十四話 兄 新九郎
木剣を振らずに帰るつもりで来たのに、目はどうしても、壁際の筵へ向いてしまう。
「そちらへ足を出せとは、申しておりませぬ」
河瀬弥四郎に言われ、紗季は踏み出しかけた右足を戻した。
おきぬが衣の寸法を見に来てから、三日が過ぎている。小見の方への礼の文も届け終え、今朝は久しぶりに、館の裏手にある稽古場へ出ることができた。
細長い建物の戸は二枚とも開かれ、奥の板敷きから、庭へ掃き出したばかりの埃の匂いがする。紗季の立つ土の上には、弥四郎が踵で引いた短い線があった。まず、その線を跨いで進み、同じ位置へ戻る。それだけのことが、剣を持たないと妙に難しい。
「手は、いつもの構えでよいのですか」
「よろしい。足を見るために、腕まで変えることはありませぬ」
そこで両手を胸の前へ寄せると、空いていた手の居場所が決まった。
右足を出し、後ろの足を引き寄せる。戻る時には、土を踏んだ踵が少し滑る。
「今のは、歩幅を欲張りましたね」
「見ていたのですか」
「見るために、ここへおります」
軒下で、お梅が口元を押さえた。笑うつもりはなかったらしく、紗季と目が合うとすぐに首を振る。
「笑っていいよ。自分でも変だった」
言いながら、今度は半歩分だけ進んでみた。裾が足にまとわりつかず、体も後ろへ置き去りにならない。これなら、もう一歩出せそうだ。
けれど先へ行く前に、弥四郎の合図を待った。
何度も往復するうち、朝は冷たかった背中に汗が浮く。剣を振っている時よりも、自分の癖をごまかせない。足の裏へ意識を向けると肩が上がり、肩を下げようとすれば、今度は顔まで下を向いてしまう。
「足元に、敵はおりませぬ」
「……はい」
顔を上げた先で、清十郎が戸口の外へ身を寄せていた。
作兵衛と二人で、運ばれてきた薪を通しているところだった。荷を負う男が通り過ぎても、清十郎はこちらを見ている。何か言いたそうな眉の動きに気づいたが、紗季は尋ねず、弥四郎へ向き直った。
途中で止められるのは嫌だ。だからといって、できるふりをして終わらせたくもない。
「もう一度、お願いしてもよろしいですか」
弥四郎は土の線を見てから、壁際へ歩いていった。
戻ってきた手には、短めの木剣がある。
「では、これを持って。振るのは、足が決まってから」
受け取る時、紗季は思わず両手を伸ばした。握りを確かめるだけで、口元が緩んでしまう。
「そんなに、嬉しゅうございますか」
お梅の問いには、隠しようもなかった。
「うん」
木の柄は、思っていたより乾いている。掌へ収まる太さを確かめ、紗季は弥四郎の前で構え直した。
その朝に振ったのは、ゆっくりとした数度だけだった。
終わりと言われて返すと、まだ動ける体をどこへ置けばいいのか分からず、庭の端まで歩きたくなる。お梅が差し出す布を受け取り、汗を押さえながら軒下へ入った。
「昼のうちに、また来ては」
「今日は、これにて」
弥四郎の返事に迷いはない。
紗季は木剣の方を見ないようにして、礼をした。戸口を出る頃には、風の当たる額が気持ちよく、もう少しできたのに、という不満も薄れていく。
「姫様」
作兵衛のそばから、清十郎が声を掛けた。
「はい」
「午後も、お出ましになるおつもりでしたか」
「聞いてみただけです」
なぜか、言い訳をするような声になった。清十郎は弥四郎のいる建物へ視線を向け、何か言葉を選んでいる。
「お文も、お習いになっておられるのでしょう」
「そちらも、します」
「そういうお務めを先に――」
「篠原様」
紗季が呼ぶと、彼は口を閉じた。
せっかく稽古を再開できた朝だった。袖の中へ押し込めていた手を、ようやく外へ出したような心地でいるのに、また机へ戻されるのは面白くない。
「私が、文を書くのを怠けているように見えますか」
「そうは申しておりませぬ」
清十郎の顎が引かれた。作兵衛は二人の間へ入らず、紗季の後ろにいるお梅へ一度目を向ける。
お梅は布を受け取ろうとした手を止めていた。
紗季は、その手へ布を返した。
「……お話は、また」
何を心配しているのか、聞けばよかったのかもしれない。だが今は、続きを聞けばきつい言葉を返してしまいそうだった。
清十郎も追ってはこない。
紗季はお梅と廊下へ上がり、足を拭いてから自室へ向かった。途中で見た庭には、薪を一本拾いに戻った男がいるだけで、二人の姿はもうない。
部屋へ戻ると、槙が着替えを用意していた。
広げてあるのは見慣れた小袖で、楽しみにしている青い一枚は、まだおきぬの手元にある。袖を抜き、乾いた衣を肩へ掛けてもらったところで、槙から午後の来客を告げられた。
「新九郎様が、お顔を見においでになります」
「しんくろう、様?」
「兄上様にございます」
襟を合わせる手を止め、紗季は槙を見た。
帰蝶に兄がいることを、知らなかったわけではない。知っているからこそ、名前を聞いた瞬間に、会う人の姿より先に本の中の出来事が浮かんだ。
斎藤義龍。
父と争い、ついにはその命を奪う人。その名前と、今しがた槙が口にした「兄上様」が、紗季の中ではうまく重ならない。
「今日、ここへ?」
「表の御用を終えてから、こちらへ寄られると。お館様からも、そのように」
紗季は合わせかけの襟を、自分で押さえた。
「私のことは、どこまで御存じなの」
声を落とすと、槙もお梅へ水を替える用を言いつけ、戸口の向こうへ遠ざかる足音を待った。
「お亡くなりになったとのお知らせは、新九郎様にも届いております。その後、お戻りになったこと、御記憶が定かでないことを、お館様から」
「それなら、どうして今まで」
「しばらくは、人を近づけるなとの仰せでございます。新九郎様も館を離れる御用が重なり、お見舞いは待っていただいておりました」
槙は帯の端を取り、紗季が体を少し浮かすのを待ってから背へ回した。
「今朝、お戻りになって、もう待たぬと」
会うのが怖い、と言いかけた。
しかし、その言葉を槙へ預ければ、会わずに済む道を探してくれるかもしれない。帰蝶を心配して来た兄を、自分が知らない人だからと追い返す。それを望んでいるのか、紗季には決められなかった。
「昔のことを聞かれても、分からない」
「分からぬことを、覚えているとは仰せになりませぬよう」
槙の答えは静かだった。
紗季は帯の結び目を手で確かめた。さっきまで清十郎へ向けていた不満は、もう同じ形では残っていない。
机に座っていれば済む一日だと、どうして思ったのだろう。
午後、小見の方の部屋へ向かうと、庭側の戸が大きく開いていた。
自分の部屋から渡り廊下を通り、一つ角を曲がった先にある部屋だ。北の壁際に小見の方の座、その前に客のための畳が一枚置かれている。庭へ面する西側は空け、紗季の座は母の右手、客の正面から少し外れた位置に用意されていた。
小見の方のそばで二人を迎えればよい、と槙から聞いている。紗季は部屋へ入り、まだ人のいない客の畳を横切らず、母の側へ回った。
「お顔が赤いこと。朝は、よう動けましたか」
「はい。少しだけ、剣も持たせていただきました」
「少し、でよかったのでしょう」
言い当てられたようで、紗季は笑ってごまかした。
小見の方も笑ったが、間もなく庭へ目を向ける。膝に置いた手の上で、親指がもう片方の指を撫でている。自分だけが落ち着かないのではないと気づくと、何を話せばいいのか、かえって分からなくなった。
お梅が縁際の敷物を直し、槙は入口寄りへ下がる。
風が庭の葉を鳴らすたび、紗季には廊下の足音に聞こえた。
「新九郎様、おいでにございます」
取次の声に、小見の方の指が止まった。
入ってきた男は、思ったより若い。
肩幅があり、目元には利政と似たところがあるものの、頬の輪郭はまだ柔らかかった。濃い茶の衣を身につけ、供の男を廊下へ残して膝をつく。その動作の間も、視線は紗季から離れない。
「帰蝶」
呼ばれた紗季は、教えられた挨拶を思い出そうとした。
お越しくださり、と言えばよいのか。身内にそれは他人行儀すぎるのか。迷ううちに、新九郎が畳へ置いた手の指が、ゆっくり開かれていくのが見えた。
「……顔を、上げておれ」
まだ頭を下げてもいないのに、そう言った。
新九郎は自分でも気づいたらしく、目を閉じ、鼻から長く息を吐く。
「すまぬ。何から言えばよいか」
紗季の考えていた挨拶も、その一言でどこかへ消えてしまった。
「兄上、様」
呼んでから、小見の方を見そうになった。合っているかどうかを、確かめたくなる。
新九郎は、困ったように笑った。
「兄上だけでよい。様を重ねられると、遠くへ座らねばならぬ気がする」
「……兄上」
「うむ」
それだけの返事をして、新九郎は自分の座へ落ち着いた。
湯を運んできたお梅が、入口で膝をついた。
槙が器を受け取って客の前へ進め、その間、小見の方が新九郎へ道中の様子を尋ねる。昨夜のうちに戻るつもりが、連れていた者の馬の具合で遅れたという。
「一人で先へ戻ればよいのにと、叱られました」
「お館様に?」
「ええ。知らせを先に出せば、夜まで待たせずに済んだと」
「それは、そうでしょう」
小見の方の返事に、新九郎は片方の眉を上げた。
「こちらでも、同じことを」
紗季はつい笑ってしまい、慌てて口元を押さえた。兄はそれを見て、今度は自分も笑う。
「お前まで笑うか」
「申し訳ございませぬ」
「よい。笑ってくれ」
最後だけ声が低くなった。
紗季の口元から手が離れる。新九郎は湯の器を持ち上げたが、すぐには飲まず、立ち上る薄い湯気を眺めていた。
「会いに来るのが遅くなって、すまぬ」
「お忙しかったと、伺いました」
「それもある」
その言い方が気になったけれど、紗季は次の言葉が出るまで待った。
「父上から、人を入れるなと言われた折には、それに従うのがよいと思うた。あれこれ尋ねる者が増えても、疲れるであろうと」
新九郎の視線が、部屋の隅から紗季へ戻ってくる。
「顔を見るまで、どう思えばよいか分からなんだ、というのもある」
小見の方は口を挟まなかった。
紗季には、この人を安心させる答えが分からない。兄が見ている顔は、自分の顔であり、この人の妹の顔でもある。そのどちらかだけを見せることなど、できるだろうか。
「今も、覚えていないことが、たくさんあります」
「父上から聞いた」
「兄上と、前に何をお話ししたかも」
そこまで言うと、新九郎は湯を一口飲み、器を畳へ置いた。
「ならば、今日話したことから覚えればよい」
簡単なことのように言われ、紗季は返事を忘れた。
「昔のことを一つ答えられぬたび、皆に詫びておるのか」
「皆に、では……」
「俺には要らぬ」
小見の方の膝の上で、重なっていた手がほどけた。
紗季はそこへ目を落とし、それから兄の顔を見る。眉の形を確かめるように見ても、今度は問い詰められなかった。
新九郎が持ってきた包みの中には、扇が入っていた。
竹の骨に紙を張った、飾りの少ないものだったが、開くと薄い色で描かれた草が現れる。葉の間に小さな虫が一匹いて、紗季は思わず顔を近づけた。
「これは、何の虫でしょう」
「俺に聞くな」
「兄上がお持ちくださったのでしょう」
「選んだのは、俺ではない」
言ってから、新九郎は小見の方へ目をやった。
「近江からです。暑くなる前に、と。あれも、会いたがっております」
近江の方。兄の妻だと、槙から名を聞いたことがある。
紗季はもう一度、扇の絵を見た。華やかな花や金色の飾りではなく、草の中の虫を見つける余地のある絵だった。どんな人が、これを選んだのだろう。
「お礼を、申し上げたいです」
「そのように伝えよう」
「私から、文を書いても」
新九郎は小見の方へ向けていた顔を戻した。
「文を?」
「今、習っておりますので。あまり上手ではありませんが」
「読めればよい」
「読めぬ字も、ございますからね」
小見の方が言い添えたので、紗季は扇を少し持ち上げて顔を隠した。
「母上」
「だから、よく見て書くのでしょう」
新九郎が笑った。声を立てて笑うと、父に似ていると思っていた顔が、もっと若く見える。
「では、俺にも書け。読めぬところは、次に来た時に尋ねる」
紗季は扇を下げた。
「それでは、きっと何度もおいでいただくことに」
「そうならぬよう、励め」
堅い言い方をしておきながら、新九郎の目は笑っている。
紗季にもようやく、冗談なのだと分かった。
話が朝の稽古に及ぶと、新九郎は弥四郎の名を確かめた。
「河瀬が見ておるのか」
「はい」
「父上がお許しになるとはな」
「まむしの娘が、このくらいできねばと、申し上げました」
言った途端、小見の方が紗季を見る。聞かせてよい話だったかと迷ったが、新九郎は湯の器へ伸ばしかけた手を引っ込め、膝を叩いた。
「父上の前で、それを?」
「笑って、お許しくださいました」
「それは、負けたな」
「誰が、でございますか」
「父上が」
紗季は、利政が笑った時の声を思い出した。
新九郎の言葉には、父を嫌っているような響きがない。どこか得意げで、父の機嫌のよい時を知っている人の話し方だった。
この人が、父上と戦う。
知っているはずのことが、たった今、信じがたいことに変わり、紗季は扇の骨へ指を沿わせた。
その手元を見て、新九郎が問いかける。
「どうした」
「……父上も、兄上も、よく笑われるのですね」
それしか言えなかった。
「俺は笑わぬと思うていたのか」
「少し」
「誰が、そのようなことを」
問いかけながら、新九郎は部屋の入口へ目を向けた。槙は澄ました顔で控え、お梅は湯を注ぎ足す器の方へ目を落とす。
「誰も。私が、勝手に」
紗季が答えると、兄は何か納得できない様子で鼻の脇を掻いた。
「口を開けば父上の用ばかりしておると、近江にも言われる。お前には、その話はやめておこう」
「用のお話でも、伺いたいです」
「聞いて面白いものではないぞ」
「今日、何をなさったかくらいなら」
尋ねてみると、新九郎は少し考え、預かってきた訴えを父へ取り次いだ話をした。
二人の者の言い分を聞けば、どちらも困っている。だから一方だけを叱って済ませられず、詳しい話を聞き直すことになったらしい。
「最初から、両方を連れて来ればよかったのですね」
「父上にも、そう言われた」
同じ答えが返ってきて、紗季はまた笑ったが、新九郎は笑う前に、器の縁へ指を掛け直していた。
「話は、こちらの欲しい順には出てこぬ。言いにくいことほど、帰り際に申す」
「それで、長くなったのですか」
「うむ。いっそ初めからそこを言え、と言いたくもなる」
「言われたのですか」
「……言いかけた」
新九郎が紗季を見る。顔を見合わせているうち、二人とも黙っているのがおかしくなった。
小見の方が、湯が冷めますよ、と間へ声を差し入れる。紗季は自分の器へ手を添え、その温かさがもうわずかになっていることに気づいた。
「兄上、お聞きしたい事がございます」
「なんだ? 申してみよ」
「あの……、父上を殺したいと思った事はございますか?」
新九郎は、目を見開き帰蝶を見つめる。
「何を言っているのだ? 父上を殺すだと? 某がか?」
「はい」
「何を言っておる。某が父を害するなど……」
「申し訳ございません」
「戯れ事は、ほどほどにいたせ」
言葉にならずに軽く頭を下げた時、廊下の供が、控えめに名を呼んだ。
新九郎は戸の方へ頷き、小見の方へ暇を告げる。立ち上がると、座っていた時よりずっと大きな人だった。
紗季も見送ろうと膝を動かしたが、母がまだ座っているのを見て、先に顔を向ける。
「お送りしても、よろしゅうございますか」
「槙と一緒に、お行きなさい」
許しを受けてから立ち、扇はお梅へ預けた。
廊下には庭からの光が斜めに入り、柱の影を跨ぐたびに、足元の色が変わる。新九郎は先へ行きかけた供を手で待たせ、紗季が追いつくまで歩を緩めてくれた。
「疲れたであろう」
「いいえ。もっと、お話ししたかったです」
口にしてから、紗季は自分で驚いた。
会う前には、何を聞かれても答えられないと思っていたのに。別れ際になって、まだ聞いていないことがいくつもある。好きな食べ物も、普段いる部屋も、何をしている時が楽しいのかも。
新九郎は、廊下の角で立ち止まった。
「では、また来る」
「近江の方様にも、お礼をお伝えください。文は、別に書きます」
「待つように言うておこう」
紗季は頷き、もう一つだけ、と引き留めた。
「私にくださる文は、少し、読みやすく書いていただけますか」
新九郎の後ろで、供の男が咳払いをした。笑ったのを隠したように聞こえたが、顔を見た時には、もう俯いている。
「誰に頼まれた」
「誰にも」
「近江にも、そう言われる」
紗季が返事に困っていると、新九郎は自分から笑った。
「承知した。俺も、よく見て書こう」
部屋の中で母が言った言葉を返され、紗季は笑いながら頭を下げた。
顔を上げると、表へ続く廊下を曲がっていく兄の背が見える。
部屋へ戻る途中、紗季は庭との境に立つ清十郎を見つけた。
作兵衛はすぐそばで、戸口から出てきた者の報告を聞いている。紗季が足を止めると、清十郎は近寄らずにこちらへ体を向けた。
朝の会話が、まだ途中のまま残っていた。
「篠原様」
「はい」
「朝は、先に怒ってしまいました」
槙が一歩後ろで止まる。紗季は廊下から庭を見下ろす形になっているのが落ち着かず、柱の脇へ膝をついた。
「文も習います。でも、剣も続けたいです」
清十郎は一度、作兵衛を見た。その仕草を、今は煩わしいとは思わない。彼が勝手に判断しないために、決められていることだ。
「どちらかを、捨てよと申すつもりでは」
「では、どういうおつもりでしたか」
今度は最後まで聞こうと思った。
清十郎は言いかけて、唇を結び直した。
「姫様には、ほかにお覚えになることが多うございます。御身を守る務めは、俺たちが」
「それは、分かっています」
言葉を挟んでしまい、紗季は口を閉じた。分かっている、と言うのも早すぎたかもしれない。
清十郎の言葉には、まだ続きがあるようだった。
「……今日は、お疲れでしょう。また」
引かれてしまうと、それも少し悔しい。
けれど、ここで相手の袖を掴むわけにはいかず、紗季は次に話すための言葉を探した。
「それでは、次の時に。私も、どうして続けたいのか、考えておきます」
清十郎は顔を上げた。
「承知いたしました」
納得し合えたわけではない。だが、今朝のように背を向けて終わらずに済んだことで、紗季はようやく立つことができた。
自室には、お梅が持ち帰った扇が置かれていた。
机の脇で開いてみると、描かれた虫は、葉の陰からこちらを窺っているようにも見える。朝の稽古で熱くなった顔を扇ぐには惜しく、紗季はしばらく膝の上で眺めていた。
「新九郎様は、お優しゅうございましたね」
お梅が言った。
「うん」
「またおいでになると」
「約束、してくださったよ」
答えながら、紗季は扇をゆっくり閉じた。
兄の笑った顔を思い浮かべても、今はその先の歴史を考えずにいたい。そう思うことまで、誰かに許してもらう必要はないはずだ。
お梅が机の上を片づけ、書きかけの手習いを脇へ移す。紗季はそこへ紙を一枚出した。
「近江の方様へのお礼ですか」
「その前に、兄上へ。一つ、聞き忘れたから」
筆を取ったものの、どこから書き出すかは、まだ迷う。今日は来てくれて嬉しかった。それは、初めに書いておきたい。
紗季は硯の縁で穂を整え、紙へ近づけた。
「何を、お尋ねに?」
「次においでになる時、何を召し上がりたいか」
お梅は少し考え込んだ。
「槙様に伺えば、お好みは分かるかと」
「うん。でも、兄上に聞いてみる」
今度会う日のことを考えながら、紗季は最初の一行を書き始めた。




