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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
美濃

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11/56

十一話 格子の向こう

 帰蝶、と書くはずの場所に、墨が丸く溜まった。

 紗季は筆を上げ、穂先から落ちそうになった一滴を硯の縁へ戻した。昨日の礼を述べるだけの短い文なのに、名を記すところまで来ると手が止まる。


 障子を開けた南の縁から、朝の光が机の脚へ届いていた。庭では、下働きの男が箒を動かしている。小石に竹の先が当たるたび、乾いた音がした。


「そこを、擦ってはなりませぬ」


 向かいに座った槙が、紙切れで墨を拭おうとする紗季の左手を止めた。


「擦れば広がります。上から押さえるだけになさいませ」

「うん」


 言われた通りに重ね、指で軽く押す。剥がしてみても、失敗が消えるわけではなかった。書き直すしかないと分かって、紗季は肩を落とした。


 久瀬宗兵衛は昼前に館を発つという。直接顔を合わせればまた何を言えばいいか分からなくなりそうで、せめて文を渡したい、と紗季から言い出したのだった。


 槙は、まず何を伝えるか口にしてみよと言った。

 怒らないでくれて、ありがとう。

 最初にそう答えると、槙の目が上がった。


 感謝は確かにある。けれど、それを先に言えば、相手が我慢してくれたことを自分の都合だけで喜ぶ文になる。昨夜した無礼を詫び、それでも席へ戻ってくれた礼を述べる。帰り道の無事を願う言葉は、その後へ。


 同じ気持ちのつもりでも、順番が変わるだけで、読んだ人に伝わるものは違ってしまうらしい。

 紗季は書き損じを机の脇へ退け、新しい紙を出してもらった。筆を握り続けた右腕に、じんわりと重さが溜まっている。


「少し、お休みを」

「あと、名前だけだから」

「その前のお文も、書き直さねばなりませぬ」


 槙に言われ、紗季は筆を置いた。

 自分から始めたことなのに、終わらないと腹が立つ。その腹立たしさを手の遅いせいにしたくなり、傷を作った人の顔が浮かぶ。そこまで考えて、また、牢の中にいる清十郎へ気持ちが戻ってしまった。


 お梅は縁に近いところで、替えの布を畳んでいた。

 昨日の衣は着ていない。薄茶の小袖の袖口を折り返し、角と角を合わせる指は、普段の速さを取り戻しているように見えた。けれど、廊下を男が通ると手が止まった。声が遠ざかってから、畳みかけの布を最初から広げ直す。


 眠れたかと朝に聞いた時には、はい、と答えた。それ以上は尋ねられなかった。


「ねえ、槙」

「はい」

「篠原様に、会いたい」


 布を揃える音が止まった。


 槙は硯へ向けていた目を上げ、しばらく紗季を見た。驚いているのではなく、今の言葉を取り消すかどうか待っているようだった。


「何をなさるおつもりです」

「話をしたいの。まだ私を、帰蝶様にひどいことをした人だと思っているなら……」


 お梅のいる方へ目をやり、言葉を切った。本物の帰蝶が亡くなったと、お梅へ話してはいない。

 槙はその視線に気づくと、紗季の置いた筆の穂を整え、硯の横へ揃えた。


「あの者は、こちらが話している最中にも刀を抜いたのでございます」

「分かってる」

「分かっておいでなら」

「でも、あのままじゃ」


 その先が見つからない。

 怖くないから会いたいのではなかった。むしろ、会わずにいれば、頭の中の清十郎はいつまでも刀を振り上げた姿のままでいる。彼の方でも、自分は誰かを殺して帰蝶に成り代わった女のままなのだろう。


 作り話だ、と怒鳴られるかもしれない。それでも、自分の口で一度は違うと伝えたかった。あの時は、言い終わるまで待ってもらえなかったのだから。


「姫様」


 お梅が布を膝へ置いた。


「おやめくださいませ」


 声は小さかったが、はっきりしていた。紗季がそちらを向くと、お梅は唇を結んでから、もう一度口を開いた。


「また、お怪我をなさいます」

「牢に入っているなら、刀は持っていないでしょう」

「刀がなければ、よいのですか」


 言い返され、紗季は黙った。

 清十郎に二の腕を掴まれた時の力を覚えている。木剣を押し返そうとしても、どうにもならなかった。お梅もそこを見ていた。


「……よくない」


 小さく答えると、お梅の目が赤くなった。


「なら、お行きにならないでください」


 紗季には返せる言葉がなかった。昨日、自分はお梅を失いたくなくて利政の前へ出た。それなのに、お梅の前では、危なくないと言いさえすれば済むつもりでいた。


 槙が静かに紙をまとめ始めた。まだ乾かぬ墨のある一枚は、別にして机の奥へ置く。


「お会いになるかどうかは、お館様のお許しがなくては決められませぬ」

「許してくださったら」

「それでも、私はお止めいたします」


 槙は紙から手を離し、紗季へ向き直った。


「お梅も私も、姫様の血を、もう見たくはございませぬ」


 叱る声ではなかったので、かえって胸が痛んだ。

 紗季は膝の上へ両手を置いた。右の指を伸ばすと傷がつっぱる。その痛みを確かめてから、二人を見た。


「一人では行かない。近くへも寄らない。話ができなかったら、帰る」


 お梅の目は伏せられたままだった。


「その約束をして、お許しをいただきたいです」


 利政の返事が来るまでに、文は書き上がった。

 最後の帰蝶の二文字は、ほかの字より少し大きい。書き直したいと思ったが、槙は読めればよいと言い、乾くまで待ってから折り方を示した。


 最初に折った端へ次の端を揃えようとすると、紗季の手元で紙がずれた。お梅がそっと押さえてくれる。目が合っても、いつものようには笑わなかった。


「ありがとう」

「……はい」


 出来上がった文を渡す時、紗季は手を引くのが遅れた。自分の名前ではない文字が、折られた紙の内側に隠れている。

 槙が受け取り、客へ届ける者に預けると、机の上には書き損じだけが残った。


 利政に呼ばれたのは、昼を過ぎてからだった。

 昨夜の表座敷ではなく、その東側にある小さな部屋へ通された。庭へ向く戸は閉められ、明かりは高い位置の障子から入っている。人の顔は見えても、部屋の隅に置かれた箱の細工までは分からない。


 利政の前には文が数通、横に細く巻いた紙が並んでいた。紗季が入口で足を止めると、利政は手元の一通を畳み、そばの男へ渡して下がらせた。


 教わった通り、声を掛けられてから座る。膝を折る時に腰をかばったのが、利政にも見えたらしい。文から離れた目が、紗季の裾で止まった。


「その体で、どこへ行くと申す」

「篠原様と、お話を」

「何のためじゃ」


 槙は戸口の内側、紗季から少し離れて座っていた。お梅はさらに外の控えにいる。この部屋には入らないようにと、先に言い渡されていた。


「私が帰蝶様ではないことを、あの方はお気づきです。でも、私が帰蝶様を殺して入れ替わったと……」

「聞いておる」

「違うと、伝えたいのです」


 利政は膝へ両手を置いた。昨夜、刀を握っていた手と同じなのに、何も持っていない今は、爪の際の黒い汚れまで見える。


「そなたが違うと言えば、あやつが信ずると思うか」

「分かりません」

「わしが帰蝶として遇せよと申しつけても、聞かなんだ男じゃぞ」


 紗季は返事を急がなかった。

 従わなかったのは、自分が間者だと思ったからだろう。けれど、疑えば刀を抜いてもいいことにはならない。利政が清十郎を許さない理由を、身分や面目だけで片づけることもできなかった。


「だから、一度、お話をしたいのです。何を疑っているのか、最後まで聞いて……私の話も、聞いてもらいたい」

「昨夜のように、己を差し出せば済むと思うな」


 紗季は顔を上げた。


「久瀬が笑うてくれたから、あの場は収まった。誰を相手にしても、同じようにはならぬ」

「はい」


 分かっているつもりだった。それでも、声にされると、盃を持った左手が急に落ち着かなくなる。


「篠原様を許したとは、申しませぬ」


 紗季は言葉を選んだ。


「怖いです。今も。だけど、あの方が思っている人のままで終わるのは……嫌なのです」


 利政の目が、紗季の顔から動かなくなった。

 沈黙が長くなり、断られるのだと思った頃、利政は槙を呼んだ。


「作兵衛をつけよ。格子は開けさせるな」


 槙が一度だけ顔を上げる。


「お館様」

「そなたも付いて行け。長居は無用じゃ」


 それから、利政は紗季へ向き直った。


「何を申されようと、勝手に約束はするな。あやつの始末は、わしがつける」


 許された喜びより、始末という言葉が耳に残った。

 紗季は頭を下げかけ、思い直して尋ねた。


「父上が、私を帰蝶様ではないと御存じだと……それを、お伝えしても」


 利政はすぐには答えなかった。戸口の外へ一度目を向け、声を低くする。


「作兵衛と槙の前だけで話せ。ほかの者を近づけるな」


 それが返事だった。紗季は今度こそ、深く頭を下げた。


 自分の部屋へ戻ると、お梅が草履を用意して待っていた。

 鼻緒の擦れている方を下にして揃え、縁へ置いてから、着替えに使う小袖を持ってくる。紗季が声を掛けても、はい、と短く答えるだけで目を合わせなかった。


「お梅」


 小袖を受け取らずに呼ぶと、お梅は困った顔になった。


「怒ってる?」

「私が、姫様にそのような」

「怒っていいよ」


 そう言ったところで、お梅の眉が寄った。


「私が何を申しましても、お行きになるのでしょう」


 紗季は口を閉じた。

 怒っていい、と言うだけでは、お梅の言葉を聞いたことにならない。けれど、行くのをやめるとも言えなかった。


「ごめん」


 ようやくそれだけ答えると、お梅は目を落とした。


「お帰りになるまで、待っております」

「途中まで、一緒に来てもらってもいい?」


 お梅の指が小袖を握り直した。


「怖かったら、ここで待ってて。槙と作兵衛がいてくれるから」

「参ります」


 今度は、迷わず返事があった。


「でも、少しでもおかしいと思われたら、すぐにお戻りください」

「うん。約束する」


 お梅は頷き、小袖を紗季の背へ掛けた。腕を袖へ通す時、昨日までと同じように、傷へ布が擦れないよう支えてくれた。


 牢へ向かう道は、稽古場へ行く道と途中まで同じだった。

 物を納める細長い建物の前を通ると、庭へ大きく開く戸が見えた。今日は閉ざされ、戸の下に乾いた土が溜まっている。あの日、自分が逃げ込もうとした柱は軒の影に隠れていた。

 紗季の歩みが遅くなると、前を行く作兵衛が足を止めた。


「お休みになりますか」

「ううん。行ける」


 答えはしたが、すぐには足が出なかった。

 横でお梅が待っている。急かす者がいないことに少し救われ、紗季は建物から目を離して、前を向いた。


 裏門へ至る道を手前で折れると、低い塀の囲う一角に出た。館の奥庭のように木が植わっているわけではない。踏み固められた土の端に草が生え、軒下には縄を巻いた木杭と、水を入れた桶が置かれていた。


 塀の小門のそばに男が一人、建物の入口にもう一人。作兵衛が名を告げると、入口の男が戸を引いた。


「お梅は、ここに」


 槙が小門の内側を示した。そこから建物までは十歩以上ある。お梅は紗季の背へ触れかけ、手を下ろして脇へ寄った。

 紗季は振り返った。


「戻ってくるから」


 お梅は深く頭を下げた。その顔が隠れてしまう前に、小さく頷くのが見えた。


 戸の内側は土間で、右手に一段高い板敷きがあった。

 その板敷きの奥を、太い木の格子が横切っている。格子戸の留め金は手前側にあり、鍵を持つ男が作兵衛へ確かめるように目を向けた。作兵衛は首を振った。


「開けぬ。お前たちは外を守れ」


 男が退き、入口の戸が閉まった。

 明かりは奥の壁の高い隙間から入っていた。白く差す光が格子を一本だけ照らし、その下で、木の表面に残った削り跡が見える。湿った土と、古い藁の匂いがした。紗季の部屋に焚きしめられる香の匂いは、ここにはない。


 作兵衛が板敷きへ上がった。紗季も槙の手を借りて続く。座る場所には薄い敷物が用意されていたが、格子との間には、人が一人横になれるほどの距離が残してあった。


「ここより先へは、お進みになりませぬよう」


 作兵衛は紗季の左斜め前に膝をつき、片膝だけを立てた。槙は紗季の後ろ、入口へすぐ戻れる場所に座る。


 奥にいる人は、壁へ背を預けていた。

 清十郎だった。


 顔が変わった、と最初に思った。髪が乱れたせいだけではない。頬の下に影ができ、口の周りに短い髭が伸びている。膝の前でまとめられた手首には縄が掛かり、その脇に、使い終えた椀が置いてあった。


 紗季が座る音で、清十郎は顔を上げた。

 目が合った瞬間、紗季の背が強張った。膝を戻そうとして腰が痛み、息が止まる。作兵衛がこちらへ顔を向けたので、首を振った。

 帰るなら、今でも帰れる。

 それを確かめるつもりで入口を見てから、紗季はもう一度、清十郎へ向き直った。


「篠原様」


 彼は返事をしなかった。

 膝の上の手が少し動き、縄が衣を擦る。紗季はその音だけで指を握ってしまい、すぐにほどこうとした。


「お話を、しに来ました」

「……何を」


 声は掠れていた。怒鳴る声ではない。それでも、あの日と同じ声だと分かった。


「私のことを」


 清十郎の目が右の袖口へ下がった。

 紗季は隠すように袖を引きかけ、やめた。この傷を彼に見せるために来たわけではないが、見えないようにしてやる理由もなかった。


「帰蝶様では、ないのでしょう」


 作兵衛がわずかに顎を引いた。清十郎は彼の方を見ず、紗季の返事を待っている。

 紗季は両手を膝へ置いた。


「はい」


 自分で言った声が、板壁へ吸われた。

 清十郎の肩が動いた。やはり、という顔に見えて、紗季は続けるのを急ぎそうになった。そこで一度息を入れる。相手の言葉を最後まで聞くと、利政に約束したのは自分だった。

「では、誰に命じられて来た」


「誰にも」

「何ゆえ、そのお顔で」

「この顔は、生まれつきです」


 言い終えると、清十郎の口元が硬くなった。


「それで通ると、お思いか」

「通る話があれば、私だって……」


 思わず声が大きくなり、紗季は口を閉じた。

 答えられるなら、誰より自分が知りたい。なぜここへ落ちたのか。なぜ知らない人と同じ顔なのか。けれど、それを全部ぶつけても、目の前の人に伝わる気がしなかった。

 紗季は少し声を落とした。


「帰蝶様が亡くなった後に、私は山で見つけられました。作兵衛も、その時にいた人です」

「見つけたのは、俺じゃ」


 作兵衛が短く答えた。


「だが、どこから来たかは、確かめられておらぬ」


 清十郎が言う。その言葉には、まだ食い下がる力があった。

 作兵衛は否定しなかった。


「分からぬことと、おぬしが決めたことは違う」


 清十郎の視線が一度下がり、また紗季へ戻った。


「私には、名前があります」


 紗季はゆっくり言った。

 槙が顔を上げる気配がした。止める声はない。閉じた入口の向こうで、牢番が一度、咳をした。

 清十郎と、事情を知る槙、作兵衛にだけ届くよう、声を細くする。


「森下紗季と申します」


 久しぶりに口にした名は、思ったより言いにくかった。喉の奥へ引っかかり、最後の音だけ息に混じった。

 清十郎は動かなかった。


「紗季……」


 確かめるように繰り返されると、紗季は頷いた。


「父上も、槙も、私が帰蝶様ではないと知っています」


 清十郎の顔から、少しずつ表情がなくなった。

 信じた顔ではなかった。聞いたことを、どこへ置けばよいのか分からない顔だった。

 やがて、槙へ目を向けた。


「槙殿。それは」

「初めから、存じております」


 槙は紗季の後ろから答えた。


「腕の痕がないことも、確かめました」

「ならば、なぜ」


 問いがそこで途切れた。

 槙は膝の上で指を重ねた。小袖の裾を押さえ直す動きが、いつもより遅い。


「帰蝶様を看取ったのは、私でございます。最後に飲んでいただいたものも、息をなさらなくなった時のことも、忘れてはおりませぬ」


 清十郎は口を閉じた。


「誰ぞに似た顔を見つければ、見分けもつかなくなるとお思いでしたか」


 その声には、紗季へ作法を教える時にも、お梅を叱る時にも聞かなかったものがあった。紗季は振り返れず、膝に載せた自分の指を見た。


 槙は悲しかったのだ。


 そう思うのと、知っていたはずではないかと思うのが、ほとんど同時だった。自分の傷を洗い、食べるものを運び、毎朝髪を整えてくれる人の中に、別の娘を失った日が、今も終わらずに残っている。


 帰蝶様の代わりをしているのだと頭では分かっていても、槙の声をこんなふうに聞くのは初めてだった。


「お館は、何ゆえ」


 清十郎の問いは、先ほどより低かった。

 紗季は顔を上げた。


「父上のお考えを、私が全部知っているわけではありません」


 聞かれれば、もっと上手く答えられると思っていた。亡くなった娘と同じ顔をした自分を、そばに置きたいのだと。そう言えば、筋の通る話になると思った。


 けれど、昨夜の利政は、お梅へ刀を抜いた。今日の利政は、清十郎の始末は自分がつけると言った。父という呼び方だけでは届かないところに、あの人は立っている。


「ただ、私の顔を見て、泣く人がいます」


 清十郎は何も言わない。


「母上は、帰蝶様が戻ってきたと信じておいでです。私を抱きしめて……何度も、帰蝶って」


 小見の方の腕を思い出す。細いのに、離してくれなかった。


「違うって、言えませんでした」


 紗季は膝の上で袖を握った。


「父上も槙も、本当のことを知っているのに、私を帰蝶として置いてくださっています。お二人のお気持ちは、同じではないかもしれないけれど……その方が、少しでも悲しくなくなるのなら、と思いました」

「それで、姫様の名を」

「私も、ここにいさせてもらいたかったから」


 口にしてみると、ひどく身勝手に聞こえた。

 誰かを慰めるためだけではない。寝る場所も、食べ物も、分からない言葉を教えてくれる人も必要だった。帰蝶ではないと言い続けて、追い出されたらどうなるのか。それを考えるのが怖かった。


「人のためだけに、しているわけじゃありません」


 清十郎は縄の掛かった手へ目を落とした。左の親指の爪が欠けている。布を抱えたお梅を見て、その半分を受け取ってくれた手だった。


 紗季はしばらく待った。

 格子の向こうから聞こえる息が、少しずつ深くなる。庭で誰かが桶を置く音がしたが、この中の者は誰もそちらを見なかった。


「帰蝶様が亡くなられた夜、薬を持って戻った」


 清十郎が言った。


「あの日、お話しになっていました」

「間に合わなんだ」


 それだけ言い、彼は口を結んだ。

 紗季は返事をしなかった。


「それが、戻られたと聞いた。顔は同じなのに、俺の名も知らぬ。剣を握り、あの痕もない。……お館に申し上げても、帰蝶として遇せよと」


 清十郎は作兵衛を見た。問い詰める目ではなく、何かを探すような目だった。


「誰も、確かめようとせぬと思うた」

「だから、斬ろうとしたのですか」


 紗季の声は、自分で思ったより冷たく響いた。

 清十郎の目が戻ってくる。


「そうです」


 ごまかさずに答えたことが、苦しかった。

 怒りに任せただけなら、もう今は違うと言われれば、少しは安心できたかもしれない。けれど彼は、自分で決めて刀を抜いた。それが正しいと思っていた。


「私が悪い人だったら、何をしてもよかったの」


 清十郎は答えなかった。


「帰蝶様に会ったこともないって言おうとしたのに、聞いてくれなかった。こっちを見ていたのに、私が何を言っても、最初から決まっていて……」


 途中で息が乱れた。声を大きくしたくないのに、うまく抑えられない。

 槙が手を伸ばしかけ、紗季は首を振った。


「怖かった」


 その一言だけは、言い直さずに済んだ。


「今も、怖いです」

 清十郎の目が、また右の袖口へ落ちた。

 彼が身を起こした時、紗季は後ろへ退きかけた。すぐに作兵衛が膝を動かす。清十郎はそれを見て止まり、ゆっくりと両の膝を揃えた。

 格子へ近づくことはしなかった。

 縄の掛かった手を前へ置き、上体を折る。


「……申し訳、ございませぬ」


 紗季は、その低くなった頭を見つめた。

 言ってほしかった言葉のはずなのに、聞いた途端に胸が軽くなるわけではなかった。腕の傷も、あの時の音も残っている。清十郎の髪の分け目を見ているうちに、頭を下げてもらっても、どこを見ればよいのか分からなくなった。


「許せるかどうかは、まだ、分かりません」

「はい」

「でも、私が帰蝶様を殺したのではないことは……」

「お館と槙殿が御存じだったとは、知らず」

「私の話を、聞いてください」


 清十郎が顔を上げた。

 紗季は少し待ってから言った。


「私は、帰蝶様に会ったことがありません。命じた人も、私を待っている仲間もいません。ここへ来てから、帰る道を探しているだけです」


 未来の話はしなかった。遠足も、黒くなった足元も、今ここで言えば、それまでの言葉まで作り話に聞こえてしまいそうだった。

 清十郎は紗季を見たまま、長く黙っていた。


「……聞きました」


 そう答えてから、もう一度、頭を下げた。

 全部信じたのか、紗季には分からない。それでも、今度は最後まで言えた。


 作兵衛が、そろそろ、と声を掛けた。

 腰の痛みが戻っていた。緊張している間は気づかず、立とうとすると右側へ体重を掛けられない。槙に左腕を預け、ゆっくりと膝を伸ばす。

 清十郎が顔を上げた。

 手を貸そうとでもしたのか、縛られた両手が少し浮く。そのまま膝へ戻ったのを、紗季は見た。


「お名前は」


 呼び止められ、足を止める。


「もう一度、伺っても」


 なぜか、朝の書き損じが頭に浮かんだ。帰蝶と記そうとして、穂先を止めた白い紙。

 紗季は格子へ向き直った。


「紗季です」


 今度は、声が途切れなかった。


「この名のことは、ほかの方には」

「申しませぬ」


 清十郎は低く答えた。作兵衛が彼を見据え、口外は許さぬ、と重ねた。

 紗季はそれ以上、何も約束しなかった。

 入口の戸が開かれ、明るい庭が見えた。足を下ろす場所を槙に示されてから、草履を履く。後ろで戸が閉まった時、紗季は振り返らなかった。


 小門のそばに、お梅が立っていた。

 紗季の姿を見ると一歩踏み出し、槙と作兵衛の間に入ってよいか迷って止まる。紗季が左手を伸ばすと、その手を取ってくれた。


「ただいま」


 お梅は袖口を見た。顔を見、それからようやく息を吐く。


「お帰りなさいませ」


 聞きたいことは幾つもあるはずだった。それなのに、何を話したかとは尋ねず、歩けるかだけを確かめてくれた。


「ゆっくりで、いいですか」

「うん」


 二人で歩き始めると、乾いた土の上に草履の跡が並んだ。

 稽古場の前を通る時、紗季は閉じた戸へ目を向けた。怖さはまだある。会えば消えると思っていたわけではないが、ほんの少しは変わると期待していたのかもしれない。


 お梅が歩みを緩めたので、紗季もその速さに合わせた。

 館へ戻る曲がり角で、台所から煮炊きの匂いが流れてきた。朝からほとんど何も口にしていないことを、その時になって思い出す。


「お梅、ご飯、もう食べた?」

「まだでございます」

「じゃあ、戻ったら」


 そこまで言うと、お梅が小さく頷いた。


「姫様のお膳を、お持ちいたします」

「お梅の分も、忘れないで」


 お梅はすぐには返事をせず、握っている紗季の手を、少しだけ持ち直した。

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