十六話 扇を並べて
約束の扇を箱から出すと、草の葉に隠れていた小さな虫が、折り目の向こうから現れる。
開ききらない方が、見つけやすいらしい。紗季は顔へ寄せたり離したりして、前には気づかなかった細い脚を目で追う。朝から何度も同じところを見ているのに、まだ、来客の足音はしない。
「それほどお使いになれば、お着きになる前に傷んでしまいますよ」
槙に言われ、紗季は扇を閉じる。
「使ってない。見てるだけ」
「では、少しお休ませなさいませ」
子供を寝かせるような言い方が可笑しくて、紗季は扇を膝へ戻す。
五月も下旬になると、昼の部屋には風の通り道が欲しくなった。庭側の戸だけを開けても、湿った空気は奥に残る。そこで槙が廊下に面した戸を少し引くと、机に置いた手本の端が持ち上がり、ようやく首元まで涼しさが届く。
清十郎と話し合った朝から、三週間ほど経っている。
稽古は晴れた朝を選んで続け、昼には手習いか、小見の方の部屋で人を迎える際の振る舞いを習う。間違えなくなったところもあれば、急に声を掛けられると、覚えたことが飛んでしまうところもある。それでも、教わる間じゅう自分の手足を見張っている必要は、少しずつなくなってきた。
今日は、近江の方が来る。
兄の妻という続柄も、返書の柔らかな言葉も知っている。しかし、声や笑い方は知らないし、こちらが黙り込んだ時に待ってくれる人なのかも分からない。
そのため昨夜は、挨拶の後に何を話せばよいか、幾つも考えていた。扇の絵の話。それから、近江の景色の話。何か尋ねてばかりになったら、自分の話もするつもりだったのに、今になると、順序しか思い出せなかった。
「お兄様も、ご一緒なのよね」
「先に表で御用を済まされてから、こちらへお越しになるそうです」
槙が答え、衣の背の皺を伸ばしてくれる。その手を感じながら、紗季は膝の位置を直した。
前の文では、一緒に普段の食事をしようと言ってくれた。ところが台所へ伝える段になると、普段どおりでは足りない気がして、魚をもう一品、と頼みかけている。槙に兄の返事を思い出させられなければ、どこまで増やしていたか分からない。
お梅が戸口へ顔を出したのは、紗季が扇をまた開きそうになった時だった。
「お着きにございます」
立ち上がると、今度は帯の上へ扇を差そうとして止まった。手に持って行こうと決めておいたのに、どうして、今さら迷うのだろう。
槙は何も言わず、小さく頷いて先に立つ。その後ろを歩き出した紗季の足は、部屋の中で考えていたほど重くはない。
小見の方の部屋へ通じる廊下は、庭を挟んで紗季の居間と向かい合っている。曲がり角を回ると、開け放した戸の手前に、見慣れない女が控えていた。
灰茶の小袖の袖口をきちんと揃えた、槙より幾らか若そうな女だった。脇に包みと細長い箱を置き、こちらを見るなり、道を空けて頭を下げ、中から、小見の方の笑い声が聞こえてくる。
「それでは、先にこちらへ寄ればよかったものを」
「そういたしますと、あの人は御用を一つお忘れになります」
少し早口の声だった。言い終わりに笑いを含んでいて、紗季は、昨夜思い浮かべたゆっくりした話し方とは違う、と戸の前で立ち止まる。
槙が来訪を告げると、庭側に座っていた女性がこちらを向いた。
淡い茶の衣に、襟元の白が明るい。顔は小さく、目元だけを見れば静かな人に思えるのに、紗季を認めた途端、上体が少し前へ出た。何か言いかけてから、こちらの挨拶を待つように口を閉じてくれる。
「お越しくださり、ありがとうございます」
紗季は習った位置で膝をつき、両手を揃えた。
小見の方は北側の畳に座り、その右脇、廊下に近いところを紗季のために空けてある。近江の方は母と斜めに向かい合い、庭を背にしないよう、少し体を横へ向けていた。二人の間には、黒い縁のついた小さな盆が一つ。椀はまだ運ばれていない。
「お招きいただいて、こちらこそ。お文を、嬉しく読みました」
近江の方が頭を下げ返したので、紗季も慌ててもう一度下げかけた。
すると小見の方が、笑いをこらえるように鼻から息を抜く。
「帰蝶、そこへ。いつまでも入口では、お茶が通れませぬ」
背後に人の気配があり、紗季はようやく自分が道を塞いでいると気づいた。膝を進め、母の示した場所へ座る間、持ってきた扇をどちらに置けばよいか迷ってしまう。
「ああ、それ。お持ちくださったのね」
近江の方が嬉しそうに言った。
紗季は返事の代わりに扇を差し出しかけたが、客の膝へいきなり押しつけるところではない。少し手を引いてから、二人の間の畳へ置く。
「見ておりましたら、虫が、こちらにも」
練習した話の初めより、ずいぶん途中からになった。それでも近江の方は身を寄せ、折り目をのぞき込んでくれた。
「本当。私の方には、いるかしら。ちせ、箱を」
戸口の女が細長い箱を運び、主人の脇で蓋を取る。その中から出てきた扇は、紗季のものより少し色がくすみ、要の辺りに使い込んだ艶があった。
並べて開くと、同じ草でも葉の伸びる向きが違っている。紗季の扇では右上へ伸びる葉が、近江の方のものでは低く垂れ、その下に広い余白があった。
「こちらの方が、風が吹いているみたいです」
「風?」
「葉がみんな、同じ方へ倒れているから」
近江の方は扇を持ち上げ、庭に向けて透かした。
「私は、雨に打たれているのだと思っておりました」
言われてみれば、そうも見える。紗季が答えを探すより先に、近江の方は扇の端へ指を添えた。
「こちらを、濡らしたことがあるものですから」
よく見ると、紙の下の方に、薄く波打つ場所があった。裏から細い紙を当て、破れを繕ってあるらしい。
「雨の日にお持ちになったのですか」
「いいえ。汁を」
紗季は顔を上げた。
「膳の脇へ置いたまま、椀を倒してしまって。こんなことなら、最後まで食べておけばよかったのに」
真面目な顔で言うので、紗季は笑ってよいか迷った。けれど戸口のちせが目を伏せ、少しだけ口元を動かしている。それが見えて、つい自分にも笑いが漏れた。
「新しいものをお使いなさいと、この者は申すのです」
「お出掛けの折くらいは、と申し上げました」
ちせが言い直すと、小見の方まで肩を揺らした。
紗季は、扇の裏の繕いをもう一度見る。贈られたものだから、きれいなままでしまっておかなければと思っていた。だが、近江の方の指は、傷んだところを隠すことなく骨を支えている。
「それでも、お好きなのですね」
「ええ。持ってくる物を選んだ時、これは入れようと思ったものですから」
近江から、美濃へ。
続く言葉がなくても、紗季にはその道のりを指していると分かった。
近江の方は扇を半ばまで閉じ、膝へ伏せた。その時、手元に置かれた茶の椀を見て、少し位置を離す。さっきの話を思い出したらしい仕草に、今度は紗季も、ためらわず笑えた。
新九郎は、昼の支度が整う少し前に現れた。
廊下から声を掛け、部屋へ入ってくると、まず小見の方へ挨拶をする。それから並んだ二つの扇を見て、もう比べ終えたのか、と紗季へ尋ねた。
「まだ、虫を探しております」
「絵の方か。庭にいる方かと思ったぞ」
「お庭の虫まで持ち込まれては、困ります」
小見の方が言うと、兄は笑いながら腰を下ろした。今日は母の前で客を迎える席ではなく、身内で膳を囲む。槙の案内で紗季が少し横へ寄り、兄の座る場所を空けると、近江の方との距離もさっきより近くなった。
「頼んだとおりにしてくれたか」
兄の目が、運ばれてくる膳へ向く。
「いつものもので、と伝えました」
紗季が答えると、後ろにいた槙が静かに口を添えた。
「一度、お魚を増やすよう仰せになりましたけれど」
「槙」
「取りやめになりましたので、そのとおりに」
新九郎が声を立てて笑う。わざわざ言わなくてもよいのにと思ったが、近江の方も紗季を見て、私も同じことをしたでしょう、と言ってくれた。
紗季の前に据えられた膳には、飯の椀、青菜と豆腐の汁、小さな川魚を焼いた皿が載っていた。別の器には柔らかく煮た蕗が盛られ、脇に塩気の強い漬物が少し添えてある。普段より器が揃っているだけで、よく知っている食事が、よそ行きの顔になるのが不思議だった。
小見の方の魚は、槙が先に骨を外している。ちせは近江の方の後ろに控え、お梅は廊下から膳を受け取って、一人ずつの前へ運んだ。足を進める前に、次の置き場所を目で確かめる。その落ち着いた動きを見ると、紗季にも、余計な口を挟まず任せておこうと思えた。
新九郎が飯の蓋を取ったところで、廊下に人が来た。
表に控えていた男が膝をつき、父がお呼びだと告げる。兄の手は蓋を持ったまま止まり、男の顔から、庭の明るさへ目が移った。
「今、済ませたと思ったのだがな」
「先ほど、尾張よりお使いが」
尾張、と聞いた時、紗季は椀の中の青菜を見ていた。
何気ない地名のはずなのに、急に、自分の座っている場所から遠くへ道が延びる。道の先に誰がいるかは、考えるまでもない。
織田信長。
兄が何か答えている。しかし紗季には、誰からの使いなのかを尋ねる声と、男が声を落として返したところしか聞き取れなかった。
「先に食べていてくれ」
新九郎が立とうとすると、近江の方が、その膳へ目を落とした。
「すぐに、お戻りになれますか」
「そのつもりだ」
「そのつもりで、夕暮れになったこともございます」
責める声ではない。ただ、兄が曖昧に笑って済ませようとしたところを、近江の方は見逃さなかった。
「長くなるようでしたら、お知らせを。帰蝶殿がお待ちになってしまいます」
「分かった。そうしよう」
兄は紗季へ、すまぬ、と短く言って廊下へ出た。
座っていたところに膳だけが残る。湯気が、その上で細くほどけていた。
「温かいうちに、いただきましょう」
小見の方に促されて、紗季は汁の椀を持ち上げた。豆腐は箸でつまむと崩れそうで、いつもなら慎重になるのに、今は白い角を見ていても、考えは別のところへ行ってしまう。
帰蝶は、信長に嫁ぐ。
知っていることと、自分がそうすることは、ずっと別々に置いてあった。館で一日を過ごすのに精いっぱいだった頃なら、嫁ぐ話はまだ遠い。ところが、兄の膳が冷めていくこの部屋から、父のいる表座敷までは、廊下を幾つか曲がるだけだ。
そこで自分の話をされていたら。
「帰蝶」
呼ばれて顔を上げると、小見の方が箸を置いていた。
「汁ばかりでは、お腹は満ちませぬよ」
椀を持ったまま、何も食べていなかった。紗季は飯を一口運び、よく噛んだが、味の前に、自分の返事を考えている。
お嫁には行きたくない。
けれど、信長には会ってみたかった。写真も声も残っていない人が、本の中ではなく、自分と同じように食事をしたり、誰かを待たせたりしている。どんな話し方をするのか、笑う時はどこを見るのか。知りたいと思う気持ちまで、嘘にはできない。
会うだけでは、いけないのだろうか。
膳の向こうで近江の方が魚の骨を皿の端へ揃えていた。その手際に目を留めると、尋ねてみたいことが浮かぶ。この人は、初めて会う相手と夫婦になる時、何を考えたのだろう。
食事が終わる頃、兄から使いが戻った。
しばらく席を外せそうにない。先に済ませて、待たずに休んでいてほしいという。近江の方は承知したと答え、それから、膳はこちらで下げてもらいます、と付け加えた。
その言葉を聞いて、紗季は兄の座っていた場所を見た。いつ帰ってきてもよいように残しておくのかと思っていたが、お梅が器を盆へ移し、座る場所はすぐに空いてしまう。
寂しくないわけではなかった。それでも、戻るかもしれない人のために、椀を何度も見なくてよくなるのは、少し楽でもある。
小見の方が奥で休むことになり、紗季と近江の方は、庭に面した隣の小部屋へ移った。廊下から入って右に畳が二枚敷いてあり、その先の板敷きが縁へ続いている。母の部屋と隔てる戸は閉めたが、廊下側は開けておくので、給仕の者が行き来する気配までは消えない。
近江の方は袖から出した布で額の際を押さえ、もう、扇を使ってよいかしら、と尋ねた。
「暑うございましたか」
「ええ。ずっと」
紗季が慌てて庭側の戸を指すと、ちせが先に立って、風の入る幅を広げる。槙は小見の方について奥へ下がり、お梅は二人の脇へ茶を運んでから、廊下の端に控えた。
近江の方は扇をゆっくり動かしていた。強くあおげば涼しそうなのに、繕いのある紙を気遣っているのか、手首は小さくしか動かない。
「兄上は、いつもお忙しいのですか」
「忙しい日も、そうでない日も。ただ、帰ると仰せになった時に帰られるとは限りませぬ」
「それでは、待ってしまいますね」
「初めは、待ちました」
扇の動きが止まり、近江の方は庭へ目をやった。葉の茂った枝の下を、日陰が濃く覆っている。
「いつまでも支度をしたままでおりました。先に休んでいてよいと言われても、帰っていらした時に眠っていては、と思って」
「今は?」
「眠い日は、寝ます」
あっさりと返され、紗季は笑った。近江の方も笑ったが、それから声を少し低くする。
「でも、それを申せるまでには、掛かりました。あの人にではなく、自分に腹を立てることも」
「ご自分に、ですか」
「言わずにいて、分かってくださらないと恨むのですから」
身に覚えがあり、紗季は扇の絵へ視線を落とした。
篠原様なら、と勝手に決めた時の自分を、すぐに思い出せる。けれど、あの人と兄を同じ話の中へ置いてよいのだろうか。なぜか居心地が悪くなり、紗季は聞いてみたかった別の話へ移った。
「近江へ、お帰りになりたいと思われますか」
問いが急すぎたと気づいたのは、口にした後だった。近江の方は返事をせず、扇を閉じて指先で骨を揃える。
「……立ち入ったことを」
「いいえ。帰りたい日もございますよ」
紗季は顔を上げた。
「こちらに、慣れていらっしゃるように見えました」
「慣れても、会いたい人はおりますから」
言葉の終わりに浮かんだ笑みが、悲しませたかと身構えていた紗季には、かえって意外だった。帰りたいと口にしても、そんなふうに笑えるのか。
近江の方は、庭の木の葉が擦れ合うのをしばらく見ていた。
「近江では、風の強い日に水の音が変わるのです。こちらへ来てからは、山の方を見て、雨が来るのかと考えるようになりました」
同じ空でも、気にする方角が変わる。
紗季は縁の外を見た。館の屋根を越した向こうに山があり、雲のかかり方なら、来たばかりの頃より見分けられる。ここで覚えたことが増えるのは、嬉しいはずだった。
それでも、慣れてしまえば前の暮らしが薄くなるのではないかと、時々、何も変わっていないことを確かめたくなる。近江の方の言葉は、その二つを、どちらか一方へ決めなくてもよいと言っているように聞こえた。
「文は、よくお出しになりますか」
「いつもではございませぬ。こちらの用が重なって、出しそびれることもあります」
「寂しいと、お書きになるのですか」
近江の方は小さく首を傾け、今度は紗季の顔を見た。
「帰蝶殿は、そう書けますか」
寂しいから、会いたいから。それだけを、紙に残して渡せるだろうか。
母へ送ろうとした短い知らせでさえ、驚かせないために言葉を消している。あの時とは事情が違っても、受け取った人が困る顔を思い浮かべるところは、今も同じだろう。
「……心配を、掛けそうです」
「私も、そう思います。ですから、何も変わりないと書いてしまう。でも、何も変わらないわけではないのですよね」
そう言ってから、近江の方は繕った扇を持ち上げた。
「これに汁をこぼしたことは、書きました」
「それを?」
「返事に、まだあれを使っているのか、とございました」
紗季は、知らない誰かがその文を読み、見覚えのある扇を思い浮かべるところを想像した。大変な目に遭った話でも、立派なことをした知らせでもない。ただ、同じ品を覚えているだけで、離れた相手にも通じることがある。
近江の方は紗季の扇を見て、こちらの虫は見つかったのに自分のはまだだ、と畳へ開き直した。
今度は紗季も、挨拶の続きになる話を探さなかった。絵の端へ膝を寄せ、葉の付け根から一本ずつ線をたどっていく。近江の方が隣から、ここは脚ではないかと言う。ところが、角度を変えると、それは草の茎につながっていた。
「違いました」
「おりましたら、逃げるのが上手な虫ですね」
二人の笑い声に、廊下にいたお梅も何事かとこちらをのぞく。
「お梅、少し見てくれる?」
呼ばれたお梅は、まず近江の方へ頭を下げ、それから畳の端へ進んだ。小さな虫を探してほしいと言われても、すぐには扇へ手を出さない。紗季が少し向きを変えてやると、ようやく顔を近づける。
「……こちらは、初めから、おられないのでは」
紗季と近江の方は、同時に顔を上げた。
見つけなければと思うばかりで、そのことを考えていなかった。ちせが堪えきれず笑い、近江の方も、そうかもしれませぬね、と扇を閉じる。
結局、虫がいないと確かめられたわけでもない。それでも、次にまた見ようと言えるものが、二人の間に一つ残った。
兄が戻ってきた頃には、庭を照らす光が傾き始めていた。
近江の方は帰り支度を始めており、ちせが扇の箱を包み直している。新九郎は入口で、その包みと紗季の顔を交互に見た。
「ずいぶん、待たせたな」
「待ってはおりませぬ。お話ししておりました」
妻に返されると、兄は少しだけ眉を上げ、それならよかった、と部屋の中へ入る。
何の御用だったのか、紗季は尋ねたくなる。だが、廊下にまだ供の者がいるうちに、尾張の使いのことを口にする勇気は出なかった。
「兄上は、お昼を召し上がりましたか」
「いや。水をもらったばかりだ」
紗季が振り返るより先に、お梅が台所へ伝えに立つ。近江の方は包まれた箱を脇へ置き、それではまだ帰れませぬね、と腰を落ち着けた。
しばらくして、小さな膳が運ばれてきた。飯と、温め直した汁。魚は新しく焼けるまで少し掛かるというので、兄はそれなら要らぬと答え、蕗を箸で取ると、
「お昼と同じもので、よろしかったのですか」
紗季が尋ねると、新九郎は噛んでいたものを飲み込んでから、望んだとおりだ、と返した。
「ただ、お前が食べているところを見損ねた」
「そんなところを、ご覧になりたいのですか」
「よく食うと聞いているからな」
「誰からです」
兄の目が槙の来る廊下へ向いたので、紗季もつられてそちらを見る。自分のいないところで、どんな話をされているのだろう。
食べながら、新九郎は近江の方へ、扇の絵はどうだったかと尋ねる。虫がいないかもしれない、と返されると、では初めから私を呼べばよかった、と根拠のないことを言い、妻に、それでお見つけになった試しがございましたか、と返されていた。
こんな言い合いを、いつもの部屋でもしているのだろうか。
紗季は椀を持つ兄の手と、その向こうの近江の方の顔を見た。夫婦という言葉だけでは思い浮かべられなかった時間が、今、目の前を流れている。
会ってみれば、信長も、知らなかった顔をするのだろうか。
その問いに心が動くのを感じても、嫁ぎたいという答えにはならなかった。ただ、自分の知らない暮らしを、怖いものだけで埋めておく必要はないのかもしれない。
兄が食べ終えると、近江の方は今度こそ立ち上がった。紗季も廊下まで見送りに出て、小見の方への挨拶が済むのを待つ。
庭を回る風が、青い小袖の裾をかすめていく。
「また、お文を差し上げてもよろしいですか」
近江の方がこちらを向いた時、紗季はそう尋ねていた。
「もちろん。今度は、何のお話でしょう」
「まだ、決めておりません」
「では、決まるのを楽しみに」
その返事なら、書くことが見つかるまで急がなくてもよさそうだ。紗季は頭を下げ、上げてから、もう一つだけ尋ねる。
「義姉上と、お呼びしても」
近江の方の顔に、先ほど虫を探していた時とは違う笑みが浮かんだ。
「ええ。そのように」
新九郎は何も口を挟まず、妻がちせを呼んでから、二人に先立って廊下を歩き始めた。紗季はその背へ一礼し、姿が見えなくなるまで見送る。
自室へ戻る途中、表へ抜ける廊下の向こうに、作兵衛と清十郎が見えた。
二人は帰る供の者を案内していたところらしく、作兵衛が先の門を示している。清十郎は手にした荷を相手へ渡すと、紗季に気づいて少し身を引いた。
「お戻りでございますか」
「今日は、扇を見てばかりおりました」
自分でも変な答えだと思ったが、清十郎は、そうですか、と手元の扇へ目をやった。
「お楽しみになれたのでしたら、何より」
以前なら、その言葉にどう返せばよいか考えたかもしれない。今日は、楽しかったです、と素直に言えた。
作兵衛が門の方から呼び、清十郎は一礼してそちらへ向かった。紗季も、お梅と並んで自分の部屋へ戻る。
机の脇へ扇を置いてから、近江の方の返書を箱から取り出した。会う折には並べてみよう、と書かれた行を読み直すと、今は、その言葉を話す声まで思い浮かぶ。
文の中の人に、会えた。
その嬉しさを、どう書けば伝わるのだろう。
すぐに筆を取る代わりに、紗季は紙を机の端へ一枚だけ用意した。今日はまだ、扇を並べたところから兄が遅い食事を終えるまでを、順に思い返していたかった。
「お梅、あの虫、本当にいないと思う?」
箱の蓋を拭いていたお梅が顔を上げる。
「次においでになったら、明るいところで見せていただきとうございます」
「うん。そうしよう」
紗季は紙の隅へ、忘れないために「義姉上」とだけ書いた。墨の乾くのを待ちながら、傍らの扇をそっと開く。
こちらの虫は、今度も同じ葉の下にいた。




