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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
美濃

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16/52

十六話 扇を並べて

 約束の扇を箱から出すと、草の葉に隠れていた小さな虫が、折り目の向こうから現れる。

 開ききらない方が、見つけやすいらしい。紗季は顔へ寄せたり離したりして、前には気づかなかった細い脚を目で追う。朝から何度も同じところを見ているのに、まだ、来客の足音はしない。


「それほどお使いになれば、お着きになる前に傷んでしまいますよ」


 槙に言われ、紗季は扇を閉じる。


「使ってない。見てるだけ」

「では、少しお休ませなさいませ」


 子供を寝かせるような言い方が可笑しくて、紗季は扇を膝へ戻す。

 五月も下旬になると、昼の部屋には風の通り道が欲しくなった。庭側の戸だけを開けても、湿った空気は奥に残る。そこで槙が廊下に面した戸を少し引くと、机に置いた手本の端が持ち上がり、ようやく首元まで涼しさが届く。


 清十郎と話し合った朝から、三週間ほど経っている。

 稽古は晴れた朝を選んで続け、昼には手習いか、小見の方の部屋で人を迎える際の振る舞いを習う。間違えなくなったところもあれば、急に声を掛けられると、覚えたことが飛んでしまうところもある。それでも、教わる間じゅう自分の手足を見張っている必要は、少しずつなくなってきた。

 今日は、近江の方が来る。

 兄の妻という続柄も、返書の柔らかな言葉も知っている。しかし、声や笑い方は知らないし、こちらが黙り込んだ時に待ってくれる人なのかも分からない。

 そのため昨夜は、挨拶の後に何を話せばよいか、幾つも考えていた。扇の絵の話。それから、近江の景色の話。何か尋ねてばかりになったら、自分の話もするつもりだったのに、今になると、順序しか思い出せなかった。


「お兄様も、ご一緒なのよね」

「先に表で御用を済まされてから、こちらへお越しになるそうです」


 槙が答え、衣の背の皺を伸ばしてくれる。その手を感じながら、紗季は膝の位置を直した。

 前の文では、一緒に普段の食事をしようと言ってくれた。ところが台所へ伝える段になると、普段どおりでは足りない気がして、魚をもう一品、と頼みかけている。槙に兄の返事を思い出させられなければ、どこまで増やしていたか分からない。

 お梅が戸口へ顔を出したのは、紗季が扇をまた開きそうになった時だった。


「お着きにございます」


 立ち上がると、今度は帯の上へ扇を差そうとして止まった。手に持って行こうと決めておいたのに、どうして、今さら迷うのだろう。

 槙は何も言わず、小さく頷いて先に立つ。その後ろを歩き出した紗季の足は、部屋の中で考えていたほど重くはない。


 小見の方の部屋へ通じる廊下は、庭を挟んで紗季の居間と向かい合っている。曲がり角を回ると、開け放した戸の手前に、見慣れない女が控えていた。

 灰茶の小袖の袖口をきちんと揃えた、槙より幾らか若そうな女だった。脇に包みと細長い箱を置き、こちらを見るなり、道を空けて頭を下げ、中から、小見の方の笑い声が聞こえてくる。


「それでは、先にこちらへ寄ればよかったものを」

「そういたしますと、あの人は御用を一つお忘れになります」


 少し早口の声だった。言い終わりに笑いを含んでいて、紗季は、昨夜思い浮かべたゆっくりした話し方とは違う、と戸の前で立ち止まる。

 槙が来訪を告げると、庭側に座っていた女性がこちらを向いた。

 淡い茶の衣に、襟元の白が明るい。顔は小さく、目元だけを見れば静かな人に思えるのに、紗季を認めた途端、上体が少し前へ出た。何か言いかけてから、こちらの挨拶を待つように口を閉じてくれる。


「お越しくださり、ありがとうございます」


 紗季は習った位置で膝をつき、両手を揃えた。

 小見の方は北側の畳に座り、その右脇、廊下に近いところを紗季のために空けてある。近江の方は母と斜めに向かい合い、庭を背にしないよう、少し体を横へ向けていた。二人の間には、黒い縁のついた小さな盆が一つ。椀はまだ運ばれていない。


「お招きいただいて、こちらこそ。お文を、嬉しく読みました」


 近江の方が頭を下げ返したので、紗季も慌ててもう一度下げかけた。

 すると小見の方が、笑いをこらえるように鼻から息を抜く。


「帰蝶、そこへ。いつまでも入口では、お茶が通れませぬ」


 背後に人の気配があり、紗季はようやく自分が道を塞いでいると気づいた。膝を進め、母の示した場所へ座る間、持ってきた扇をどちらに置けばよいか迷ってしまう。


「ああ、それ。お持ちくださったのね」


 近江の方が嬉しそうに言った。

 紗季は返事の代わりに扇を差し出しかけたが、客の膝へいきなり押しつけるところではない。少し手を引いてから、二人の間の畳へ置く。


「見ておりましたら、虫が、こちらにも」


 練習した話の初めより、ずいぶん途中からになった。それでも近江の方は身を寄せ、折り目をのぞき込んでくれた。


「本当。私の方には、いるかしら。ちせ、箱を」


 戸口の女が細長い箱を運び、主人の脇で蓋を取る。その中から出てきた扇は、紗季のものより少し色がくすみ、要の辺りに使い込んだ艶があった。

 並べて開くと、同じ草でも葉の伸びる向きが違っている。紗季の扇では右上へ伸びる葉が、近江の方のものでは低く垂れ、その下に広い余白があった。


「こちらの方が、風が吹いているみたいです」

「風?」

「葉がみんな、同じ方へ倒れているから」


 近江の方は扇を持ち上げ、庭に向けて透かした。


「私は、雨に打たれているのだと思っておりました」


 言われてみれば、そうも見える。紗季が答えを探すより先に、近江の方は扇の端へ指を添えた。


「こちらを、濡らしたことがあるものですから」


 よく見ると、紙の下の方に、薄く波打つ場所があった。裏から細い紙を当て、破れを繕ってあるらしい。


「雨の日にお持ちになったのですか」

「いいえ。汁を」


 紗季は顔を上げた。


「膳の脇へ置いたまま、椀を倒してしまって。こんなことなら、最後まで食べておけばよかったのに」


 真面目な顔で言うので、紗季は笑ってよいか迷った。けれど戸口のちせが目を伏せ、少しだけ口元を動かしている。それが見えて、つい自分にも笑いが漏れた。


「新しいものをお使いなさいと、この者は申すのです」

「お出掛けの折くらいは、と申し上げました」


 ちせが言い直すと、小見の方まで肩を揺らした。

 紗季は、扇の裏の繕いをもう一度見る。贈られたものだから、きれいなままでしまっておかなければと思っていた。だが、近江の方の指は、傷んだところを隠すことなく骨を支えている。


「それでも、お好きなのですね」

「ええ。持ってくる物を選んだ時、これは入れようと思ったものですから」


 近江から、美濃へ。

 続く言葉がなくても、紗季にはその道のりを指していると分かった。

 近江の方は扇を半ばまで閉じ、膝へ伏せた。その時、手元に置かれた茶の椀を見て、少し位置を離す。さっきの話を思い出したらしい仕草に、今度は紗季も、ためらわず笑えた。


 新九郎は、昼の支度が整う少し前に現れた。

 廊下から声を掛け、部屋へ入ってくると、まず小見の方へ挨拶をする。それから並んだ二つの扇を見て、もう比べ終えたのか、と紗季へ尋ねた。


「まだ、虫を探しております」

「絵の方か。庭にいる方かと思ったぞ」

「お庭の虫まで持ち込まれては、困ります」


 小見の方が言うと、兄は笑いながら腰を下ろした。今日は母の前で客を迎える席ではなく、身内で膳を囲む。槙の案内で紗季が少し横へ寄り、兄の座る場所を空けると、近江の方との距離もさっきより近くなった。


「頼んだとおりにしてくれたか」


 兄の目が、運ばれてくる膳へ向く。


「いつものもので、と伝えました」


 紗季が答えると、後ろにいた槙が静かに口を添えた。


「一度、お魚を増やすよう仰せになりましたけれど」

「槙」

「取りやめになりましたので、そのとおりに」


 新九郎が声を立てて笑う。わざわざ言わなくてもよいのにと思ったが、近江の方も紗季を見て、私も同じことをしたでしょう、と言ってくれた。

 紗季の前に据えられた膳には、飯の椀、青菜と豆腐の汁、小さな川魚を焼いた皿が載っていた。別の器には柔らかく煮た蕗が盛られ、脇に塩気の強い漬物が少し添えてある。普段より器が揃っているだけで、よく知っている食事が、よそ行きの顔になるのが不思議だった。


 小見の方の魚は、槙が先に骨を外している。ちせは近江の方の後ろに控え、お梅は廊下から膳を受け取って、一人ずつの前へ運んだ。足を進める前に、次の置き場所を目で確かめる。その落ち着いた動きを見ると、紗季にも、余計な口を挟まず任せておこうと思えた。

 新九郎が飯の蓋を取ったところで、廊下に人が来た。

 表に控えていた男が膝をつき、父がお呼びだと告げる。兄の手は蓋を持ったまま止まり、男の顔から、庭の明るさへ目が移った。


「今、済ませたと思ったのだがな」

「先ほど、尾張よりお使いが」


 尾張、と聞いた時、紗季は椀の中の青菜を見ていた。

 何気ない地名のはずなのに、急に、自分の座っている場所から遠くへ道が延びる。道の先に誰がいるかは、考えるまでもない。


 織田信長。


 兄が何か答えている。しかし紗季には、誰からの使いなのかを尋ねる声と、男が声を落として返したところしか聞き取れなかった。


「先に食べていてくれ」


 新九郎が立とうとすると、近江の方が、その膳へ目を落とした。


「すぐに、お戻りになれますか」

「そのつもりだ」

「そのつもりで、夕暮れになったこともございます」


 責める声ではない。ただ、兄が曖昧に笑って済ませようとしたところを、近江の方は見逃さなかった。


「長くなるようでしたら、お知らせを。帰蝶殿がお待ちになってしまいます」

「分かった。そうしよう」


 兄は紗季へ、すまぬ、と短く言って廊下へ出た。

 座っていたところに膳だけが残る。湯気が、その上で細くほどけていた。


「温かいうちに、いただきましょう」


 小見の方に促されて、紗季は汁の椀を持ち上げた。豆腐は箸でつまむと崩れそうで、いつもなら慎重になるのに、今は白い角を見ていても、考えは別のところへ行ってしまう。

 帰蝶は、信長に嫁ぐ。

 知っていることと、自分がそうすることは、ずっと別々に置いてあった。館で一日を過ごすのに精いっぱいだった頃なら、嫁ぐ話はまだ遠い。ところが、兄の膳が冷めていくこの部屋から、父のいる表座敷までは、廊下を幾つか曲がるだけだ。

 そこで自分の話をされていたら。


「帰蝶」


 呼ばれて顔を上げると、小見の方が箸を置いていた。


「汁ばかりでは、お腹は満ちませぬよ」


 椀を持ったまま、何も食べていなかった。紗季は飯を一口運び、よく噛んだが、味の前に、自分の返事を考えている。


 お嫁には行きたくない。


 けれど、信長には会ってみたかった。写真も声も残っていない人が、本の中ではなく、自分と同じように食事をしたり、誰かを待たせたりしている。どんな話し方をするのか、笑う時はどこを見るのか。知りたいと思う気持ちまで、嘘にはできない。


 会うだけでは、いけないのだろうか。


 膳の向こうで近江の方が魚の骨を皿の端へ揃えていた。その手際に目を留めると、尋ねてみたいことが浮かぶ。この人は、初めて会う相手と夫婦になる時、何を考えたのだろう。


 食事が終わる頃、兄から使いが戻った。

 しばらく席を外せそうにない。先に済ませて、待たずに休んでいてほしいという。近江の方は承知したと答え、それから、膳はこちらで下げてもらいます、と付け加えた。


 その言葉を聞いて、紗季は兄の座っていた場所を見た。いつ帰ってきてもよいように残しておくのかと思っていたが、お梅が器を盆へ移し、座る場所はすぐに空いてしまう。

 寂しくないわけではなかった。それでも、戻るかもしれない人のために、椀を何度も見なくてよくなるのは、少し楽でもある。

 小見の方が奥で休むことになり、紗季と近江の方は、庭に面した隣の小部屋へ移った。廊下から入って右に畳が二枚敷いてあり、その先の板敷きが縁へ続いている。母の部屋と隔てる戸は閉めたが、廊下側は開けておくので、給仕の者が行き来する気配までは消えない。

 近江の方は袖から出した布で額の際を押さえ、もう、扇を使ってよいかしら、と尋ねた。


「暑うございましたか」

「ええ。ずっと」


 紗季が慌てて庭側の戸を指すと、ちせが先に立って、風の入る幅を広げる。槙は小見の方について奥へ下がり、お梅は二人の脇へ茶を運んでから、廊下の端に控えた。

 近江の方は扇をゆっくり動かしていた。強くあおげば涼しそうなのに、繕いのある紙を気遣っているのか、手首は小さくしか動かない。


「兄上は、いつもお忙しいのですか」

「忙しい日も、そうでない日も。ただ、帰ると仰せになった時に帰られるとは限りませぬ」

「それでは、待ってしまいますね」

「初めは、待ちました」


 扇の動きが止まり、近江の方は庭へ目をやった。葉の茂った枝の下を、日陰が濃く覆っている。


「いつまでも支度をしたままでおりました。先に休んでいてよいと言われても、帰っていらした時に眠っていては、と思って」

「今は?」

「眠い日は、寝ます」


 あっさりと返され、紗季は笑った。近江の方も笑ったが、それから声を少し低くする。


「でも、それを申せるまでには、掛かりました。あの人にではなく、自分に腹を立てることも」

「ご自分に、ですか」

「言わずにいて、分かってくださらないと恨むのですから」


 身に覚えがあり、紗季は扇の絵へ視線を落とした。

 篠原様なら、と勝手に決めた時の自分を、すぐに思い出せる。けれど、あの人と兄を同じ話の中へ置いてよいのだろうか。なぜか居心地が悪くなり、紗季は聞いてみたかった別の話へ移った。


「近江へ、お帰りになりたいと思われますか」


 問いが急すぎたと気づいたのは、口にした後だった。近江の方は返事をせず、扇を閉じて指先で骨を揃える。


「……立ち入ったことを」

「いいえ。帰りたい日もございますよ」


 紗季は顔を上げた。


「こちらに、慣れていらっしゃるように見えました」

「慣れても、会いたい人はおりますから」


 言葉の終わりに浮かんだ笑みが、悲しませたかと身構えていた紗季には、かえって意外だった。帰りたいと口にしても、そんなふうに笑えるのか。

 近江の方は、庭の木の葉が擦れ合うのをしばらく見ていた。


「近江では、風の強い日に水の音が変わるのです。こちらへ来てからは、山の方を見て、雨が来るのかと考えるようになりました」


 同じ空でも、気にする方角が変わる。

 紗季は縁の外を見た。館の屋根を越した向こうに山があり、雲のかかり方なら、来たばかりの頃より見分けられる。ここで覚えたことが増えるのは、嬉しいはずだった。

 それでも、慣れてしまえば前の暮らしが薄くなるのではないかと、時々、何も変わっていないことを確かめたくなる。近江の方の言葉は、その二つを、どちらか一方へ決めなくてもよいと言っているように聞こえた。


「文は、よくお出しになりますか」

「いつもではございませぬ。こちらの用が重なって、出しそびれることもあります」

「寂しいと、お書きになるのですか」


 近江の方は小さく首を傾け、今度は紗季の顔を見た。


「帰蝶殿は、そう書けますか」


 寂しいから、会いたいから。それだけを、紙に残して渡せるだろうか。

 母へ送ろうとした短い知らせでさえ、驚かせないために言葉を消している。あの時とは事情が違っても、受け取った人が困る顔を思い浮かべるところは、今も同じだろう。


「……心配を、掛けそうです」

「私も、そう思います。ですから、何も変わりないと書いてしまう。でも、何も変わらないわけではないのですよね」


 そう言ってから、近江の方は繕った扇を持ち上げた。


「これに汁をこぼしたことは、書きました」

「それを?」

「返事に、まだあれを使っているのか、とございました」


 紗季は、知らない誰かがその文を読み、見覚えのある扇を思い浮かべるところを想像した。大変な目に遭った話でも、立派なことをした知らせでもない。ただ、同じ品を覚えているだけで、離れた相手にも通じることがある。

 近江の方は紗季の扇を見て、こちらの虫は見つかったのに自分のはまだだ、と畳へ開き直した。

 今度は紗季も、挨拶の続きになる話を探さなかった。絵の端へ膝を寄せ、葉の付け根から一本ずつ線をたどっていく。近江の方が隣から、ここは脚ではないかと言う。ところが、角度を変えると、それは草の茎につながっていた。


「違いました」

「おりましたら、逃げるのが上手な虫ですね」


 二人の笑い声に、廊下にいたお梅も何事かとこちらをのぞく。


「お梅、少し見てくれる?」


 呼ばれたお梅は、まず近江の方へ頭を下げ、それから畳の端へ進んだ。小さな虫を探してほしいと言われても、すぐには扇へ手を出さない。紗季が少し向きを変えてやると、ようやく顔を近づける。


「……こちらは、初めから、おられないのでは」


 紗季と近江の方は、同時に顔を上げた。

 見つけなければと思うばかりで、そのことを考えていなかった。ちせが堪えきれず笑い、近江の方も、そうかもしれませぬね、と扇を閉じる。

 結局、虫がいないと確かめられたわけでもない。それでも、次にまた見ようと言えるものが、二人の間に一つ残った。


 兄が戻ってきた頃には、庭を照らす光が傾き始めていた。

 近江の方は帰り支度を始めており、ちせが扇の箱を包み直している。新九郎は入口で、その包みと紗季の顔を交互に見た。


「ずいぶん、待たせたな」

「待ってはおりませぬ。お話ししておりました」


 妻に返されると、兄は少しだけ眉を上げ、それならよかった、と部屋の中へ入る。

 何の御用だったのか、紗季は尋ねたくなる。だが、廊下にまだ供の者がいるうちに、尾張の使いのことを口にする勇気は出なかった。


「兄上は、お昼を召し上がりましたか」

「いや。水をもらったばかりだ」


 紗季が振り返るより先に、お梅が台所へ伝えに立つ。近江の方は包まれた箱を脇へ置き、それではまだ帰れませぬね、と腰を落ち着けた。

 しばらくして、小さな膳が運ばれてきた。飯と、温め直した汁。魚は新しく焼けるまで少し掛かるというので、兄はそれなら要らぬと答え、蕗を箸で取ると、


「お昼と同じもので、よろしかったのですか」


 紗季が尋ねると、新九郎は噛んでいたものを飲み込んでから、望んだとおりだ、と返した。


「ただ、お前が食べているところを見損ねた」

「そんなところを、ご覧になりたいのですか」

「よく食うと聞いているからな」

「誰からです」


 兄の目が槙の来る廊下へ向いたので、紗季もつられてそちらを見る。自分のいないところで、どんな話をされているのだろう。

 食べながら、新九郎は近江の方へ、扇の絵はどうだったかと尋ねる。虫がいないかもしれない、と返されると、では初めから私を呼べばよかった、と根拠のないことを言い、妻に、それでお見つけになった試しがございましたか、と返されていた。


 こんな言い合いを、いつもの部屋でもしているのだろうか。

 紗季は椀を持つ兄の手と、その向こうの近江の方の顔を見た。夫婦という言葉だけでは思い浮かべられなかった時間が、今、目の前を流れている。

 会ってみれば、信長も、知らなかった顔をするのだろうか。

 その問いに心が動くのを感じても、嫁ぎたいという答えにはならなかった。ただ、自分の知らない暮らしを、怖いものだけで埋めておく必要はないのかもしれない。

 兄が食べ終えると、近江の方は今度こそ立ち上がった。紗季も廊下まで見送りに出て、小見の方への挨拶が済むのを待つ。

 庭を回る風が、青い小袖の裾をかすめていく。


「また、お文を差し上げてもよろしいですか」


 近江の方がこちらを向いた時、紗季はそう尋ねていた。


「もちろん。今度は、何のお話でしょう」

「まだ、決めておりません」

「では、決まるのを楽しみに」


 その返事なら、書くことが見つかるまで急がなくてもよさそうだ。紗季は頭を下げ、上げてから、もう一つだけ尋ねる。


「義姉上と、お呼びしても」

 近江の方の顔に、先ほど虫を探していた時とは違う笑みが浮かんだ。


「ええ。そのように」


 新九郎は何も口を挟まず、妻がちせを呼んでから、二人に先立って廊下を歩き始めた。紗季はその背へ一礼し、姿が見えなくなるまで見送る。


 自室へ戻る途中、表へ抜ける廊下の向こうに、作兵衛と清十郎が見えた。

 二人は帰る供の者を案内していたところらしく、作兵衛が先の門を示している。清十郎は手にした荷を相手へ渡すと、紗季に気づいて少し身を引いた。


「お戻りでございますか」

「今日は、扇を見てばかりおりました」


 自分でも変な答えだと思ったが、清十郎は、そうですか、と手元の扇へ目をやった。


「お楽しみになれたのでしたら、何より」


 以前なら、その言葉にどう返せばよいか考えたかもしれない。今日は、楽しかったです、と素直に言えた。

 作兵衛が門の方から呼び、清十郎は一礼してそちらへ向かった。紗季も、お梅と並んで自分の部屋へ戻る。

 机の脇へ扇を置いてから、近江の方の返書を箱から取り出した。会う折には並べてみよう、と書かれた行を読み直すと、今は、その言葉を話す声まで思い浮かぶ。


 文の中の人に、会えた。

 その嬉しさを、どう書けば伝わるのだろう。

 すぐに筆を取る代わりに、紗季は紙を机の端へ一枚だけ用意した。今日はまだ、扇を並べたところから兄が遅い食事を終えるまでを、順に思い返していたかった。


「お梅、あの虫、本当にいないと思う?」


 箱の蓋を拭いていたお梅が顔を上げる。


「次においでになったら、明るいところで見せていただきとうございます」

「うん。そうしよう」


 紗季は紙の隅へ、忘れないために「義姉上」とだけ書いた。墨の乾くのを待ちながら、傍らの扇をそっと開く。

 こちらの虫は、今度も同じ葉の下にいた。

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