七話 お花の稽古
「あ、待って」
指を離した途端、山吹の枝が傾いた。
花へ伸ばした袖が器の口に引っかかり、今度は花入れまで揺れる。向かいから手が添えられなければ、紗季は膝に水を浴びるところだった。
「こちらを先に押さえてくだされ」
お藤は花入れの胴を指した。紗季が両手で包んでから、ようやく自分の手を引く。細い指には、切り口から移ったらしい緑の汁がついていた。
あんなに簡単そうに立っていたのに。
紗季は器の中をのぞいた。口に渡した短い枝から山吹の根元が外れ、水の中で斜めになっている。傾くたび花を起こしていたが、直す場所を間違えていたらしい。
庭の梅が花を落とし、三月に入ったと教えられていた。初めて木剣を握らせてもらった日から、二十日余りが過ぎている。右腰は深くひねらなければ痛まなくなり、稽古の終わりを告げられても、初日のようには食い下がらずに済むようになった。
お梅も一度、弥四郎の許しを得て木剣を持った。振り上げずに構えただけで腕が震え、それ以来、紗季の稽古が終わると、手拭いを渡す前に掌をのぞき込む。
今日はそのお梅が、紗季の右で濡れた板を拭いていた。
「袖も、こちらへ」
「自分で拭くよ」
紗季が片手を離そうとすると、お藤の視線が花入れへ下がる。慌てて両手を戻したところで、お梅が小さく笑った。
花を教えに来たお藤は、槙より少し若く見える女だった。館の花を整える用で時おり呼ばれる人だという。挨拶のときには廊下側で両手をついていたのに、花の枝を扱い始めると、相手が姫でも待ってはくれない。紗季が迷っていると、手を出すより先に、どこを見ているのか尋ねる。
「花ばかり、ご覧になっておりますな」
「きれいなところを、前にしたくて」
「では、こちらに座る方には、どう見えます」
お藤が自分の脇を示した。紗季は膝をずらしかけ、裾を踏んで止まる。庭に面した部屋の小机は、朝の手習いを終えて壁際へ寄せてあり、今はその跡の板敷きに薄い敷物が広げてあった。花入れは紗季の畳とお藤の座の間に置かれている。
お梅が枝を支えてくれたので、紗季は向かいへ回った。
同じ花なのに、葉に隠れて半分しか見えない。正面だと思っていた側では、枝が重なって窮屈そうに見える。
「私の場所からしか、見てませんでした」
「次は、置く場所を決めてから始めましょう」
お藤は器をくるりと回すのでなく、山吹の枝をいったん抜いた。水に浸かる葉を取り、根元を少し切り詰める。刃先が動く間、紗季は器を押さえて待った。剪った枝の青い匂いが、濡れた板から立ちのぼる。
槙は少し離れた戸口に控えていた。紗季が教わっている間は口を挟まず、お藤が置き場所を尋ねてから、庭と反対側の壁際を示す。
「そちらなら、お休みになられる折にも見えましょう」
屏風の端から目を向ければ、朝の光を受けた花が見える位置だった。客を迎える座敷へ飾るものだと思っていた紗季は、思わず槙を見た。
「ここに置いていいの?」
「初めてのお稽古の花でございますから」
お藤は山吹を紗季へ返した。今度は根元を指で確かめ、花入れの口にある短い枝へ当ててみる。花のついた先を動かすより、下をわずかにずらした方が、向きは大きく変わった。
細い柳を添えると、山吹の黄が葉の間から見えた。お藤のものと同じにはならなかったが、手を離しても倒れない。
「このまま、一度離れてご覧なされ」
言われたとおり下がった紗季の袖を、お梅がそっと引いた。裾に落ちた葉がついている。紗季がつまみ取ると、お梅は拭き終えた布を畳み、膝の上で両手を重ねた。
花を習うのは、座って枝を挿すだけではなかった。水を運ぶ人がいて、切り落とした葉を集める人がいる。紗季が器へ手を伸ばすたび、邪魔にならないようお梅の膝が動く。今までは自分の手元に気を取られ、その動きにもろくに気づかなかった。
「お梅、ありがとう。もう水は大丈夫」
顔を見て言うと、お梅は抱えかけた水差しを置き直した。
稽古を終えたお藤は、紗季がもう一度自分で立て直したいと頼むと、使った枝を残してくれた。刃物だけは布にくるんで手元へ戻し、切り直したくなったら槙を呼ぶようにと言う。
槙はお藤を送りがてら、洗い上がった衣を受け取りに行くという。お梅も水を替えてくると告げ、桶と濡れ布を持って立った。
「こぼさないから。ゆっくりでいいよ」
紗季の言葉に、お梅は花入れと袖を順に見たが、今度は何も言わなかった。廊下へ出た足音が、溝を渡るところで少し高く響き、遠ざかる。庭の戸は半分開いており、紗季が呼べば隣の間にも声は届く。それでも、自分の息の音が聞こえるほどの静けさは久しぶりだった。
まず柳を抜き、次に山吹を持ち上げる。
根元を確かめようと枝を回した拍子に、一枚の花びらが指の甲へ貼りついた。薄くて、水を含むと色まで淡くなる。払い落とすつもりだったのに、指が止まった。
こんな色の花が、通学路にも咲いていた。
何という名前だろう、と美羽が聞いた。紗季が答えられずにいると、千尋は「歴史以外も覚えなよ」と笑った。美羽が枝に鼻を近づけ、匂いがしないと言って大げさに息を吸い込む。その真似をして、三人とも何がおかしいのか分からないまま笑い続けた。
あのときも、帰れば母がいた。
花びらの隣へ、小さな水の粒が落ちた。枝から垂れたのかと思い、紗季は指で拭った。もう一粒落ちて初めて、目から出ているのだと分かった。
泣くつもりなどなかった。さっきまで、花が倒れないことを喜んでいたのに。
山吹を水へ戻し、紗季は両手を膝に置いた。音を立てなければ、しばらくは誰も来ない。そのことにほっとした途端、顎から落ちた涙が小袖の上に濃い点を作った。
服を汚して叱られた日のことが浮かんだ。
雨上がり、美羽が水たまりを跳び越えようとして失敗した。笑った紗季も足を滑らせ、助けようとした千尋の袖まで泥だらけになった。三人で家の前まで来て、一緒に謝れば怖くないと門口で押し合っていると、母が買い物袋を提げて帰ってきた。
「そのまま上がらないで。靴下もそこで脱いで」
洗面所へ連れていかれ、泥のついた服を見せられた。
「これ、誰が洗うと思ってるの」
「ごめんなさい」
殊勝な声を出しながら、背後で美羽がまだ笑いを堪えているのが分かって、紗季の肩も揺れた。母はそれを見逃さなかったが、濡れた足を拭くタオルは三人分出してくれた。
あのタオルを畳んで返したのは、千尋だった気がする。
自分は何をしていただろう。もう覚えていない。叱られたことばかりよく覚えていて、その後、母がどれだけ片づけたかは見てもいなかった。
父が交通事故で亡くなったのは、紗季が五歳のときだ。家へ来る大人が増え、知らない人から何度も頭を撫でられた。その間、母の手を引っ張っても、なかなか振り向いてもらえなかったことを覚えている。父がもう帰らないという説明より、母が自分を見てくれないことの方が、そのときは怖かった。
それからは、ずっと二人で暮らしてきた。母は仕事から帰ると、座る前に台所へ向かった。紗季が学校の話を始めると、背中を向けたまま「うん」と答える。聞いていないと思って黙れば、「それで、その子は何て言ったの」と続きが返ってきた。
九歳のとき、剣術の道場へ通いたいと言い出したのも、その背中へ向かってだった。
「駄目。危ないでしょう」
母は包丁を置くより先に答えた。
「先生が教えてくれるんだよ」
「教えてもらったら怪我をしないの?」
「しないように、教えてくれるんだと思う」
弱い答えだと、自分でも分かっていた。それでも諦められず、翌日も、その次の日も頼んだ。道場で稽古を見せてもらったときの、足を止めて向き合う人たちの姿が頭から離れなかった。大きな声だけではない。動く直前の静けさも、自分で知りたかった。
母がようやく話を聞いてくれた晩、紗季はもらってきた案内を食卓へ広げた。母はそこにある月謝の欄へ指を置く。
「八千円。毎月だよ」
「うん」
「ほかに買わなきゃいけない物もあるでしょう」
紗季は案内の下の方を見た。さっきまで得意になって説明していた声が、急に小さくなる。
「……最初は、借りられるって」
母はすぐには返事をしなかった。食卓の端に寄せてあった電気代の紙を裏返し、案内をもう一度、上から読み直した。紗季はその間、頷いてもらえるように背筋を伸ばして待っていた。
「痛いときは、ちゃんと言うこと。強がって隠さないこと」
何度も頷いた。母が最後まで話し終わる前に、その腕にしがみついたと思う。
「まだ、道場の先生と話してからだからね」
そう言う母の顔は困っていた。あのときの紗季には、それが嬉しかった。駄目という顔ではなくなったから。
翌月、母が月謝袋へ千円札を重ねて入れてくれた。八枚あることを、紗季も横から数えた。袋の口を折ると、母はそれを裏返し、名前を確かめてから渡した。
「なくさないでよ」
「分かってる」
早く道場へ行きたくて、礼も言わずに鞄へしまった。
今、その袋をもう一度受け取れるなら、急がずに母の顔を見たい。ありがとうと、八千円を出してくれたことだけではなく、怖くても自分のしたいことを許してくれたのだと分かったうえで、伝えたかった。
紗季は掌を開いた。木剣を握れるまで治った皮膚に、花の水が残っている。痛みを隠さないようにと弥四郎に叱られたばかりなのに、同じことをもっと前に母から言われていた。
情けなくて、少し笑いかけた口元が歪んだ。
母の言うことを何でも聞く娘ではなかった。試験前にもテレビを消せず、「勉強しなさい」と言われると、今やろうと思っていたのに、と腹を立てた。本当は、まだやるつもりなどなかった。
その母も、好きなお笑いの番組が始まると、洗濯物を畳む手を止める。紗季の靴下を片方握ったまま吹き出し、紗季は番組よりその顔がおかしくなって笑った。
「お母さん、靴下」
「ああ、もう。あんたが笑わせるから」
自分が笑ったくせに。そう言い返す声まで、耳の中でははっきり聞こえた。
庭の戸が風で軋んだ。
紗季は顔を上げたが、廊下に人影はない。花入れの水へ目を落とすと、揺れが収まったところに梁の影が映っていた。台所の白い天井ではなかった。
帰りたい。
大きなことなどしなくていい。一緒に夕飯を食べて、食器を運んで、明日の話をしたい。
熱を出した夜には、何度目を開けても母がいた。冷たい布を取り替える手が額に触れ、目を閉じていても、そばへ来たことが分かった。深夜、喉が渇いたと小さく呼んだとき、返事がすぐに来た。
翌朝、黄色い小鉢へよそってくれたお粥には、溶き卵が入っていた。食べたいと言ったのは紗季の方なのに、二口でいらなくなった。母は無理に食べさせず、小鉢を持ったまま、もう少し待とうかと言ってくれた。
米粒が舌でほどける柔らかさ。卵の薄い膜。飲み込んだ後に残る、ほんの少しの塩味。
あのとき残したお粥が、いまは食べたくてたまらない。
鼻を啜る音を止めようと、紗季は袖で口を押さえた。濡れた布が頬に冷たい。母は今も自分を捜しているのだろうか。眠れず、食べられずにいるのではないか。姿を思い浮かべようとして、怖くなり、目を閉じた。
帰れない理由も、元気でいることも、何一つ伝えられない。
ありがとうより先に、大丈夫だよと言ってあげたかった。
廊下で、桶を下ろす音がした。
紗季が袖を離したときには、お梅が戸口に座っていた。すぐに立ち去りかけ、それでは物音を立てると思ったのか、膝を動かさずにいる。
「……入って」
声が掠れた。お梅は水差しを持って入り、花入れの脇に置いたが、紗季の顔は見つめなかった。桶の縁に掛けてあった乾いた布を畳み直し、手の届くところへ滑らせる。
どうしたのかと聞かれれば、何を答えただろう。
母に会いたいと口にした途端、お梅は別の人の顔を思い浮かべるのかもしれない。ここでの帰蝶の母と、自分が知っている母は違う。それを説明することはできなかった。
「もう少し、ここにいて」
「はい」
お梅は廊下へ下がらず、敷物の端へ座った。袖に残っていた葉を一枚ずつ拾い、膝の脇へまとめる。紗季が布で目を押さえる間にも、その手は止まらなかった。
水差しには、先ほどより少ない水が入っていた。重いまま持ち上げてこぼさないよう、お梅が減らしてきたのだと気づく。
紗季は鼻を拭き、濡れた布を折り直した。
「山吹っていうんだね、この花」
「はい。お藤様が、よい枝を選んでお持ちになりました」
「名前、知らなかった」
知っていた帰蝶なら妙だろうかと思ったが、お梅は枝を眺めただけだった。
「わたくしは、字が分かりませぬ」
「私も、筆だと難しいと思う」
そこでまた泣きそうになり、紗季は返事の代わりに花入れを寄せた。お梅が手を伸ばす。けれど、枝には触れず、器の胴を両手で支えて待ってくれた。
今度は根元を見る。お藤に教えられたところへ当て、少しずつ指を離す。
山吹は傾かなかった。
二人で花を壁際へ運び、紗季は屏風の端に座って眺めた。花の向こうに台所は見えない。帰れたわけではないし、目元もまだ熱かった。それでも、お梅を廊下へ帰す言葉を探さずに済むのは、ありがたかった。
「そこからは、どんなふうに見える?」
戸口へ寄ったお梅に尋ねると、少し身をかがめてくれた。
「黄色い花が、二つ見えます」
「こっちは三つ」
紗季がお梅の隣へ移ると、三つ目の花は、確かに葉の陰へ隠れてしまった。二人で器をほんの少し、庭の方へ向け直した。




