十三話 文
「そちらは、切らないで」
紗季が言うと、槙の指が反物の端で止まった。
まだ鋏を入れるところではない。畳の上へ広げた二筋の布を、見やすいように折り返そうとしただけだったらしい。槙は指先を離し、どちらの布かと確かめた。
「白い花の方。……もう少し、見ていたいの」
縁に近い一筋は淡い紅色で、小さな花が散っている。奥に置かれたもう一筋は浅い青で、飾りらしいものがなかった。紗季が初めにきれいだと思ったのは紅色の方だったが、膝へ載せてみると、花が自分より先に人の目を引くようで落ち着かない。
青い方へ手を伸ばす。表面を撫でると、斜めから差す光の下に細かな織り目が浮いた。
「こちらなら、おとなしいお色でございますね」
お梅が膝を寄せた。紗季はその言い方が気になって、布から彼女へ目を移した。
「地味?」
「いえ。姫様のお顔が、よく見えます」
そういう見方をしたことはなかった。
青を胸元へ当て、お梅の顔を確かめる。彼女は今度こそ、こちらです、と迷わずに言った。
清十郎が作兵衛の下へ置かれてから、二十日余りが過ぎていた。
三月の終わりには腕に巻く布が要らなくなり、今は一人で着替え、庭へ下りることもできる。槙が持ち上げてくれるのを待たずに衣を取った朝、自分でできることがこんなに気持ちよかったのかと、紗季は少し驚いた。
剣の稽古はまだ控えているが、河瀬弥四郎からは、もう数日してから足運びを見ようと言われている。
四月に入ると、庭の木は窓の外をすっかり緑にした。枝が透けて見えていた頃には気づかなかったが、午後の部屋は日ごとに暗くなる。お梅が机を縁へ寄せると、紙の上に葉の影が揺れた。
今日は夏へ向けて、小袖を一枚仕立ててもらうことになっている。
小見の方が選んで届けさせた布だった。どちらも紗季に使わせるつもりだというが、先に仕立てる一枚は自分で決めてよいらしい。
「青い方にする」
「かしこまりました」
槙は紅の布を畳んだ。残った一筋を見ていると、ほかの誰かのために用意されたものを借りるのとは、少し違う気分がした。
今の自分が着る服になる。
そう思いながら肩へ載せると、まだ袖にも襟にもなっていない布の向こうから、お梅が笑った。
「それでは、お歩きになれませぬ」
「分かってる。着たらどうなるかなと思っただけ」
紗季は布を外した。笑われても、嫌ではなかった。
仕立ては、お梅の母へ頼むと槙が言った。
館へ縫い物を納める人だと聞いてはいたが、まだ会ったことはない。名をおきぬといい、小見の方の衣の繕いも以前から請け負っているという。
「お梅のお母さんが?」
思わず聞き返すと、お梅の背筋が伸びた。
「はい。細かなところまで、よう縫います」
「うん。前にも教えてくれたね」
お梅はそこで少し照れたように、畳んだ布の角を合わせ直した。
小さな自慢をもう一度聞けたことが嬉しかった。普段のお梅は、何が好きかと尋ねられるより、何を運べばよいかと命じられる方が返事をしやすそうにしている。母の腕を褒める時には、その遠慮が薄くなる。
「ここへ来てもらうの?」
「一度、お袖の具合などを見てもらいます。いつの御用になるか、これから使いを」
「私が、文を書いてもいい?」
槙が硯のある机を見た。
「おきぬへの文を、姫様がお書きになるのですか」
「うん。頼むのは私の小袖でしょう」
言ってから、理由として足りるのか不安になった。槙は畳んだ紅の反物をお梅へ渡し、青い方を自分の膝へ引き寄せた。
「では、御用がきちんと伝わるように」
その言葉が、許しだった。
最初に書いたのは、時候の挨拶だった。
手本にあった言葉を使おうとして、紗季は筆を宙で止める。前に写したのは、春まだ浅い頃の文だ。庭ではもう、葉の裏を通った風が小さな虫を縁へ運んでいる。
「今は、これはおかしいよね」
槙へ手本を示すと、新しい季節に合う言い方を教えてくれた。全部を覚えた顔はせず、紗季は余った紙の端へ書き留めた。
筆の穂を硯の縁へ軽く当てる。以前のように墨をたっぷり含ませなくても、細い線は続く。難しいのは、書ける字と、書いたつもりの字が混じることだった。手本を追っている間は読めても、一日置いて見ると自分の字に困らされる。
今日は届ける文である。きれいに見せようとして崩しすぎず、一字ずつ形を確かめた。
夏の小袖を頼みたいこと。袖の具合を見てほしいこと。明日の昼過ぎに来てもらいたいこと。
最後に、お梅も元気にしていると添える。
「これ、書いていい?」
尋ねると、お梅は机の後ろで座り直した。
「私のことなどは」
「お母さん、知りたいと思うけど」
「……では」
紙に目を近づけたが、触れようとはしない。紗季は乾いていないところを避け、文を少し回して見せた。
「ここ。お梅は、つつがなく」
お梅の口が、声を出さずに動く。
「これが、私の名でございますか」
「そう。梅」
庭の木とは違う、紙の上の一字を二人で眺めた。お梅はまだ、習った字をどの文からでも見つけられるわけではない。自分の名だけでも書けるようになりたいと、近頃は短い空き時間に筆を借りていた。
「お母さんは、文を読めるの」
「用のことなら、少し。分からぬところは、読める方に」
ならばなおさら、難しい言葉を並べない方がよいのだろう。紗季は一度書いた長い挨拶を見比べ、槙に尋ねて短くした。
折り目をつける前に、誰へ渡すものかを外側へ記す。本文を誤らず書き終えたのに、宛名を置く場所で迷い、結局、槙に教えてもらった。
それでも、自分で書いた文が使いに渡るのは楽しみだった。
机の上にあったものが、この館の外へ出ていく。紗季の知らない戸をくぐり、知らない人の手で開かれるのだ。
文を運ぶのは、清十郎だった。
作兵衛が一緒に出る用があり、そのついでに寄らせるという。お梅の家は下の町にあると聞いていたが、紗季の知る道順では場所を思い描けない。お梅が辻と井戸の位置を説明し、清十郎は途中で一つだけ、確かめるために問い返した。
紗季は縁の内側、清十郎は庭へ下りる踏み石の先にいる。作兵衛は斜め後ろで、肩に掛ける荷の紐を直していた。
「明日の昼過ぎでございますね」
「はい。母上のお部屋へ伺う前に、見ていただければと」
清十郎は文を受け取ると、持っていた布で包んだ。空は晴れていたが、山の上には白い雲が厚く重なっている。
「雨になるの?」
「降らずに済むかもしれませぬが」
包みを懐へ納める手つきに、紗季は感心した。自分なら、濡れ始めてから慌てていたと思う。
この二十日ほど、彼がしていたのは、そういう用事だった。届け物を運び、庭の通路へ積まれた材木を動かすよう人に伝え、紗季が小見の方の部屋へ向かう時には、作兵衛とともに表寄りの廊下に控える。
会えば挨拶をする。用が済めば、彼は自分の持ち場へ戻る。
互いに何を言えばよいか迷うばかりの朝は、いつの間にか減っていた。
「お願いします、篠原様」
「承りました」
お梅も二人を見送っていた。母へ何か伝言はないかと聞いたのに、いざ使いが立つとなると、何も頼めないままのようだった。
昼を過ぎる前に、雨が来た。
初めは縁板に丸い跡が二つ、三つつくだけだったのが、じきに庭の端まで細い筋でつながった。お梅は出してあった草履を取り込み、槙は反物を奥へ移す。紗季も机の紙を重ねて、風の届かない側へ寄せた。
小庭の木は、雨を受けるたび葉を重くしていった。枝先が低くなると、いつも見えていた向かいの柱が隠れる。部屋にいながら、森の奥へ移されたような気がした。
紗季は戸を閉じきらないでほしいと頼み、縁との間を少し残してもらった。
雨を眺めているだけなら、好きだった。
今は、文を持って歩く二人の足元が気になる。お梅も何度か廊下の方を見ていたが、やがて膝に載せた縫い物へ戻った。指先で糸を扱う様子は、母を褒めた時の言葉に似合っている。
「お梅も、上手だね」
「ここは、外から見えませぬから」
彼女は縫っている布の裏を隠した。
「見えないところだと、簡単なの?」
「いえ。少し曲がっても、槙様にしか見つかりませぬ」
奥で衣を整えていた槙が、こちらを向いた。
「聞こえております」
お梅は慌てて糸を引き、紗季は笑いながら、急ぐとまた曲がるよ、と言った。
戸の外で降る雨が、少し遠くなったように感じられた。
清十郎が戻った時には、庭の水溜まりが屋根の端を映していた。
作兵衛が取次に声を掛け、槙が廊下へ出る。紗季も呼ばれ、表との境にある小さな控えへ移った。
部屋の入口から見て右に槙、左の後ろにお梅が座り、開けた戸の向こうに二人の男が控える。清十郎の裾には泥が跳ね、膝から下だけ色が濃かった。
「おきぬには、文を届けました。明日の昼過ぎに伺うと申しております」
「そう。ありがとう」
言ったところで、清十郎がまだ用を終えた様子でないことに気づいた。
「ほかにも?」
「少し、お尋ねしてよろしゅうございますか」
紗季が促すと、彼は懐から何も取り出さず、そのまま尋ねた。
「明日でなければ、ならぬ御用でございましょうか」
槙が紗季を見た。
答えられるはずの問いなのに、すぐには言葉にならなかった。自分が明日と書いたから、明日なのだ。それ以外の理由は、考えていなかった。
「……急ぐのは、こちらの都合です。何か、あるのですか」
「ほかの縫い物が、まだ片づかぬ様子でした。今宵のうちに仕上げて参ると」
「夜に?」
「娘には申さぬようにと、頼まれましたが」
清十郎の視線が、お梅のところで一度止まった。
「ただ、早くから取り掛かれば間に合うとばかりで、どれほど残っておるかは分かりませぬ。こちらで日を変えてよいものか、俺には決められず」
お梅が膝の上に置いていた布を握った。
「母は、そんなふうに申しましたか」
「ええ。姫様の御用を頂けるのは、ありがたいと」
お梅は喜ばなかった。
紗季の目には、朝の一行が浮かんでいた。明日の昼過ぎに、と書くのは簡単だった。筆を運ぶ間、誰かの今夜を使うことになるなど、少しも思わなかった。
「いったん、お待ちください。母上に伺ってまいります」
立つ前に、紗季は槙へ向き直った。
「一緒に来てくれる?」
槙はお梅にここで待つよう伝え、紗季の後へ続いた。
小見の方は、庭へ面した部屋で布のほつれを見ていた。
先触れをした女が戻ってくるまで、紗季は廊下の柱の脇に座って待った。以前なら、開いている戸の奥を覗いてしまっただろう。今は中から名を呼ばれるのを待ち、用がある時にも、話しかける順があることを思い出せる。
入ると、小見の方は布を脇へ置いた。
「もう、色は決めましたか」
「青を、お願いいたしました」
「そう。顔に当ててみたのですね」
紗季は、選んだところを見られていたような気がして笑った。けれど、今日の話を忘れてはいけない。
おきぬへ自分で文を書いたこと、明日来てほしいと頼んだこと、ほかの仕事が済んでいないことを順に話した。
「お仕立てを、急がせねばなりませぬか」
「誰が、急ぐようにと言いました」
「誰も……」
「ならば、なぜ明日と」
叱る調子ではなかったので、かえってごまかせなかった。
「早く、着てみたかったのです。それから、お梅もお母さんに会えたら、嬉しいかと」
部屋の外で雨垂れが続いている。石に当たる水の音が、返事を待つ間だけ大きくなった。
小見の方は、紗季の説明を急がせなかった。
「お梅には、そう聞きましたか」
紗季は首を横に振った。
「先に聞くべきでした」
「母を呼び、仕事を頼めば、あの子も気が休まらぬでしょうね」
お梅が布を握った指を思い出す。
母の仕事ぶりを自慢する顔だけを見て、きっと喜ぶと思い込んだ。自分の望みと、お梅の望みを同じものにしていたのかもしれない。
「どう申し直したらよいか、迷っております」
小見の方は、そばの反物へ指を置いた。
「頼んだ仕事をやめるのではないのでしょう」
「はい。お願いしたいのです」
「それなら、そこは変えずに伝えなさい。急がずともよいということと」
紗季は袖の中で指を動かした。字なら書ける。けれど、文を受け取った人が、どんな顔で明日を考えるかまでは書いた紙から分からない。
「母上。お梅に、少し暇を頂けませんか。仕事を持たずに、お母さんに会えるように」
「槙」
呼ばれた槙が、出入りの戸に近い場所から答えた。
「明日ならば、こちらの用は繰り合わせられます」
「では、そうなさい。長く帰してやれずにいましたね」
小見の方はそう言い、紗季へ視線を戻した。
「ただし、帰って何をするかまで決めてはなりませぬよ」
紗季は返事をしながら、つい、母娘の話す姿まで思い描いていた自分に気づいた。
戻ると、お梅は待っていた場所で膝を揃えていた。
清十郎と作兵衛は表へ下がっており、控えには雨の匂いが残っている。紗季はまず、仕事を急がせなくてよくなったと伝えた。
「文を書き直すね。お母さんの都合がついてから、来てもらうことにする」
「申し訳ございませぬ」
「お梅が謝ることじゃないよ」
言ってしまってから、紗季は続きを急がないようにした。
お梅は手に持った布を畳み直していた。さっき握ったところに細かな皺が寄っている。
「お母さんに会いたい?」
今度は、ちゃんと答えを待った。
「会いとうございます」
声は小さかったが、迷わずに聞こえた。
「でも、帰れば、きっと縫い物を手伝います」
紗季は笑いそうになった。
小見の方に言われたばかりなのに、仕事をしないで話せばいい、と口を出しかけたのである。
「それも、お梅が決めて」
母上から暇を頂いたと知らせると、お梅は布を膝へ落とした。
「明日、でございますか」
「昼のうちに。槙と、帰る時を決めてね」
お梅は槙の返事を聞いてから、ようやく笑った。控えめに口元だけ動くのではなく、目の周りまで嬉しそうになったので、紗季もつられて頬が緩む。
「何か、持って帰りたいものはある?」
「私の、書いたものを」
言われて、紗季は机に残してきた紙を思った。お梅が何度も練習し、最後の一枚だけ大事に脇へ避けていたものだ。
「うん。それ、見てもらおう」
書き直す文は、朝より時間が掛かった。
急ぎではない、とだけ書くと、もう来なくてよいと思われるだろうか。こちらの都合が変わったとすれば、またいつ変わるか分からないと思わせないか。
紗季は下書きに使う紙を、横へ少しずつずらした。
槙に見てもらい、まず仕立てを頼むことに変わりはないと書く。先の仕事を済ませてから、都合のよい日を知らせてほしい。明日はお梅を帰すので、その折に伝えてほしい。
今度の文には、返事をするための道筋がある。
「朝のも、見てくれればよかったのに」
筆を置いてから、ついこぼした。
槙は紙を押さえていた文鎮を外した。
「御用は、誤りなく書かれておりました」
「でも、こうなるって」
「私も、おきぬの手元がどれほど塞がっているかは存じませぬ」
紗季は言い返せなかった。自分の失敗を槙が先回りして止めてくれなかったことに、腹を立てかけていたのだ。
「……ごめんなさい」
「次の文で、伝えればよいことです」
槙は乾いた箇所から順に確かめ、紗季が自分で折るのを待ってくれた。
雨はまだ止まなかった。
今からもう一度、清十郎たちを出してよいのか。明日の朝では、おきぬが今夜の仕事を増やしてしまう。
紗季はそのことを槙へ伝え、表の取次に相談してもらった。夕方、下の町へ行く者がいるという。その者に文を預けると決まり、清十郎が受け取りに来た時には、作兵衛も廊下の角にいた。
「今宵は、お休みいただくよう、お伝えください」
「文のほかに、申し添えるのですね」
「はい。それから、明日はお梅が参ります」
清十郎は内容を確かめてから、包みを受け取った。
「お知らせくださって、ありがとうございました」
紗季が言うと、彼は返事までに少し間を置いた。
「余計なことかとも、思いました」
「聞いてよかったです。私、紙のことばかり考えていました」
朝、墨を滲ませずに書けたのが嬉しかったことを、今さら言うのは恥ずかしい。けれど、清十郎は字の巧拙を尋ねなかった。
「受け取ったおきぬは、嬉しそうでした」
「そう、ですか」
「娘が息災と書いてあるところを、もう一度読んでくれと」
隣にいたお梅が、袖で口元を覆った。
紗季はもう、おきぬの手にある自分の文を、失敗した紙だけとは思えなくなった。
翌日、お梅は昼前に出かけた。
雨上がりの道へ下りる足は、いつもより速い。槙から預かった小さな包みと、自分の名を書いた紙を濡らさないよう胸に抱え、門の手前で一度だけ振り返った。
紗季は縁から手を振るつもりが、槙の前で大きく振ってよいのかと迷い、半端に持ち上げた腕をそのまま動かした。お梅も似たような仕草を返す。
いなくなると、部屋が思ったより静かになった。
呼べば返事をしてくれる人にも、自分の見ていない家がある。そこで座る場所や、気兼ねせず伸ばせる足があるのだろう。
紗季は戸口の方へ呼びかけそうになるたび、自分で水を取り、使った紙を片づけた。
夕方に戻ったお梅は、まず槙へ帰着を告げ、それから、母は七日ほど後なら伺えると言った。
「急がなくていいって、ちゃんと分かった?」
「はい。けれど、姫様のお衣は楽しみだから、待たせすぎぬようにとも」
お梅は袖から折った紙を出した。自分の名を書いた練習の紙だった。持って帰ってきたのかと尋ねると、家に置いてきたのはもう一枚の方だという。
「母に、梅の字を教えました」
「読めなかったの?」
「読めます。でも、私が書くところを見たいと」
あの机の左側で、筆を握ることさえ遠慮していたお梅が、誰かに字を書いて見せている。
紗季は、どの線を褒められたのか聞きたくなった。お梅は一本ずつ覚えていて、しまいには机の上で、筆を持たない指まで動かして説明した。
おきぬが館を訪れたのは、それから八日目だった。
槙に伴われて入ってきた人は、紗季が想像していたより小柄で、笑うと目尻に細かな皺が寄った。お梅とは眉の形がよく似ている。持参した道具の包みを置く動作だけで、物を探して人を待たせることの少ない人なのだろうと思われた。
「このたびは、お文まで頂戴いたしまして」
礼を受け、紗季は教わった通りに応じた。母娘の方ばかり見てしまわないように気をつけながら、青い布を選んだことを話す。
おきぬは槙から普段の小袖を受け取り、袖の落ちる位置を確かめた。
「こちらより、お手を出しやすくいたしましょうか」
「そうしてもらえると、嬉しいです」
「御覧くださいませ。このくらいなら、見苦しくはなりませぬ」
指で折り込んだ、わずかな幅だった。それだけで手首の出方が違って見え、紗季は両腕を伸ばしたり、引いたりしてみた。
お梅が正面から布を押さえる。母に言われる前に、次に必要なものを差し出していた。館では見慣れているはずの手が、今日は少し違って見える。
「お梅も、お裁縫が上手ですね」
紗季が言うと、おきぬは娘の手元を見た。
「この子は急ぎますので。糸を長く取れば、早く済むと思うて」
「母様」
「ここでも、同じことをしておりますか」
槙が、時折、と答えた。
お梅は紗季に助けを求めるような顔をしたが、紗季には笑いを収められなかった。
「裏側だからって、言ってました」
「姫様まで」
咎める声が思いがけず普段の遠慮を離れ、言った本人が驚いている。その隣でおきぬは、かえって安心したように娘の襟を直した。
用が済んでから、おきぬは持ってきた包みを槙へ差し出した。
干した小魚が少し入っているという。娘にだけでも、と言いかけると、槙は台所で取り分けさせましょう、と引き取った。お梅の目が包みを追い、すぐ母へ戻る。
その一瞬を、紗季は見逃さなかった。
「好きなの?」
「家では、よく」
「私も、食べてみたい」
おきぬが困ったように笑う。
「姫様のお口に合いますかどうか」
小見の方へ届ける礼の文を、あとで書こうと紗季は思った。青い布を選んだことと、仕立てが楽しみなこと。それに、今日、お梅がどんな顔で笑ったか。
全部を書こうとしたら、また紙が足りなくなるかもしれない。
母娘が槙について廊下へ出るのを見送り、紗季は机へ戻った。開いた戸から風が入り、まだ畳まれていなかった青い布の端を動かす。
その布を押さえてから、硯へ水を落とした。
書き出す前に、まず、いちばん伝えたいことを考えた。




