八話 覚えのない名
「私の名を、覚えておいででございますか」
廊下の先で膝をついた若者は、挨拶を終えても顔を伏せなかった。
紗季は答えに詰まった。槙から教わったとおり、相手の言葉が終わるまで待ち、立ち止まるところまでは間違えずにできた。それなのに、次に何を言えばよいのか分からない。
花を習った日から四日が過ぎていた。昼前の光が小庭の若葉を透かし、廊下には、干した衣を取り込む人の足音が行き来している。紗季は槙とともに稽古場へ向かう途中で、奥へ入る廊下の曲がり角にこの若者が控えていた。
額の生え際に、うっすらと汗が浮いている。頬にはまだ少年らしい細さが残っているが、膝の脇へ揃えた手は大きい。左手の親指だけ、爪が短く欠けて見えた。
学校にも道場にもいなかった顔だ。それをもう一度、記憶の中で探してしまう。
「……ごめんなさい。お名前を、聞かせていただけますか」
若者の目がわずかに動いた。
「篠原清十郎にございます」
「篠原様」
忘れないよう口に出すと、槙が紗季の半歩前へ出た。
「姫様は、ご病中のことも、その前のことも、覚えておられぬことがございます。昨日戻ったばかりのそなたには、まだ話が届いておらなんだか」
「戻られたとは、承りました」
清十郎はそこで声を切った。帰蝶が戻った。それを自分の目で確かめているのだと気づき、紗季は袖の内で指を握った。
「お身体に障りは」
「もう、だいぶ」
腰のことを答えかけて、やめる。帰蝶の病を尋ねられたのか、自分の怪我を聞かれたのかも分からなかった。
槙が先へ行こうと促す。清十郎は廊下の端へ膝を引いたものの、紗季が通り過ぎるまで頭を下げずにいた。
背中に視線が残るのは、初めてではない。館で会う人の多くが、一度はあんな顔をした。ただ、これまでは槙が言葉を添えると、皆それ以上尋ねなかった。
庭へ下りる段のところで、紗季は振り返った。
もう清十郎の姿は見えない。
「前の……私を、よく知っている人?」
声を落として尋ねると、槙は裾を直す手を止めた。
「こちらのお家に仕える者です。姫様のお顔も、存じております」
「怒っていたみたいだった」
「驚いたのでございましょう」
槙の手が裾へ戻る。帯に挟んだ布の端を引き直し、歩いてみるよう紗季に言った。いつもなら布が緩まぬか確かめるため、屈んだまま何歩か見ている。今日は先に身を起こし、廊下の曲がり角を見ていた。
その日の稽古は、弥四郎の木剣へ二度続けて近づきすぎた。打とうとして手を伸ばせば、足が遅れる。間合いを取り直せと言われても、背後に誰かいる気がして集中できない。
「後ろに用があるのなら、そちらを済ませなされ」
「ありません」
「では、私をご覧あれ」
弥四郎は紗季の目が戻るまで木剣を下げて待った。苛立って先を急がせないところに、かえって申し訳なくなる。
稽古が終わり、紗季が汗を拭いていると、裏門の方で男の声がした。
「一度に持つな。半分置け」
道具を納める細長い建物の向こうで、お梅が畳んだ布の束を抱えて立ち往生していた。顔まで隠れる高さの荷から、いちばん上の一枚が落ちかけている。清十郎がその端を押さえ、上半分を持ち上げた。
「どこへ運ぶ」
「槙様の、お部屋へ」
「曲がり角までは持ってゆく。残りを落とすな」
お梅が何度も頭を下げる間に、清十郎は荷を抱え直していた。
怖い顔をする人だけれど、意地悪ではないのかもしれない。
紗季が手拭いを返そうとすると、右の袖が肘へ寄った。そのとき清十郎の足が止まった。荷の陰から、紗季の腕を見ている。
袖を下ろすと、彼は何も言わず廊下へ上がっていった。
部屋へ戻ってから、お梅が清十郎のことを話した。十九になる若い家臣で、しばらく館を離れていたという。お梅も親しく話す間柄ではなく、荷を持ってもらった礼が足りなかったのでは、と気にしている。
「ちゃんと言えてたよ」
「声が小さかったかもしれませぬ」
「明日会ったら、もう一度言えばいいと思う」
そう答えながら、紗季は右腕へ目を落とした。
帰蝶には、ここに火傷の痕があった。
この館へ来た晩、槙と道三が確かめたところだ。袖で隠れていれば自分でも忘れてしまう。顔が同じでも、体に残っているものまでは同じではない。
清十郎は、その痕を知っているのだろうか。
聞けないまま、紗季は机へ向き直った。朝に書いた手習いの紙が乾いている。線のつながりばかり気にしていた字を、人に読んでもらうつもりでもう一度眺めたが、筆を取る気にはなれなかった。
翌日は雨になった。
廊下の端から庭へ吹き込む雫を、お梅が布で拭いて回った。紗季の部屋も庭側の戸を細く閉め、机を明るい方へ寄せる。槙の手本には同じ音を表すのに違う形の字があり、紗季が尋ねるたび、筆先が紙の上をゆっくり進んだ。
読めない字の先へ目を走らせる癖を直すようにと言われたところで、廊下に人が来た。
「槙殿。少し、お尋ねしたい」
清十郎の声だった。
槙は筆を置き、戸口へ出る。閉じきっていない板戸の向こうで、二人の影が重なった。
「お館には、申し上げました。姫様のことで、確かめたい儀があると」
「何と仰せになりました」
「帰蝶として遇せよ、と。それだけでございます」
紙の端に置いた紗季の手が動かなくなった。
「ならば、お言いつけに従いなされ」
「槙殿は、あの晩もおそばに」
「ここでする話ではございませぬ」
槙の声は低かった。怒鳴ったわけでもないのに、続きが聞こえなくなる。しばらくして一人分の足音が離れ、槙だけが戻ってきた。
紗季は手本から顔を上げた。
「私のこと?」
「姫様は、お気になさらず」
「でも」
槙は筆を持たず、戸口の脇へ座った。
「何か問われても、困ったなら私をお呼びください。お一人でお答えにならずともよいのです」
どうしてそう言われるのか、紗季にも分かった。自分がうまく嘘をつけないからだ。
帰蝶の好きだったもの。昨日まで顔も知らなかった家臣の名。尋ねられるたびに、病で忘れたのだと誰かが答えてくれる。その言葉に隠れていれば暮らせるが、知らないことが減るわけではない。
「分からないって言うのも、駄目なの?」
槙はすぐには答えなかった。
「駄目ではございません。ただ、聞いた者がどう受け取るかまでは、選べませぬ」
紗季は紙の上の字を見た。一つだけ、習っていない形を勝手に書けば、そこだけ浮いてしまう。ここでの自分も、周りからはそんなふうに見えるのかもしれない。
雨は次の朝まで残り、昼を過ぎてようやく雲が切れた。
庭の土は柔らかく、弥四郎はいつもの場所で足を踏み込ませなかった。代わりに、道具を納める建物の端にある板敷きへ紗季を上げる。外へ大きく開く戸を寄せれば、深い軒越しに庭が見渡せた。奥は板壁で仕切られ、物入れへは裏門側に回って別の戸から入る。柱の間には、二人が向かい合って木剣を使えるだけの広さがある。
初めに弥四郎が立つ場所を決め、紗季は柱を背にしないよう言われた。下がる先を自分で塞いではならぬという。
足裏で板を押す感触は土と違い、少しだけ現代の道場に似ていた。だが、足を滑らせれば床の継ぎ目に引っかかるし、裾も気になる。何度か往復してから、弥四郎に木剣の先を直された。
「今日はここまで。腰はどうです」
「痛くありません」
今度は隠さず答えられた。弥四郎は頷き、奥の物入れへ木剣を片づけに行くという。軒下で見ていたお梅には、部屋へ戻る前に水をもらってくるよう頼んだ。
槙は利政に呼ばれ、稽古の途中で作兵衛と表へ戻っていた。弥四郎とお梅がついているからよい、と何度も念を押してからである。
「あと五つだけ、振ってもいいですか。足は動かさずに」
「五つ。それが済んだら木剣を置いて、お待ちなされ」
弥四郎の返事を聞いてから、紗季は構え直した。建物の向こうで戸が開き、板壁を隔てて木の触れ合う音がする。お梅の草履の音も、軒の下を抜けて遠ざかった。
三つ目を振り下ろしたとき、人影が戸口を暗くした。
「篠原様」
紗季は木剣を下げた。清十郎の視線がその先を追い、それから右の袖へ上がる。
「どなたに習われました」
「弥四郎様に」
「それより前でございます」
隣の物入れで、弥四郎が何かを動かしている。呼ぼうと思えば呼べる。それなのに、清十郎の問いに答えないまま人を呼ぶのは、悪いことをしたように思えた。
「前のことは、うまく説明できません」
「字は忘れても、刀の扱いは忘れぬと」
「そういうことも、あると思います」
清十郎は履物を脱いだ。揃えようとはせず、一歩上がり、声を落とす。
「右のお腕を」
紗季は袖口を押さえた。
「なぜですか」
「その痕まで、病で失せますか」
やはり、見ていたのだ。
清十郎の手が腰の刀に触れた。抜くはずがない、と紗季はその手を見つめる。ここは稽古場で、弥四郎も隣にいる。そんな場所で、本当の刀を。
「私は、姫様が亡くなられた晩、薬を持ってこの館へ戻った。戸の外で、槙殿の泣く声を聞いた」
声から、先ほどまでの丁寧さが消えていた。
「息を引き取られたと、確かに聞いたのだ」
「それは……」
「お前は誰だ」
紗季は一歩下がった。清十郎も同じだけ進む。
「どこの者に遣わされた。姫様に何を飲ませた」
「何もしていません」
「顔を似せ、病と称して入り込んだか。お館まで、何を信じさせた」
「違います。私は、帰蝶様には会ったことも――」
言ってから息を止めた。
清十郎の顔が変わった。納得させたかったのではない。けれど、その目にはもう、聞きたかった言葉を得た者の確信があった。
「弥四郎さ――」
刀が鞘を離れた。
木剣を上げたのは、考えたからではなかった。斜めに掲げた木へ刃が当たり、腕ごと押し落とされる。乾いた音とともに木のささくれが頬をかすめた。紗季は柱の方へよろめき、足の裏で床を掴んだ。
清十郎は止まらない。
次は受けられない。そう思ったときには、肩の横へ木剣を引いていた。向かってくる腕を見て、体を戸口側へずらす。刃が袖を裂き、その下の皮膚を熱い線が走った。
「待って!」
自分の声なのに、ひどく細い。
清十郎の体と柱の間が出口だった。そこへ抜けようとすると、右の二の腕を掴まれる。振りほどくために力を込めた分だけ引き戻され、紗季は片膝を床へついた。
木剣を両手で横に差し入れ、相手の腕を押し返す。びくともしない。稽古で重いと思った弥四郎の打ち込みは、どこかで止まっていた。今、自分の肩へ下りてくる力には、その止まるところがない。
「姫様!」
外で水のこぼれる音がした。
清十郎の顔が戸口へ向く。掴む指がわずかに緩んだ隙に、紗季は腕を抜いた。床へ手をつき、柱を回り込む。右腰が痛んだが、どこまで動かしてよいか考える余裕などなかった。
「誰か! 姫様が! 弥四郎様!」
お梅の声が軒を打った。
刀の先が柱の向こうから迫る。紗季は残っていた木剣を前へ突き出したが、払われ、指から離れた。木が床を滑る。拾いに行けば斬られる。
戸口の外にはお梅がいた。濡れた地面に膝をつきながら、なお声を張っている。そちらへ逃げようとして、紗季は足を止めた。清十郎まで連れていってしまう。
代わりに柱の陰へ身を寄せた。たった一本の木の太さが、今は足りない。
「清十郎、刀を捨てろ!」
弥四郎が戸口へ飛び込んできた。長い木剣が、清十郎と紗季の間へ差し入れられる。清十郎が向き直った途端、外から来たもう一人の男が、その背へしがみついた。
刀を握る手が大きく振れた。
「その腕を放すな!」
弥四郎が怒鳴り、手首を押さえ込む。清十郎の膝が落ち、頬が床に打ちつけられた。裏門の方から駆けてきた男がさらに一人、脚へ覆いかぶさる。誰かの踵が空の鞘を蹴り、戸の溝へ当たって跳ねた。
刀がようやく手から離れた。
弥四郎はそれを足で遠ざけ、清十郎の腕を背へ回した。まだ肩を起こそうとする若者を、二人の男が押さえつける。
お梅が紗季のそばへ来た。何か言いながら袖を押さえてくれる。そこで初めて、右の腕から血が流れているのが見えた。
紗季は返事をしようとしたが、歯が小さく鳴るばかりで声にならない。
床へ伏せられた清十郎の手首に、縄が掛かり、弥四郎に連れていかれた。
紗季は、清十郎が連れて行かれる姿を見ている事しか出来なかった。




