて、自分で酔いそうじゃ」
供の一人がようやく笑った。立とうとした宗兵衛に手を貸し、槙の案内で座敷を出ていく。
紗季が体を起こしかけると、利政の声が落ちてきた。
「礼を尽くしてこい」
はい、と答えたつもりだったが、声になったかどうか分からなかった。
湯処へ続く廊下は、宴の座敷よりずっと暗かった。
槙が足元へ灯を寄せる。表から脇へ折れた先に小さな控えがあり、その向こうを板戸が仕切っていた。中では湯を汲む音がしている。
客のために沸かしてあった湯を使わせ、衣を揃えている間に、座敷の酒も拭かせたのだという。
紗季には何一つ、目に入っていなかった。
「槙、ありがとう」
槙は返事の代わりに、紗季の右袖を持ち上げた。布に新しい血が滲んでいないか確かめ、元へ戻す。
「ここでは、右の手に重みを掛けませぬよう」
それだけ言うと、お梅にも向き直り、乱れた襟を合わせてやった。
二人は控えの板敷に並んで座った。紗季は左手を先につき、右手は指先だけを添える。隣のお梅は、まだ肩を小刻みに震わせていた。
「姫様、ありがとうございます」
「よかった。お梅が切られなくて」
お梅の袖へ左手を伸ばした。触れると、そこで初めて自分の指も震えているのが分かった。
お梅はその手を見つめ、両手で包んだ。ぎゅっと握ることはせず、指が落ち着くまで、そのまま支えてくれる。
板戸の向こうで足音がした。
二人は手を離し、姿勢を正した。乾いた衣へ着替えた宗兵衛が現れると、揃って深く頭を下げる。
「先ほどは、とんだ御無礼をいたしました。お許しくださいませ」
紗季が言い、お梅も詫びた。今度は声を途切れさせず、最後まで申し上げた。
「帰蝶殿」
呼ばれて顔を上げる。
「あそこで、わしが笑わなんだら、どうなさるおつもりであった」
答えを用意していなかった。どうにかなると思っていたわけでもない。紗季は宗兵衛の顔を見たまま、唇を噛みかけてやめた。
「分かりませぬ」
「ほう」
「ただ、お梅を……斬らせたくありませんでした」
宗兵衛は鼻の下を指で擦った。先ほどより赤い顔に、片頬の皺が戻る。
「さすがは、まむしの娘殿よ。帰蝶殿を敵に回すのは得策ではなさそうじゃ」
笑い声が、低い天井に響いた。
「次からは、わしを濡らす前に頼まれよ。耳は、二つとも聞こえておる」
「……はい」
紗季がまた頭を下げると、宗兵衛はもうよい、と手を振った。
「さあ、飲もうぞ。久瀬が怒って帰ったなどと思われては、今度こそ割に合わぬ」
供の男を呼び、座敷へ向かって歩き出す。
紗季はお梅の腕を借りて立った。少し遅れて廊下を曲がると、開いた戸から、灯と話し声がこぼれていた。
自分の席へ戻る道を、もう一度目で確かめる。
お梅は入口で手を離したが、紗季が座り終えるまでは、そこを動かなかった。




