十五話 言い残した事
おきぬの仕立てた青い小袖を着た朝、紗季は袖を広げたまま、しばらく動かなかった。
肩から手首へ落ちる布には、まだ畳まれていた筋が残っている。腕を下ろせば、その筋は柔らかな皺に紛れ、帯の上へ少し引き出してもらった身頃も、体をひねると一緒についてきた。誰かの衣を借りている時とは、脇の収まり方が違う。
「どうでしょう」
お梅に尋ねられ、紗季はもう一度両腕を上げてみた。
「動きやすい。ここ、余らないんだね」
「母が、そこを何度も測り直しておりましたから」
お梅は袖の縫い目を指で確かめてから、ついでのように自分の襟も撫でた。母の仕事を褒められると、自分まで身なりを整えたくなるらしい。
似合うかどうかを聞くより先に腕を動かしてしまったことに気づき、紗季は少し照れた。それでも、この衣で庭へ出るのが楽しみだったし、小見の方にも、早く見せたい。
ところが、戸を開けたお梅が外を見て、小さく息をついた。
「また、降ってまいりました」
軒の端に水が集まり、庭石を一つずつ濡らしていく。昨日まで葉の陰にあった土のくぼみは、今朝、浅い水たまりになっていた。そこへ落ちた雫が、映っている枝を幾度も崩す。
新九郎が訪ねてきた日から半月ほどが過ぎ、暦は五月に入っている。庭の緑はすっかり濃くなったものの、このところは山の上まで見通せる日が少ない。
兄へ出した文には、五日後に返事が届いた。食べたいものを尋ねた紗季へ、特別な膳は要らぬ、お前の食べているものを一緒に食おう、とある。初めは少しがっかりしたが、その下の一行を槙に読んでもらうと、すぐに読み返したくなった。
次には、もう少し長く居られるようにする。
字の大きさが途中から変わっていた。丁寧に書こうとして、終わりに近づくほどいつもの手に戻ったのかもしれない。そんなところまで、会ったばかりの兄らしく思えるのが不思議だった。
扇への礼を書いた近江の方からも、短い返書をもらっている。会う折にはその扇を持ってきてほしい、自分も同じ絵師のものを持っているから並べてみよう、とあった。まだ顔を知らない人なのに、二つの扇を膝の前へ広げる日のことなら、紗季にも思い浮かべられる。
二通とも、机の脇の箱へ納めてある。雨で予定がなくなる日にも、あの二通を読めば、待つ楽しみまでなくなりはしない。
「今日は、先生がおいでになるんだよね」
「河瀬様は、朝のうちならと」
「それなら、支度しよう」
紗季が帯へ手を掛けると、お梅は目を丸くした。
「もう、お着替えですか」
「これで稽古をしたら、槙に叱られる」
「母も、泣くかと」
「そんなに?」
お梅の顔を見ると、真面目なまま口元だけが緩んでいた。紗季も笑い、新しい小袖の袖口をそっと抜く。
あとで母上へ見せに行こう。そのつもりで畳まれていく青を見てから、いつもの衣へ腕を通した。
廊下を裏手へ進むにつれ、雨音に別の音が混じり始めた。
桶を運ぶ足音、戸の溝を擦る音。薪小屋の前では、男が軒からはみ出した薪を内へ積み直している。庭を横切る近道は使えず、お梅と紗季は建物沿いに回って、稽古に使う細長い棟の前へ出た。
深い軒の下なら乾いていると思ったのに、柱の根元まで濡れていた。横から吹き込んだ雨が、板敷きの端にも細かな粒を散らしている。
弥四郎は戸口にしゃがみ、掌で板を撫でていたところだった。
「姫様。今日は、奥だけ使いましょう」
立ち上がり、後ろへ避けてある筵を示す。普段は道具を置く側の一角に、人が二、三歩動けるだけの場所が空いている。
「振り回すほどの広さはございませぬ。足を運ぶ向きと、構えを直すところまで」
「それでも、お願いいたします」
この半月、晴れた朝には少しずつ稽古の時間が延びていた。教わった足運びを翌日まで覚えていることも増え、体を動かした後なら、手習いの途中で外へ目をやる回数も少なくなる。何日も続けて休むのは、ようやく覚えた手順をほどいてしまうようで惜しい。
お梅が裾を留める紐を取り出す間、紗季は戸口の乾いたところで履物を脱ごうとした。
「お待ちを」
声は、斜め後ろからだった。
渡りの廊下の端に作兵衛がおり、その横の庭に清十郎が立っている。雨除けのため肩へ掛けていた物を外したところらしく、足元へ雫が落ちていた。
「下が濡れております」
「奥は乾いていると、先生が」
紗季が答えている間にも、弥四郎は道具を壁へ寄せ、動ける幅を確かめていた。清十郎はその手元を見たものの、すぐには頷かない。
「そこまでして、今日なさらずとも」
その言い方に、履物へ伸ばしかけていた手が止まった。
また、その話だ。
前に話すと約束したことは覚えている。けれど、稽古場に立つたび、始める前から否定されると、考えておいた言葉ほど取り出しにくい。
「今日は無理だと、河瀬様が仰せなら帰ります」
「ならば、そう申し上げるべきでは」
清十郎の視線が弥四郎へ移る。名を出されて先生を巻き込んだのは自分なのに、紗季には、自分の話が頭の上を通り過ぎたように感じられた。
弥四郎は木剣を壁際へ戻したものの、二人のどちらへ話しかけるべきか、決めかねている。
「振らせるとは申しておらぬ。今しがた、その話をしたところだ」
「ですが、姫様は剣を持てば、また先を望まれます」
「篠原」
作兵衛が声を掛けた。清十郎は一度口を閉じた。ところが、紗季へ向き直った顔には、もう言葉を選ぶためらいが見えない。
「この先も続けて、何となさるおつもりですか」
「上手くなりたいです」
「戦へ出られるのでもありますまい」
「出ません」
「でしたら、おやめになって、姫様らしく――」
「姫様らしく、何ですか」
自分の声の強さにも、今は驚いていられない。
「座って、文を書いて、言われたとおりに笑っていればよいのですか」
お梅の手から、紐の端が垂れた。紗季は見えていたのに、それを受け取ることもできない。清十郎が言い直そうと口を開くのが、今は何より腹立たしかった。
「そのようなことは」
「では、どうすれば姫らしいのか、仰ってください」
雨が強まり、庭の向こうの薪小屋が白く煙る。軒の下へ寄ろうとした男は、こちらの様子に気づくと、薪を抱えたまま別の戸口へ回っていった。
誰かに聞かれている。それは分かる。
それでも、ここで声を落としたら、また後日に回される気がした。そうしている間に、稽古は一日ずつなくなってしまうのではないか。
「剣を持たなければ、それでよいのですか」
「御身を危うくされずに済むと、申し上げております」
「先生が見てくださいます。お梅も、作兵衛様もいます。それでも、私だけ何もしてはいけないのですか」
「すべてを止めてはおりませぬ」
「私がしたいことを、止めておられるでしょう」
清十郎の頬が硬くなった。
彼が怒った顔をするとは、思っていなかったのかもしれない。これまで自分の前で頭を下げることの多かった人が、視線を逸らさずにいる。そのことにひるんだ分だけ、紗季の言葉も尖っていく。
「守るためだと仰れば、何を決めてもよいのですか」
「俺たちが間に合わぬこともあります」
「だから、自分でも」
「半端に覚えた剣を頼りにされる方が、危ういのです」
途中まで出かけていた返事が、そこでつかえた。
何年も通った。できなくて悔しかったことも、前よりできるようになって嬉しかったこともある。それをこの人に、一つずつ数えて聞かせる必要はないはずだ。それなのに、何も知られていないまま切り捨てられた気がして、目の奥が熱くなる。
「篠原様には、頼んでいません」
言った瞬間、清十郎の口元が動かなくなった。
紗季の隣で、お梅が紐を握り直す。細い布が指の間からほとんど見えなくなっていた。
「もう、こちらを見ていなくて結構です」
「姫様」
今度呼んだのは、弥四郎だった。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
その声は大きくなかったが、紗季にも聞き違えようがない。
「まだ、始めても」
「そのお気持ちでは、足も手も見られませぬ」
弥四郎は、さきほど空けた場所へ筵を引き戻した。紗季のために動かしたものが元へ戻されていくのを、ただ見ているほかなかった。
清十郎が何か言おうとする。その前へ、作兵衛が片手を出した。
「お前の望みが通ったのではない。控えへ戻るぞ」
清十郎が顔を背けるのを見て、紗季はお梅から紐を受け取り、袖へ押し込んだ。結ぶはずだったものが、握った手の中で邪魔になる。
礼を忘れていると気づいたのは、戸口に背を向けた後のことだったが、振り返って頭を下げても、弥四郎の目を見られなかった。
自室へ戻ると、衣桁に掛けた青い小袖が目に入る。
着て見せるつもりだったのだ、とぼんやり思う。今朝あれほど嬉しかった色が、薄暗い室内では遠く感じられ、紗季は着替えを勧められる前に机のそばへ座り込んだ。
槙はお梅から話を聞くと、まず昼の膳を遅らせないようにと言いつけた。それから紗季の前へ回ったが、すぐに叱りはしない。
「河瀬様を、お困らせになりましたね」
「……うん」
「次にお会いした折、お詫びを」
それには頷けた。
清十郎にも、と続くのを待っていると、槙は机の隅に置かれた扇を箱の上へ移し、膳の場所を空け始めた。紗季はその横顔へ、言われてもいない返事をぶつけそうになる。
私だけが悪いんじゃない。
しかし、口にするには子供っぽすぎると分かっていて、唇を結んだまま、袖から紐を引き抜いた。
結局、母へ衣を見せに行くのは午後からに延ばした。小見の方には槙が伝え、昼の膳は、お梅が一人で運んでくれる。
飯と、葉菜の入った汁、味噌を添えた煮物。蓋を取れば湯気が立つのに、箸を持っても、食べ始める気にならなかった。
「お梅は、稽古、嫌?」
唐突な問いに、お梅は空の盆を持ったまま動けずにいる。
「私でございますか」
「ついて来てもらわなきゃいけないし、雨だと、余計に仕事になるでしょう」
お梅は盆を脇へ置き、戸口寄りに座り直した。いつもなら膳を置けば次の用へ行くのに、今日は立ったまま返事をしない。
「雨の日は、着る物がなかなか乾きませぬ」
「うん」
「泥も、乾く前に落としとうございます。ですから、庭へは下りないでいただけると助かります」
その答えに、紗季はようやくお梅の裾を見た。廊下を歩いてきただけのつもりだったが、縁の方へ水が跳ね、少し濃い色になっている。
「でも、私がお支度をするのが嫌だから、おやめになってほしいとは、思っておりませぬ」
「……本当に?」
「終わった後、姫様はよくお召し上がりになりますし」
お梅の目が膳へ向いたので、紗季は箸を持ち直した。見張られている気がして、煮物を一つ口へ入れる。中まで温かく、噛むと、思っていたより空腹だったことが分かった。
「篠原様には、怒ってる」
「はい」
「だけど、見ていなくていいっていうのは、言いすぎた」
お梅は目を伏せ、返事をためらっている。うなずいてほしくて言ったけれど、それで困るのはこの子だ。
「ごめんね。お梅に困られても、どうしようもないよね」
「困っては、おります」
遠慮がちな言葉でも、意味を取り違えようがない。
「お二人とも、私がいることをお忘れのようで」
紗季は箸先を止めた。あの時、お梅はどんな顔をしていただろう。巻き込まれた先生の顔なら思い出せるのに、すぐ隣にいた友達を、紐を持つ手としてしか見ていなかった気がする。
「忘れてた。ごめん」
「次には、もう少し小さなお声でお願いいたします」
「次も喧嘩すると思ってる?」
お梅は答えず、汁の椀を少し手前へ寄せた。その口元を見るうち、紗季にも小さな笑いが漏れた。ただ、これで朝のことを済ませるわけにはいかない。
午後に小見の方を訪ねると、母は青い小袖を褒め、それから襟元の布を少し引いて直してくれた。
人の前で座る時には、膝へ手を置く前に、袖の落ちる先を確かめること。紗季は言われたとおりに座り直し、おきぬへの褒美をどう届けるかという話を聞いていた。母の前では、朝のことを自分から話せない。
顔色を見て何か察したのか、小見の方も、長く引き留めはしなかった。
部屋へ戻ってから、紗季は兄の文を箱から出した。次は長く居られるようにするという行を見つけ、そのまま紙の上へ目を留める。
兄上なら、何と言うだろう。
味方になってほしいと思ったところで、紙を伏せた。清十郎に勝つために兄を呼んでしまったら、あの人は今度こそ、何も言わなくなるかもしれない。それは、望んでいることと違う。
剣を続けたい理由を考えておく、と言ったのは自分だった。
勝ちたいのか。強くなりたいのか。
それもある。ただ、誰にも勝てなかった日にも、道場へ行きたい気持ちはなくならなかった。昨日教わった動きが急につながり、体がそれを覚えたと感じる時が好きだったし、できたと思ったことを先生に直されるのは、悔しくても面白かった。
母に月謝を払ってもらっていたから、という理由だけではない。母が喜ぶから続けていたのでもなかった。
私が、したかった。
そんな単純なことを言うのが、ここではどうして難しいのだろう。
紗季は机へ向かった。清十郎の顔を前にすれば、また、相手の言葉の一つに腹を立ててしまう気がする。けれど今なら、途中で遮られることなく、自分の考えを並べられそうだった。
初めに書いたのは、稽古をやめるつもりはない、という一文だった。続いて、父上のお許しはいただいている、と添える。二行を読み返すと、自分が清十郎の口を塞ごうとしているのが分かり、紗季は筆を置いた。
これを読んだら、あの人は、承知いたしました、としか返せない。
書き損じを裏返し、もう少し小さな字で書き直す。自分で読める字を選べば、飾りのある言い回しはほとんど出てこなかった。
稽古をして、できなかったことができるようになるのが、嬉しいのです。
ここで止められれば、悲しいのです。
朝は、見ていなくてよいなどと申しました。あの言葉は、取り消させてください。
最後まで書いてから、紗季は長い間、手を膝の上へ置いていた。
悲しい、では子供すぎるだろうか。心配してくれる相手へ、自分の楽しみばかりを並べた文に見えないだろうか。
それでも、別の言葉を置くと、自分が本当に言いたかったことから離れてしまう。そこで言い換えるのをやめ、明日、作兵衛のいるところで話をしたい、と結んだ。
槙が戻ってきた時、墨はもう乾いていた。
「篠原様へ、お渡ししたいの」
差し出すと、槙は宛名を確かめ、すぐには受け取らない。
「御返事を、お求めになりますか」
「文の返事は、要りません。話ができるか、聞いてもらいたい」
「では、そのように」
槙は本文に目を通してから折りを確かめ、作兵衛へ託すと告げた。二人きりで会わせてほしいという頼みではないと分かっているのに、文を持って立つ背を見送る間、紗季は妙に落ち着かなかった。
まだ怒っているだろうか。
怒っていても、来てくれるだろうか。
庭を眺めても、返事のある方角は分からない。夕餉の支度が始まり、廊下へ灯が運ばれてきてから、ようやく槙が戻った。
「明日の朝、表寄りの控えでお待ちするとのことです」
はい、と返してから手元を見ると、青い袖を握ったままだと気づいた。大事な新しい衣なのに、細かな皺が寄っている。
翌朝、控えへ近づくと、庭へ向けて半分開けた戸から、待っている二人が見えた。作兵衛のそばで、清十郎は膝に手を置き、背を伸ばしている。
夜のうちに雨は弱まっていたが、庇の先からはまだ水が落ちる。紗季は槙に続いて部屋へ入り、奥へ進む前に作兵衛の案内を待った。
部屋の北側に敷いた畳へ紗季が座り、清十郎は入口近くに膝をついている。その横の板敷きに作兵衛、紗季の後ろには槙が控えた。お梅は戸の外で待っているため、二人の間の声は低くても届く。
清十郎が持っていた文は、折り目を揃えて膝の脇へ置かれていた。
来るまで何度も考えた言葉なのに、顔を見ると順序が怪しくなる。紗季は一つ目だけを確かめ、先に口を開いた。
「昨日は、篠原様のお務めまで、要らないと言うようなことを申しました。申し訳ありません」
頭を下げると、衣の擦れる音が向かいでもした。
「俺も、言葉が過ぎました」
顔を上げた清十郎は、少し目元が重い。彼も昨夜は、この話を考えていたのだろうか。尋ねる前に、紗季の文へ手が伸びた。
「拝読いたしました」
「上手く、書けませんでしたが」
「分かりました。何がお好きなのかは」
清十郎はそこで言葉を切ったが、何もかも了承したという表情ではない。
そこで紗季は、膝の上で両手をゆっくり重ねた。昨日のように、続く言葉を自分で決めて怒るのはやめよう。
「ただ、お好きであればあるほど、先へ出られるのではと」
「稽古で、ですか」
「本当に危うい折に。俺たちが退いていただきたい時、剣を使えるからと、お残りになっては」
紗季は、すぐには返せなかった。
戦へ出たいのではない。その答えなら昨日も言った。だが、逃げるべき場面で、自分は必ず逃げるだろうか。誰かが残っていたら、助けようとして戻るかもしれない。できると分かっていることと、できるはずだと思い込むことは、動く直前には似ている気がした。
「逃げる稽古も、教わります」
「……逃げる」
「剣で勝つことだけを、習うつもりはありません。河瀬様にも、そうお願いします」
清十郎は作兵衛へ目をやった。作兵衛は黙ったままで、代わりの返事をしない。
「けれど、それと、姫らしくというのは、別のお話です」
紗季が続けると、清十郎の視線が戻った。
「危ないところを仰ってくださるのは、聞きます。でも、私に似合わないから、やめろと言われるのは、嫌です」
今度は声を張らずに言えた。昨日より強く相手へ伝わったかどうかは分からないが、言い終えた後も、自分の言葉を取り消したいとは思わない。
「……そのように、お聞こえになりましたか」
「そういう意味では、なかったのですか」
清十郎は口を開きかけ、膝の上の手を見た。爪の際に小さく土が残っている。朝も何か仕事をしてから、ここへ来たのだろう。
「そういう気持ちが、なかったとは申せませぬ」
認められると、紗季の方が言葉に困った。
「姫様があちらに立たれることを、俺は、初めから余計なことと見ておりました」
「どうして」
「俺の思う姫様のお姿に、なかったからです」
彼は文をもう一度見下ろした。折り目の角を押さえた指が、なかなか離れない。
「昨日はお止めできれば、それで安んじるつもりでおりました。姫様が何を失くされるかは、考えておりませなんだ」
その声からは、紗季に許してほしいという急ぎ方が感じられなかった。言いにくいことを、ようやく自分で見つけて口にしているようで、紗季も途中へ言葉を差し込めない。
ひとしきり黙っている間、戸の外でお梅が身じろぎした。
「私も、ちゃんと話す前に、篠原様なら分かってくださると思っていました」
まだ言葉を探している清十郎へ、紗季も考えていたことを伝えた。なぜ、あれほど腹が立ったのか。稽古を止められたことだけが、理由ではない。
「分かってもらえるようには、話していないのに」
「俺なら、と?」
聞き返され、少し頬が熱くなった。
「剣を使われるからです。上手くなりたい気持ちは、御存じかと」
清十郎は答えずに顔を上げる。何かが違うという表情でも、呆れた顔でもない。ただまっすぐ見られると、紗季は続きを言いにくくなり、重ねていた手を離した。
「篠原様は、初めからお上手だったのですか」
「まさか」
あまりに即座の返事で、取り繕ったようには聞こえない。
「同じことを何度も言われました。直したつもりでも、次には元へ戻っておりましたから」
「今の私と、一緒ですね」
紗季が言うと、清十郎の眉の間が緩んだ。それだけの変化が嬉しい。昨日、分からなくなってしまった相手と、同じものを思い浮かべている気がする。
作兵衛が、そこでようやく口を開いた。
「河瀬に、今の話を伝えよう。稽古の中身を決めるのは、あの者だ」
「私からも、お願いしてよろしいですか」
「もちろん。ただし、今日はあの者の都合を聞いてからになります」
紗季は頷き、揃えていた膝を少し緩めた。昨日の分まで取り戻したい気持ちはある。それでも、まず先生の都合を聞くという順序を、急いで飛ばす必要はない。
弥四郎に会えたのは、その日の午後だった。
雨がやみ、濡れた庭には枝から落ちる雫だけが残っている。紗季はお梅を伴って稽古場へ向かい、作兵衛と清十郎のいる前で、昨日のことを詫びた。
弥四郎は話を聞き終えると、逃げるための足運びも教えるが、勝手に試し合いはしないように、と念を押した。清十郎も、自分から稽古を止めさせる言い方をしたことを詫びる。先生の役目まで奪いかけたと分かっている口ぶりだった。
「雨の日は、こちらへ来る前に使いを寄越してください。床を見て、できることがあれば伝えます」
その取り決めに、紗季は異存がなかった。お梅も、衣を着せてからまた脱がせずに済むと、少し肩を落ち着ける。
今日は木剣を持たず、相手との間を空ける時の足を確かめることになった。
弥四郎が一歩近づく。紗季は後ろへ下がりすぎて、次の一歩を出す余地をなくした。止められ、元の場所へ戻る間、戸口に立つ清十郎の方を見そうになる。
まだ、気になっている。
昨日、自分へ向けられた顔だけでなく、今朝、まさか、と返した時の声も。
「姫様。後ろを見るのは、下がる前です」
弥四郎に言われ、紗季は今度こそ、空いている場所を確かめた。
稽古が終わると、お梅は乾いた布を渡してから、槙に頼まれていた空の桶を取りに走った。紗季が軒下で待っているところへ、清十郎が作兵衛と連れ立って近づく。
「お疲れでございましょう」
「今日は、脚が」
答えて笑うと、清十郎も庭の足跡を見て、少し口元を和らげた。
「お文は、お返しいたしましょうか」
急に尋ねられると、どちらがよいのか決められない。紗季は手に持っていた布を畳み直した。
自分の手元へ戻れば、あそこは違う言い方にすればよかったと、いつまでも読み返すかもしれない。けれど、返してもらうために渡したのではなかった。
「篠原様へ書きましたから」
「では、お預かりいたします」
清十郎が頭を下げる。その返事を聞いた途端、あの文が自室の箱には戻ってこないことを、紗季は初めてはっきりと意識した。
もう一度何か言いたくなったが、お梅の呼ぶ声がして、廊下の方へ顔を向けた。
桶を抱えたお梅が、濡れたところを避けながら歩いてくる。紗季は受け取っていた布を腕へ掛け、戸口を空けた。
「そっち、まだ滑るよ。こっちから」
呼びかけると、お梅は足元を見直して、二歩だけ遠回りをした。桶の底が柱に触れないよう、紗季も手を添える。
その向こうで、清十郎と作兵衛が、庭の水の引かない場所を確かめていた。




