十二話 篠原清十郎 切腹
お梅が運んできた飯には、まだ湯気が残っていた。
膳を置く場所を少し直し、汁椀を紗季の左へ寄せる。牢から戻ってきた時には握ってくれた手が、今は食べやすいように器を動かしている。
「こちらで、よろしゅうございますか」
「ありがとう」
紗季は左手で椀を持った。大根の入った汁は舌に熱く、飲み込むと、空いていた腹が急に動き出したようだった。お梅の分は、と尋ねる前に、彼女が小さく頷く。
「私も、いただいてまいりました」
それならよかった、と答えるつもりが、声にならずに息だけが漏れた。
帰ってきたのだ。
庭に面した障子は開いていて、昼過ぎの光が縁板に広がっている。向かいの屋根の端から、雀が一羽飛び立った。紗季はその行方を見ようとして顔を上げ、右腕に痛みが走ったところで、椀を膳へ戻した。
清十郎が頭を下げた姿を、まだ目の前に見ている気がした。
謝ってくれた。最後まで話も聞いてくれた。だから、これでよかったはずなのに、帰る時にもう一度名を尋ねられたことが、何度も胸に戻ってくる。
紗季、と呼ぶために覚え直したのだろうか。
それとも、それだけは忘れずにおこうと思ったのだろうか。
箸でつまんだ菜の茎を、飯の端へ置いた。
槙はまだ戻らない。利政へ訪牢の様子を伝えに行っていると聞いていた。作兵衛も一緒だった。
膳を下げようかとお梅が尋ねた頃、廊下に二人分の足音がした。
槙だけなら、もう足音で分かる。今日はその後ろに、板をきしませる重い音が続いていた。
戸口へ現れた作兵衛は、敷居を越えなかった。
「お館様より、お伝えせよと」
紗季は箸を揃えた。
お梅が膳へ伸ばしかけた手を止める。槙は部屋の内側へ入り、彼女に目で合図したが、利政の言葉を告げる時には、まだ二人ともそこにいた。
「篠原清十郎には、明朝、腹を切らせるとの仰せにございます」
汁椀の蓋が、膳の縁に触れた。
お梅が押さえる。その小さな動きだけが、紗季にはひどく鮮明に見えた。
「……明日?」
「はい」
紗季は作兵衛の顔を見た。今の言葉を別の言い方で言い直してくれるのを待っていた。
作兵衛は目を逸らさなかった。
「私が、行ったから?」
「左様ではございませぬ」
槙が答えた。
「取り調べを終え、お決めになったことでございます。ほかに加わった者はおらず、己の考えで刃を向けたと、当人も申しております」
「でも、もう、話は」
「話ができたことは、お館様にも申し上げました」
そこまで言うと、槙は紗季のそばへ座った。
叱られる時の距離ではなかった。具合が悪くなった夜、寝床の脇へ来てくれる時と同じ近さだったので、紗季はかえって動けなくなった。
「帰蝶様へ刃を向けたことだけではございませぬ。お館様の御沙汰を待たず、この館の中で、人を斬ろうとしたのでございます」
お梅が空の皿を一枚、膳の上へ重ねた。それから、自分が何をしているのか分からなくなったように手を止める。
紗季は喉を動かした。
「父上と、お話ししたい」
「ただいまは人にお会いでございます」
「終わるまで、待つ」
作兵衛は一度、槙を見た。
「お取り次ぎいたします」
そう言って頭を下げると、来た時よりも静かに廊下を戻っていった。
返事を待つ間に、庭の光が縁から離れた。
紗季は机の前へ移り、書き損じの紙を広げた。朝、墨を溜めてしまったものだった。帰蝶の名を書くはずの場所には、乾いた黒い丸が残っている。
今度こそ、文字にすればいい。
父上。篠原様を、お助けください。
そう書こうとして、筆を持てなかった。
なぜ、と聞かれたら何と答えるのか。謝ったから。若いから。帰蝶を大切に思っていたから。
それなら、襲われた時に駆けつけてくれた者はどうなるのだろう。お梅は何のために叫び、作兵衛は何を止めたのだろう。
紙の上へ目を落としたまま、紗季は両手を膝へ戻した。
清十郎が、自分のしたことを悔やんでいるのは分かった。けれど、その気持ちを確かめたところで、この時代の罰が軽くなるとは限らない。
今まで読んだ本では、誰かが命じ、誰かが死んだ。その二つが一行に収まっていることもあった。
その一行の間に、飯は運ばれてくる。雨が降ることもある。夕方まで返事を待っている人もいる。
紗季は紙を裏返した。
そこに残っている白さを見ると、母へ手紙を書きたくなった。どうしたらいい、と聞きたかった。母なら命を助けるように言うのか、それとも、あなたがまた怪我をしたらどうするの、と怒るのか。
聞けない人の答えを、自分の好きなように決めてしまいそうで、紗季は考えるのをやめた。
利政からは、翌朝、庭に面した座敷へ来るように、と返事があった。
夜が明けるまで何もしないつもりなのかと紗季が尋ねると、槙は、明朝の御沙汰ゆえ、と答えた。その声はいつも通りだったが、灯を寄せる手が慎重だった。
「お休みにならねば、明日、お話もできませぬ」
寝床を整えたお梅は、枕の脇に水を置いた。
紗季は横になる前に、彼女を呼び止めた。
「お梅は、篠原様がそばに来たら、嫌?」
お梅の目が、紗季の右袖へ動いた。
「……怖うございます」
すぐに言葉を足そうとしたので、紗季は首を振った。
「うん。聞かせてくれて、ありがとう」
「姫様は、お許しになるのですか」
「まだ、分からない」
お梅は水の器を見つめたまま、黙っていた。
紗季も、その答えがずるいことは分かっていた。許さないまま助けようとするのなら、その先はどうするのか。清十郎がまた自分を間者だと思った時、近くにいるお梅まで危なくならないか。
明日は、言葉を尽くさなければならない。
勢いだけで誰かの前へ飛び出せば済むことではなかった。
朝、紗季が目を覚ますと、槙はもう戸を半分開けていた。
雨は降っていない。けれど空は白く、庭の葉には夜の露が残っている。肌に触れる空気は冷たく、掛けていた衣から腕を出すのを一瞬ためらった。
傷の布を替える間、槙は何も尋ねなかった。赤くなった縁を確かめ、布を巻き終えると、紗季の指先を一つずつ軽く押した。
「痛みはいかがです」
「昨日と、同じくらい」
「お袖を通します」
お梅が小袖を広げる。淡い鼠色の布へ腕を通し、帯を締めてもらう間、紗季は昨日の自分の答えを何度も考えていた。
許せるかは分からない。
あれは本当だった。今日になったからといって、違う気持ちになったわけではない。
それでも、今日で清十郎の明日がなくなってしまうのは嫌だった。
呼ばれた座敷は、酒宴を開いた表の間から、廊下を東へ折れた先にあった。
普段は閉じられている南の戸が外され、庭が広く見えている。縁の下には水はなく、踏み石を一つ隔てて固い土が続いていた。右手を塀が区切り、その端の門から裏へ回れるらしい。奥の稽古場へ向かう道とは、さらに一棟の建物を挟んでいる。
利政は部屋の奥に座っていた。左右に家臣が一人ずつ。紗季の席は入口に近い西側で、槙とお梅は後ろの控えに留まるよう言われた。
座る前に礼をする。
声を掛けられるまで顔を伏せ、言いたいことがあっても、まず相手の言葉を待つ。
小見の方に教わった順を守ると、自分の体が勝手に前へ出るのを、少しだけ止められた。
「帰蝶」
呼ばれ、顔を上げる。
利政は紗季の目を見た。
「申し立てたいことは、聞く」
紗季は息を吸った。
その時、庭の門が開いた。
先に作兵衛が入ってくる。その後ろを、清十郎が二人の男に挟まれて歩いていた。昨日の乱れた髪は整えられ、衣も替えられている。腰に刀はない。前へ揃えた両手は縄でまとめられていた。
紗季は彼の顔を見ようとしたが、清十郎は足元へ目を落としていた。
庭の中央に薄い敷物が広げられている。
作兵衛に促され、清十郎はそこへ膝をついた。両脇の男は少し退いたものの、手の届かぬほど離れはしない。縁に近いところには、別の男が長い包みを置いて控えていた。
紗季はその包みから目を離した。
まだ何も始まっていない。それを確かめずにはいられなかった。
「清十郎」
利政が呼んだ。
「わしの申しつけを退け、己の疑いのみで帰蝶へ刃を向けた。相違ないな」
「ございませぬ」
昨日より、よく通る声だった。
「言い残すことがあれば、申せ」
清十郎の肩がわずかに下がった。
紗季は、そう見えたことが恐ろしかった。張りつめていたものを、ようやく下ろせる人のように見えた。
「御家中を騒がせ、姫様を傷つけましたこと……」
清十郎はそこで初めて、紗季の方を見た。
目が合うと、すぐに顔を伏せた。
「申し訳もございませぬ」
「父上」
紗季は膝を進めた。
脇の家臣がこちらを向いたが、利政は止めなかった。
「篠原様の命を、お助けくださいませ」
庭では誰も動かなかった。
利政は紗季を見たまま、問い返した。
「昨日の話を聞いておらなんだか」
「伺いました」
「ならば、何をもって助けよと申す」
紗季は両手を膝から下ろした。
「おそばで、申し上げたいことがございます」
家臣の一人が眉を動かした。利政の目が、その男から紗季へ戻る。
少しの間を置いて、手招きされた。
紗季は立ち上がり、中央を横切らず、西の柱に沿って奥へ進んだ。畳の継ぎ目で足を止め、許されてから利政の脇へ膝をつく。顔を寄せても、庭の清十郎は見えた。
「私を、どこかの間者と思っておいででした」
声を落とす。
「それで、このお家を守ろうとなさったのです。したことは、間違っております。でも……その思いまで、なくしてしまいたくありません」
「忠義ならば、何をしてもよいか」
「いいえ」
紗季はすぐに答えた。昨日から考えていたのは、そこだった。
「もう、勝手にお決めにならぬように。疑った時は、お尋ねになるように。生きて、覚えていただきたいのです」
利政の頬は動かなかった。
「誰が面倒を見る」
紗季は一度、庭を見た。
清十郎はまだ、顔を伏せている。
「私のお守りに、してくださいませんか」
利政の顔がこちらへ向いた。
「何を申す」
低い声が、耳のすぐそばで響いた。
「そなたを斬った男じゃぞ」
「存じております」
「そばに置けば、今度こそ殺されるやもしれぬ」
紗季は喉を動かした。
帰蝶は、信長と結婚する。
知っているその先を、何度も自分に言い聞かせていた。帰蝶としてここにいる自分が、その前に死ぬはずはない。そうでなければ、歴史が違ってしまう。
けれど、前腕は今も痛んでいる。自分の名を残さず死んだ人など、本に載っていないだけで、いくらでもいるのかもしれない。
それを考えると、言いかけた言葉が途切れそうになった。
紗季は目を上げた。
「大丈夫です」
声を震わせたくなかった。
利政の目が細くなる。
「何を頼りに」
「……父上にも、お力を貸していただきます」
未来のことは、言わなかった。
「初めから二人きりには、なりませぬ。作兵衛にも、槙にも、いてもらいます。刀を持つことも、父上がお許しになるまでは」
隣にいる槙の顔を想像した。勝手に役目を増やしている。あとで頭を下げなければならない。
「それほど怖いのなら、遠ざけておけばよい」
「今日ここで亡くなったら、あの方は私を斬った人のままです。何も直せません。私も、あの時のことばかり思い出します」
利政は返事をしなかった。
「私が何をするか、何を望むか、そばで見ていただきたいのです。それでも間違えるなら、尋ねてほしい。刃を抜く前に」
話しているうちに、願いの中に怒りがあることに気づいた。
死んで終わりにしてほしくない。自分がどんな人間なのか、決めつけたままでいなくなってほしくない。
帰蝶でも間者でもない、自分の声を、これからも聞いてほしかった。
利政は長く紗季を見た。
目を伏せたくなったが、伏せなかった。ここで退けば、庭に座る男には、次に話す日が来ない。
「……まことに、そばへ置くか」
「はい」
「あとから、怖くなったと泣くのではあるまいな」
紗季は一度、唇を開きかけた。
泣かないと約束したら、また嘘になる。
「怖くなったら、申し上げます」
利政の眉が寄った。
「それでも、お助けくださいませ」
紗季は手をつき、額を下げた。右腕に体重が掛からないよう、左手で支える。頭を下げてしまうと、利政の顔が見えないことが怖かった。
しばらくして、衣の擦れる音がした。
「面を上げよ」
利政は庭へ顔を向けていた。
「作兵衛。清十郎を、こちらへ」
紗季は急いで体を起こした。
作兵衛が清十郎の腕へ手を添える。二人の男もつき、彼を縁の手前まで連れてくる。庭に下りた飛び石の前で止められ、清十郎は再び膝をついた。
近づいた分だけ顔がよく見えた。頬には髭を剃った跡があり、顎の端に小さな赤い傷があった。
紗季は、自分の右手を袖へ隠さないようにした。
「帰蝶が、おぬしを助けよと申す」
清十郎は顔を上げた。
口がわずかに開いたが、何も言わなかった。
「守りをせよ、ともな」
利政の左右で、家臣たちが互いの顔を見た。片方の男が体を前へ傾ける。
「お館様、それは」
「聞いておる。ゆえに条件をつける」
利政はその男を制し、作兵衛へ向いた。
「当座、おぬしの下へ置く。刀は預かったままとせよ。帰蝶の居間へは入れぬ。呼ばれた時も、一人では近づけるな」
作兵衛は清十郎を見てから、頭を下げた。
「承知いたしました」
「清十郎」
利政の声が硬くなった。
「守るべき者に、己の考えで刃を向ける者はいらぬ。これよりは、疑わしければ届け出よ。勝手に動けば、この沙汰は取り消す」
清十郎は手をつこうとして、縄の掛かった両手を持ち上げた。そのまま土へ下ろし、頭を下げる。
「はっ」
「おぬしを放っておくのではない。作兵衛の目の届くところで働け。姫の用を聞き、道を確かめ、供につく。任せてよいと見えるまでは、それまでじゃ」
利政の言葉を、紗季は一つずつ聞いた。
護衛と聞いて思い浮かべていたのは、刀を持って横に立つ姿だった。けれど、今すぐそうするわけではない。清十郎が近づく時に、槙やお梅が息を詰めずに済むようになるまで、待つということなのだろう。
「姫様」
清十郎が紗季へ向き直ろうとして、作兵衛の手に止められた。そこで姿勢を変えるのをやめ、座った場所から声を掛ける。
「この御恩は……」
声が掠れた。
先ほど切腹を申しつけられた時より、顔が苦しそうだった。
「申し訳、ございませぬ。何と申し上げれば」
土へ額が近づくほど深く頭を下げる。両手の先で、小石が一つ転がった。
「命をもって、お返し申し上げます」
紗季は利政を見た。
利政は何も言わない。
紗季は清十郎へ向き直り、膝の上で指を揃えた。
「生きて、お返しください」
清十郎の肩が止まった。
「私がお話しする時は、最後まで聞いてください。分からないことは、聞いてください」
言葉を重ねすぎないように、そこで一度待った。
「お守りくださるなら、まず、それを」
清十郎は顔を上げた。
紗季を見る目に、まだ戸惑いがあった。助けられた人がする顔を、自分は知らなかったのだと思った。笑うものでも、すぐに安心するものでもないらしい。
「必ず」
彼は言い、それから言い直した。
「承知いたしました」
作兵衛の手が清十郎の腕から離れた。
縄を解くところは、縁から少し離れた場所で行われた。
紗季はその間に、元の席へ戻るよう言われた。歩こうとすると腰がつらく、槙が控えから出てきて左肘を支える。
叱られると思ったが、槙は何も言わなかった。ただ紗季の歩く速さに合わせ、座った後も、袖を整え終えるまでそばにいた。
庭では、清十郎が両手を前へ出している。縄が外されても、すぐには下ろさなかった。手首を動かし、指を曲げ、それから両手を膝の横へ置いた。
包みを持った男が、静かに庭を出ていく。
敷物が畳まれる時になって、紗季は、今日ここで人が死なずに済んだことをようやく信じられた。
利政が家臣たちに退出を命じた。
作兵衛は清十郎を伴って東の門へ向かう。紗季の方へ振り返りかけた清十郎は、途中で顔を戻し、作兵衛の半歩後ろを歩いていった。
槙も一度、控えへ下がった。
部屋に残ったのは、利政と紗季だけだった。
「そなた、わしが折れるまで顔を上げておるつもりであったな」
紗季は膝を見た。
「……はい」
「扱いにくい娘じゃ」
声には疲れがあった。
紗季は礼を言おうとして顔を上げたが、利政は庭へ目を向けたままだった。清十郎の座っていたところには、敷物の四角い跡と、人の膝で掘れた浅いくぼみが残っている。
「明日にも、見誤ったと思うやもしれぬぞ」
「はい」
「そう思うた時は、隠すな」
紗季は利政を見た。
「助けよと申した手前、言えぬなどと思うな。あやつを置くと決めたのは、わしじゃ」
返事をしようとしたら、喉が詰まった。
全部、自分が引き受けなければいけないのだと思っていた。もしまた誰かが傷ついたら、それは自分のせいになる。助けてほしいと願いながら、そこが怖かった。
「父上」
「何じゃ」
「ありがとうございます」
今度は、顔を見て言えた。
利政は短く頷き、脇に置いてあった文を取った。もう用は済んだという仕草だったので、紗季は教わった通りに手をついて礼をし、立ち上がった。
出口で振り返りはしなかった。文を開く音を聞きながら、敷居を越えた。
廊下にはお梅がいた。
紗季を見ると、立ちかけて止まり、まず槙の顔を確かめた。どうなったかは分かっているはずなのに、自分の口では尋ねにくいらしい。
「篠原様は、作兵衛と一緒に働いてもらうことになったよ」
紗季が言うと、お梅は頷いた。
「伺いました」
「私の部屋には、入らない。勝手に近くへ来たりもしないって」
お梅の目が、廊下の先へ動いた。そこには誰もいなかった。
紗季は左手を伸ばしかけたが、やめた。
昨日から、自分のしたいことにお梅を付き合わせてばかりいる。手を取れば安心してくれるとは、限らない。
「嫌だと思うことがあったら、言ってね。私にも、槙にも」
お梅は少し顔を上げた。
「姫様も、仰せくださいませ」
「うん」
「怖い時には、怖いと」
紗季は、昨日の夜の返事を思い出した。
「言う。約束する」
お梅がようやく、紗季の左側へ回った。肘を支える前に、よろしゅうございますか、と聞いてくれた。
部屋へ戻る途中、渡り廊下の手前で作兵衛に行き合った。
その後ろに清十郎がいる。腰に刀はなく、両手を体の脇へ下ろしていた。袖口からのぞく手首に、縄の痕が赤く残っている。
お梅の手が、紗季の肘で止まった。
清十郎はそれに気づいたのか、作兵衛よりも一歩遠いところで膝をついた。
「こちらより先の出入りは、俺が申しつけます」
作兵衛は槙へ言った。
「まずは表の控えに置きます。用があれば、俺へ」
「そのように」
槙の返事は短かった。
清十郎は黙って頭を下げている。紗季は通り過ぎようとして、一度足を止めた。
「篠原様」
「はい」
すぐに顔を上げかけ、それを途中で止めた。
何を言うつもりで呼んだのか、自分でも分からなかった。これからよろしく、では軽すぎる。もう大丈夫とも言えない。
廊下を風が通り、清十郎の小袖の裾を少しだけ動かした。
「今日は、まず、お休みください」
清十郎は紗季を見た。
作兵衛へ目を向け、それから、はい、と答えた。
紗季は歩き始めた。清十郎は追ってこなかった。
曲がり角の柱が彼の姿を隠すまで、お梅の手は肘に添えられたままだった。その手を急がせず、紗季は自分の部屋へ戻った。




