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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
美濃

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13/55

十三話 文

「そちらは、切らないで」


 紗季が言うと、槙の指が反物の端で止まった。

 まだ鋏を入れるところではない。畳の上へ広げた二筋の布を、見やすいように折り返そうとしただけだったらしい。槙は指先を離し、どちらの布かと確かめた。


「白い花の方。……もう少し、見ていたいの」


 縁に近い一筋は淡い紅色で、小さな花が散っている。奥に置かれたもう一筋は浅い青で、飾りらしいものがなかった。紗季が初めにきれいだと思ったのは紅色の方だったが、膝へ載せてみると、花が自分より先に人の目を引くようで落ち着かない。

 青い方へ手を伸ばす。表面を撫でると、斜めから差す光の下に細かな織り目が浮いた。


「こちらなら、おとなしいお色でございますね」


 お梅が膝を寄せた。紗季はその言い方が気になって、布から彼女へ目を移した。


「地味?」

「いえ。姫様のお顔が、よく見えます」


 そういう見方をしたことはなかった。

 青を胸元へ当て、お梅の顔を確かめる。彼女は今度こそ、こちらです、と迷わずに言った。

 清十郎が作兵衛の下へ置かれてから、二十日余りが過ぎていた。

 三月の終わりには腕に巻く布が要らなくなり、今は一人で着替え、庭へ下りることもできる。槙が持ち上げてくれるのを待たずに衣を取った朝、自分でできることがこんなに気持ちよかったのかと、紗季は少し驚いた。

 剣の稽古はまだ控えているが、河瀬弥四郎からは、もう数日してから足運びを見ようと言われている。

 四月に入ると、庭の木は窓の外をすっかり緑にした。枝が透けて見えていた頃には気づかなかったが、午後の部屋は日ごとに暗くなる。お梅が机を縁へ寄せると、紙の上に葉の影が揺れた。

 今日は夏へ向けて、小袖を一枚仕立ててもらうことになっている。

 小見の方が選んで届けさせた布だった。どちらも紗季に使わせるつもりだというが、先に仕立てる一枚は自分で決めてよいらしい。


「青い方にする」

「かしこまりました」


 槙は紅の布を畳んだ。残った一筋を見ていると、ほかの誰かのために用意されたものを借りるのとは、少し違う気分がした。

 今の自分が着る服になる。

 そう思いながら肩へ載せると、まだ袖にも襟にもなっていない布の向こうから、お梅が笑った。


「それでは、お歩きになれませぬ」

「分かってる。着たらどうなるかなと思っただけ」


 紗季は布を外した。笑われても、嫌ではなかった。

 仕立ては、お梅の母へ頼むと槙が言った。

 館へ縫い物を納める人だと聞いてはいたが、まだ会ったことはない。名をおきぬといい、小見の方の衣の繕いも以前から請け負っているという。


「お梅のお母さんが?」


 思わず聞き返すと、お梅の背筋が伸びた。


「はい。細かなところまで、よう縫います」

「うん。前にも教えてくれたね」


 お梅はそこで少し照れたように、畳んだ布の角を合わせ直した。

 小さな自慢をもう一度聞けたことが嬉しかった。普段のお梅は、何が好きかと尋ねられるより、何を運べばよいかと命じられる方が返事をしやすそうにしている。母の腕を褒める時には、その遠慮が薄くなる。


「ここへ来てもらうの?」

「一度、お袖の具合などを見てもらいます。いつの御用になるか、これから使いを」

「私が、文を書いてもいい?」


 槙が硯のある机を見た。


「おきぬへの文を、姫様がお書きになるのですか」

「うん。頼むのは私の小袖でしょう」


 言ってから、理由として足りるのか不安になった。槙は畳んだ紅の反物をお梅へ渡し、青い方を自分の膝へ引き寄せた。


「では、御用がきちんと伝わるように」


 その言葉が、許しだった。

 最初に書いたのは、時候の挨拶だった。

 手本にあった言葉を使おうとして、紗季は筆を宙で止める。前に写したのは、春まだ浅い頃の文だ。庭ではもう、葉の裏を通った風が小さな虫を縁へ運んでいる。


「今は、これはおかしいよね」


 槙へ手本を示すと、新しい季節に合う言い方を教えてくれた。全部を覚えた顔はせず、紗季は余った紙の端へ書き留めた。

 筆の穂を硯の縁へ軽く当てる。以前のように墨をたっぷり含ませなくても、細い線は続く。難しいのは、書ける字と、書いたつもりの字が混じることだった。手本を追っている間は読めても、一日置いて見ると自分の字に困らされる。

 今日は届ける文である。きれいに見せようとして崩しすぎず、一字ずつ形を確かめた。

 夏の小袖を頼みたいこと。袖の具合を見てほしいこと。明日の昼過ぎに来てもらいたいこと。

 最後に、お梅も元気にしていると添える。


「これ、書いていい?」


 尋ねると、お梅は机の後ろで座り直した。


「私のことなどは」

「お母さん、知りたいと思うけど」

「……では」


 紙に目を近づけたが、触れようとはしない。紗季は乾いていないところを避け、文を少し回して見せた。


「ここ。お梅は、つつがなく」


 お梅の口が、声を出さずに動く。


「これが、私の名でございますか」

「そう。梅」


 庭の木とは違う、紙の上の一字を二人で眺めた。お梅はまだ、習った字をどの文からでも見つけられるわけではない。自分の名だけでも書けるようになりたいと、近頃は短い空き時間に筆を借りていた。


「お母さんは、文を読めるの」

「用のことなら、少し。分からぬところは、読める方に」


 ならばなおさら、難しい言葉を並べない方がよいのだろう。紗季は一度書いた長い挨拶を見比べ、槙に尋ねて短くした。

 折り目をつける前に、誰へ渡すものかを外側へ記す。本文を誤らず書き終えたのに、宛名を置く場所で迷い、結局、槙に教えてもらった。

 それでも、自分で書いた文が使いに渡るのは楽しみだった。

 机の上にあったものが、この館の外へ出ていく。紗季の知らない戸をくぐり、知らない人の手で開かれるのだ。

 

 文を運ぶのは、清十郎だった。

 作兵衛が一緒に出る用があり、そのついでに寄らせるという。お梅の家は下の町にあると聞いていたが、紗季の知る道順では場所を思い描けない。お梅が辻と井戸の位置を説明し、清十郎は途中で一つだけ、確かめるために問い返した。

 紗季は縁の内側、清十郎は庭へ下りる踏み石の先にいる。作兵衛は斜め後ろで、肩に掛ける荷の紐を直していた。


「明日の昼過ぎでございますね」

「はい。母上のお部屋へ伺う前に、見ていただければと」


 清十郎は文を受け取ると、持っていた布で包んだ。空は晴れていたが、山の上には白い雲が厚く重なっている。


「雨になるの?」

「降らずに済むかもしれませぬが」


 包みを懐へ納める手つきに、紗季は感心した。自分なら、濡れ始めてから慌てていたと思う。

 この二十日ほど、彼がしていたのは、そういう用事だった。届け物を運び、庭の通路へ積まれた材木を動かすよう人に伝え、紗季が小見の方の部屋へ向かう時には、作兵衛とともに表寄りの廊下に控える。

 会えば挨拶をする。用が済めば、彼は自分の持ち場へ戻る。

 互いに何を言えばよいか迷うばかりの朝は、いつの間にか減っていた。


「お願いします、篠原様」

「承りました」


 お梅も二人を見送っていた。母へ何か伝言はないかと聞いたのに、いざ使いが立つとなると、何も頼めないままのようだった。

 昼を過ぎる前に、雨が来た。

 初めは縁板に丸い跡が二つ、三つつくだけだったのが、じきに庭の端まで細い筋でつながった。お梅は出してあった草履を取り込み、槙は反物を奥へ移す。紗季も机の紙を重ねて、風の届かない側へ寄せた。


 小庭の木は、雨を受けるたび葉を重くしていった。枝先が低くなると、いつも見えていた向かいの柱が隠れる。部屋にいながら、森の奥へ移されたような気がした。

 紗季は戸を閉じきらないでほしいと頼み、縁との間を少し残してもらった。

 雨を眺めているだけなら、好きだった。

 今は、文を持って歩く二人の足元が気になる。お梅も何度か廊下の方を見ていたが、やがて膝に載せた縫い物へ戻った。指先で糸を扱う様子は、母を褒めた時の言葉に似合っている。


「お梅も、上手だね」

「ここは、外から見えませぬから」


 彼女は縫っている布の裏を隠した。


「見えないところだと、簡単なの?」

「いえ。少し曲がっても、槙様にしか見つかりませぬ」


 奥で衣を整えていた槙が、こちらを向いた。


「聞こえております」


 お梅は慌てて糸を引き、紗季は笑いながら、急ぐとまた曲がるよ、と言った。

 戸の外で降る雨が、少し遠くなったように感じられた。

 清十郎が戻った時には、庭の水溜まりが屋根の端を映していた。

 作兵衛が取次に声を掛け、槙が廊下へ出る。紗季も呼ばれ、表との境にある小さな控えへ移った。

  部屋の入口から見て右に槙、左の後ろにお梅が座り、開けた戸の向こうに二人の男が控える。清十郎の裾には泥が跳ね、膝から下だけ色が濃かった。


「おきぬには、文を届けました。明日の昼過ぎに伺うと申しております」

「そう。ありがとう」


 言ったところで、清十郎がまだ用を終えた様子でないことに気づいた。


「ほかにも?」

「少し、お尋ねしてよろしゅうございますか」


 紗季が促すと、彼は懐から何も取り出さず、そのまま尋ねた。


「明日でなければ、ならぬ御用でございましょうか」


 槙が紗季を見た。

 答えられるはずの問いなのに、すぐには言葉にならなかった。自分が明日と書いたから、明日なのだ。それ以外の理由は、考えていなかった。


「……急ぐのは、こちらの都合です。何か、あるのですか」

「ほかの縫い物が、まだ片づかぬ様子でした。今宵のうちに仕上げて参ると」

「夜に?」

「娘には申さぬようにと、頼まれましたが」


 清十郎の視線が、お梅のところで一度止まった。


「ただ、早くから取り掛かれば間に合うとばかりで、どれほど残っておるかは分かりませぬ。こちらで日を変えてよいものか、俺には決められず」


 お梅が膝の上に置いていた布を握った。


「母は、そんなふうに申しましたか」

「ええ。姫様の御用を頂けるのは、ありがたいと」


 お梅は喜ばなかった。

 紗季の目には、朝の一行が浮かんでいた。明日の昼過ぎに、と書くのは簡単だった。筆を運ぶ間、誰かの今夜を使うことになるなど、少しも思わなかった。


「いったん、お待ちください。母上に伺ってまいります」


 立つ前に、紗季は槙へ向き直った。


「一緒に来てくれる?」


 槙はお梅にここで待つよう伝え、紗季の後へ続いた。

 小見の方は、庭へ面した部屋で布のほつれを見ていた。

 先触れをした女が戻ってくるまで、紗季は廊下の柱の脇に座って待った。以前なら、開いている戸の奥を覗いてしまっただろう。今は中から名を呼ばれるのを待ち、用がある時にも、話しかける順があることを思い出せる。

 入ると、小見の方は布を脇へ置いた。


「もう、色は決めましたか」

「青を、お願いいたしました」

「そう。顔に当ててみたのですね」


 紗季は、選んだところを見られていたような気がして笑った。けれど、今日の話を忘れてはいけない。

 おきぬへ自分で文を書いたこと、明日来てほしいと頼んだこと、ほかの仕事が済んでいないことを順に話した。


「お仕立てを、急がせねばなりませぬか」

「誰が、急ぐようにと言いました」

「誰も……」

「ならば、なぜ明日と」


 叱る調子ではなかったので、かえってごまかせなかった。


「早く、着てみたかったのです。それから、お梅もお母さんに会えたら、嬉しいかと」


 部屋の外で雨垂れが続いている。石に当たる水の音が、返事を待つ間だけ大きくなった。

 小見の方は、紗季の説明を急がせなかった。


「お梅には、そう聞きましたか」


 紗季は首を横に振った。


「先に聞くべきでした」

「母を呼び、仕事を頼めば、あの子も気が休まらぬでしょうね」


 お梅が布を握った指を思い出す。

 母の仕事ぶりを自慢する顔だけを見て、きっと喜ぶと思い込んだ。自分の望みと、お梅の望みを同じものにしていたのかもしれない。


「どう申し直したらよいか、迷っております」


 小見の方は、そばの反物へ指を置いた。


「頼んだ仕事をやめるのではないのでしょう」

「はい。お願いしたいのです」

「それなら、そこは変えずに伝えなさい。急がずともよいということと」


 紗季は袖の中で指を動かした。字なら書ける。けれど、文を受け取った人が、どんな顔で明日を考えるかまでは書いた紙から分からない。


「母上。お梅に、少し暇を頂けませんか。仕事を持たずに、お母さんに会えるように」

「槙」


 呼ばれた槙が、出入りの戸に近い場所から答えた。


「明日ならば、こちらの用は繰り合わせられます」

「では、そうなさい。長く帰してやれずにいましたね」


 小見の方はそう言い、紗季へ視線を戻した。


「ただし、帰って何をするかまで決めてはなりませぬよ」


 紗季は返事をしながら、つい、母娘の話す姿まで思い描いていた自分に気づいた。

 戻ると、お梅は待っていた場所で膝を揃えていた。

 清十郎と作兵衛は表へ下がっており、控えには雨の匂いが残っている。紗季はまず、仕事を急がせなくてよくなったと伝えた。


「文を書き直すね。お母さんの都合がついてから、来てもらうことにする」

「申し訳ございませぬ」

「お梅が謝ることじゃないよ」


 言ってしまってから、紗季は続きを急がないようにした。

 お梅は手に持った布を畳み直していた。さっき握ったところに細かな皺が寄っている。


「お母さんに会いたい?」


 今度は、ちゃんと答えを待った。


「会いとうございます」


 声は小さかったが、迷わずに聞こえた。


「でも、帰れば、きっと縫い物を手伝います」


 紗季は笑いそうになった。

 小見の方に言われたばかりなのに、仕事をしないで話せばいい、と口を出しかけたのである。


「それも、お梅が決めて」


 母上から暇を頂いたと知らせると、お梅は布を膝へ落とした。


「明日、でございますか」

「昼のうちに。槙と、帰る時を決めてね」


 お梅は槙の返事を聞いてから、ようやく笑った。控えめに口元だけ動くのではなく、目の周りまで嬉しそうになったので、紗季もつられて頬が緩む。


「何か、持って帰りたいものはある?」

「私の、書いたものを」


 言われて、紗季は机に残してきた紙を思った。お梅が何度も練習し、最後の一枚だけ大事に脇へ避けていたものだ。


「うん。それ、見てもらおう」


 書き直す文は、朝より時間が掛かった。

 急ぎではない、とだけ書くと、もう来なくてよいと思われるだろうか。こちらの都合が変わったとすれば、またいつ変わるか分からないと思わせないか。

 紗季は下書きに使う紙を、横へ少しずつずらした。

 槙に見てもらい、まず仕立てを頼むことに変わりはないと書く。先の仕事を済ませてから、都合のよい日を知らせてほしい。明日はお梅を帰すので、その折に伝えてほしい。

 今度の文には、返事をするための道筋がある。


「朝のも、見てくれればよかったのに」


 筆を置いてから、ついこぼした。

 槙は紙を押さえていた文鎮を外した。


「御用は、誤りなく書かれておりました」

「でも、こうなるって」

「私も、おきぬの手元がどれほど塞がっているかは存じませぬ」


 紗季は言い返せなかった。自分の失敗を槙が先回りして止めてくれなかったことに、腹を立てかけていたのだ。


「……ごめんなさい」

「次の文で、伝えればよいことです」


 槙は乾いた箇所から順に確かめ、紗季が自分で折るのを待ってくれた。


 雨はまだ止まなかった。

 今からもう一度、清十郎たちを出してよいのか。明日の朝では、おきぬが今夜の仕事を増やしてしまう。

 紗季はそのことを槙へ伝え、表の取次に相談してもらった。夕方、下の町へ行く者がいるという。その者に文を預けると決まり、清十郎が受け取りに来た時には、作兵衛も廊下の角にいた。


「今宵は、お休みいただくよう、お伝えください」

「文のほかに、申し添えるのですね」

「はい。それから、明日はお梅が参ります」


 清十郎は内容を確かめてから、包みを受け取った。


「お知らせくださって、ありがとうございました」


 紗季が言うと、彼は返事までに少し間を置いた。


「余計なことかとも、思いました」

「聞いてよかったです。私、紙のことばかり考えていました」 


 朝、墨を滲ませずに書けたのが嬉しかったことを、今さら言うのは恥ずかしい。けれど、清十郎は字の巧拙を尋ねなかった。


「受け取ったおきぬは、嬉しそうでした」

「そう、ですか」

「娘が息災と書いてあるところを、もう一度読んでくれと」


 隣にいたお梅が、袖で口元を覆った。

 紗季はもう、おきぬの手にある自分の文を、失敗した紙だけとは思えなくなった。

 翌日、お梅は昼前に出かけた。

 雨上がりの道へ下りる足は、いつもより速い。槙から預かった小さな包みと、自分の名を書いた紙を濡らさないよう胸に抱え、門の手前で一度だけ振り返った。


 紗季は縁から手を振るつもりが、槙の前で大きく振ってよいのかと迷い、半端に持ち上げた腕をそのまま動かした。お梅も似たような仕草を返す。

 いなくなると、部屋が思ったより静かになった。

 呼べば返事をしてくれる人にも、自分の見ていない家がある。そこで座る場所や、気兼ねせず伸ばせる足があるのだろう。

 紗季は戸口の方へ呼びかけそうになるたび、自分で水を取り、使った紙を片づけた。

 夕方に戻ったお梅は、まず槙へ帰着を告げ、それから、母は七日ほど後なら伺えると言った。


「急がなくていいって、ちゃんと分かった?」

「はい。けれど、姫様のお衣は楽しみだから、待たせすぎぬようにとも」


 お梅は袖から折った紙を出した。自分の名を書いた練習の紙だった。持って帰ってきたのかと尋ねると、家に置いてきたのはもう一枚の方だという。


「母に、梅の字を教えました」

「読めなかったの?」

「読めます。でも、私が書くところを見たいと」


 あの机の左側で、筆を握ることさえ遠慮していたお梅が、誰かに字を書いて見せている。

 紗季は、どの線を褒められたのか聞きたくなった。お梅は一本ずつ覚えていて、しまいには机の上で、筆を持たない指まで動かして説明した。

 おきぬが館を訪れたのは、それから八日目だった。

 槙に伴われて入ってきた人は、紗季が想像していたより小柄で、笑うと目尻に細かな皺が寄った。お梅とは眉の形がよく似ている。持参した道具の包みを置く動作だけで、物を探して人を待たせることの少ない人なのだろうと思われた。


「このたびは、お文まで頂戴いたしまして」


 礼を受け、紗季は教わった通りに応じた。母娘の方ばかり見てしまわないように気をつけながら、青い布を選んだことを話す。

 おきぬは槙から普段の小袖を受け取り、袖の落ちる位置を確かめた。


「こちらより、お手を出しやすくいたしましょうか」

「そうしてもらえると、嬉しいです」

「御覧くださいませ。このくらいなら、見苦しくはなりませぬ」


 指で折り込んだ、わずかな幅だった。それだけで手首の出方が違って見え、紗季は両腕を伸ばしたり、引いたりしてみた。

 お梅が正面から布を押さえる。母に言われる前に、次に必要なものを差し出していた。館では見慣れているはずの手が、今日は少し違って見える。


「お梅も、お裁縫が上手ですね」


 紗季が言うと、おきぬは娘の手元を見た。


「この子は急ぎますので。糸を長く取れば、早く済むと思うて」

「母様」

「ここでも、同じことをしておりますか」


 槙が、時折、と答えた。

 お梅は紗季に助けを求めるような顔をしたが、紗季には笑いを収められなかった。


「裏側だからって、言ってました」

「姫様まで」


 咎める声が思いがけず普段の遠慮を離れ、言った本人が驚いている。その隣でおきぬは、かえって安心したように娘の襟を直した。

 用が済んでから、おきぬは持ってきた包みを槙へ差し出した。

 干した小魚が少し入っているという。娘にだけでも、と言いかけると、槙は台所で取り分けさせましょう、と引き取った。お梅の目が包みを追い、すぐ母へ戻る。

 その一瞬を、紗季は見逃さなかった。


「好きなの?」

「家では、よく」

「私も、食べてみたい」


 おきぬが困ったように笑う。


「姫様のお口に合いますかどうか」


 小見の方へ届ける礼の文を、あとで書こうと紗季は思った。青い布を選んだことと、仕立てが楽しみなこと。それに、今日、お梅がどんな顔で笑ったか。

 全部を書こうとしたら、また紙が足りなくなるかもしれない。

 母娘が槙について廊下へ出るのを見送り、紗季は机へ戻った。開いた戸から風が入り、まだ畳まれていなかった青い布の端を動かす。

 その布を押さえてから、硯へ水を落とした。

 書き出す前に、まず、いちばん伝えたいことを考えた。

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