六話
剣術の稽古を許されてから五日目の朝、槙は紗季の左手を窓から入る光にかざした。
掌を覆っていた新しい皮膚は、周りよりわずかに赤い。指を一本ずつ曲げ、親指の付け根へ力を入れても、もう傷口は開かなかった。
「痛みは」
「ありません」
答えてから、紗季は机の端に置かれた筆へ手を伸ばした。槙はそれを先に取り、軸を掌へ押し当てる。
「握ってみなされませ」
言われたとおりにすると、突っ張る感じは残るものの、筆が逃げるほどではない。槙は紗季の指先と顔を交互に見た。
「痛ければ、痛いと仰せください。稽古を始めた後で隠される方が困ります」
「本当に、大丈夫」
「先日は大丈夫と申されて、崖から落ちかけました」
それを出されると弱い。紗季が口をつぐむと、庭に面した戸口で、お梅が笑いを堪えるように俯いた。
この五日の間にも、山へは一度だけ上がった。二股の木も白い石も残っていたが、払いのけた落ち葉の下から帰り道は現れなかった。作兵衛に止められる前に斜面から離れたので、次もない、とは言われずに済んでいる。
帰れない日が、一日ずつ増えてゆく。
その数を朝から数えないために、紗季は手習いの紙へ向かった。昨日書いた礼の文を読み直し、墨の濃いところへ指を近づける。利政へ宛てた文は槙がすでに届けてくれた。目の前にあるのは、母へ書きかけたものとは別の、練習のための紙である。
隣には、お梅の「はる」が三つ並んでいた。一つ目は「る」の先が紙の外へ逃げ、二つ目は墨が滲み、三つ目だけがどうにか手本と同じ向きをしている。
「今日は、その先を書いてみる?」
「よろしいのでございますか」
「私も教わってる途中だけど」
お梅は一度、槙の方を見た。近頃は許しを請うというより、仕事の差し支えを確かめる目になっている。槙が頷くと、紗季の左へ膝を進めた。
「春の次は、何がよろしいでしょう」
「春の……花、とか」
紗季には簡単そうな字を選ぶ自信がない。結局、槙に「はな」の手本を書いてもらうことになった。お梅は筆を持つと、背中まで固くする。紗季はこの前、自分が言われたことを思い出した。
「もう少し、手の力を抜いて」
お梅の指が緩みすぎて、筆が傾いた。二人で慌てて支え、紙の端に黒い筋を引く。
「抜きすぎたね」
「姫様の仰せのとおりにしました」
「それ、私のせいって言ってる?」
問い返すと、お梅は目を丸くした。それから、唇を結んだまま頬を緩める。
「半分ほどは」
初めて返された冗談だった。紗季が声を立てると、槙は咎めず、汚れた紙を裏返して空いた場所を探した。
朝の手習いを終えた頃、廊下の先から作兵衛が呼びに来た。
稽古場は、紗季の部屋に面した小庭ではなかった。そこから折れた廊下を進み、裏門へ向かう途中で板敷きを下りる。薪を積んだ小屋と、道具を納める細長い建物の間に、踏み固められた土の一角があった。建物側の軒は深く、戸を開ければ中からも様子が見える。反対側は低い垣で、その向こうに梅の木が一本、白い蕾をほころばせていた。
土の上に、男が立っている。
三十をいくつか過ぎたくらいだろうか。肩幅はあるが、厚いというほどではない。左の眉尻を短い傷が横切り、腰には刀を差していた。足元の筵には、長さの違う木剣が三本置かれている。
「河瀬弥四郎にございます」
男は片膝をつき、紗季へ頭を下げた。作兵衛の話では、普段は若い者の稽古を見る役目も担っているという。
「本日は、お体の具合と、どのように剣をお持ちになるかを見よとの仰せにございます」
言葉は丁寧なのに、眉間の皺は消えない。姫に怪我をさせれば自分の責任になる。頼まれて嬉しい仕事ではないのだろう。
紗季は槙に手伝われ、裾をいつもより短くまとめてもらった。小袖の下で足を開くと、布が膝に絡む。道場では袴だった。似ているようで、動きやすさはまるで違う。
弥四郎が筵から短めの木剣を取り、両手で差し出した。
「まずは、こちらを」
受け取る前に一礼する。いつもの癖だった。
弥四郎の視線がわずかに動いた。
「誰に習われました」
答えを用意していなかった。道場の先生の名を言ったところで、誰にも通じない。流派を聞かれれば、もっと困る。
「……前に、少しだけ」
「帰蝶様が剣を習われたとは、聞いておりませぬが」
紗季は木剣を受け取った。乾いた木肌が掌へ触れ、赤い皮膚のところだけ熱を持つ。
「覚えていないことが多いのです。でも、体は少し、覚えているみたいです」
嘘ではない。ただし、誰の体が覚えているのかは言わなかった。
弥四郎は槙へ一瞥を送った。槙は何も補わず、「無理はさせぬように」とだけ告げる。作兵衛は軒下の柱へ背を預け、お梅は水の入った竹筒と手拭いを抱えて、その隣に座った。
「では、構えてくだされ」
紗季は木剣の柄を握った。
軽い、と最初に思う。だが、竹刀とは重さの集まる場所が違う。防具もない。正面にいる弥四郎の肩から腰まで、布一枚の下に骨があるのが見えてしまう。
右足を半歩出し、腰を落とす。裾が腿へ引っかかったので、歩幅を詰めた。弥四郎は紗季の周りを一度回り、後ろ足を指す。
「踵が浮いておりますな」
「こうしないと、すぐに動けません」
「すぐに動きたいのは、なぜでございます」
思いがけない問いだった。
「相手が来たら、避けるか、打たないと」
「その前に、姫様がどちらへ動くか、相手に教えておいでです」
弥四郎は自分の木剣を持たず、紗季の肩を見た。言われてみれば、前へ出ようとするたび、右肩に力が入っている。
現代の道場でも、早く当てようとすると動きが大きくなる、と注意されたことがある。けれど弥四郎は同じことを、足裏から説明した。浮かせた踵のせいで、土を踏む音まで先に鳴るのだという。
「もう一度」
土へ足を置き直した。板張りの床と違って、小石の一つまで足袋越しに分かる。重心を移すと、右腰の奥が鈍く痛んだ。
顔に出さないよう息を吐いたつもりだったが、弥四郎は見逃さなかった。
「本日は、ここまでに」
「まだ何もしてません」
「構えることも稽古にございます」
「振るだけでもって、お願いしたんです」
言いながら木剣を上げる。弥四郎の手が伸び、柄の上から紗季の動きを止めた。強く掴まれたわけではない。それでも上がらない。
「痛みを隠す者には、振らせられませぬ」
軒下から、槙の溜息が聞こえた。
怒られる。そう思ったのに、槙は何も言わない。お梅も竹筒を抱えたまま、心配そうにこちらを見ている。
ここで大丈夫だと言い張れば、また同じことになる。山の斜面で作兵衛に腕を掴まれたときも、帰りたい気持ちだけを先へ走らせた。
「腰が、少し痛みました」
口にすると、悔しさまで認めたような気がした。
弥四郎はようやく柄から手を離す。
「では、足を動かさず、八度。痛みが戻れば六度でも四度でも終わりにいたします」
「十回は」
「八度にございます」
譲るつもりはないらしい。紗季は木剣を構え直した。
一度目は、振り下ろした先が左へ流れた。二度目は止めようとして肘が固くなる。弥四郎が、刃のない木剣でも先をどこへ収めるか決めて振れ、と注意する。三度目からは、肩で持ち上げず、足裏から腰、腕へ動きをつなぐことだけを考えた。
七度目、木剣が初めて自分の正面へ戻った。
「いまのは?」
尋ねても、弥四郎は褒めなかった。
「もう一度できれば、まぐれではございませぬ」
八度目は、右へ外れた。
紗季が口を尖らせると、作兵衛が咳払いをした。笑ったのだと気づいて睨む。本人は柱の木目を見て、知らぬ顔を決め込んでいる。
稽古を終え、木剣を返そうとしたときだった。
「下がられよ」
弥四郎が突然、自分の木剣を紗季の手元へ軽く打ち込んできた。
考えるより先に、体が動く。右足を引き、木剣を斜めに合わせた。乾いた音が土壁へ跳ね返る。受けただけで手の皮がじんと痺れた。
弥四郎はすぐ剣先を下げた。
「確かに、体はご存じのようで」
その顔から、初めて眉間の皺が消えている。
「いまの、ずるくないですか」
「戦う前に、いま打ちますと申し上げる者は少のうございます」
「今日は戦う日じゃないって言ったの、そっちです」
返すと、軒下で今度こそ作兵衛が笑った。お梅まで手拭いで口元を隠している。
弥四郎もわずかに目を細めたが、すぐ紗季の左手を見た。
「痺れは」
「少し。でも、痛くはありません」
「隠しておりませぬな」
「隠してません」
槙が紗季の前へ来て、開いた掌を確かめる。皮膚は破れていない。それでも今日は終わりだと言い渡され、紗季は渋々、木剣を筵へ戻した。
部屋へ戻る途中、後ろから小さな足音が追いついてきた。お梅が竹筒を抱え直し、紗季の横へ並ぶ。
「姫様は、お強いのでございますね」
「全然。八回振っただけだし、最後も受けただけ」
「わたくしなら、目をつぶってしまいます」
「私も、最初はつぶってたよ」
道場へ通い始めた頃、向かってくる竹刀が怖くて顎を引きすぎ、先生に前を見ろと何度も言われた。そこまで話しかけて、いつ、どこで、と聞かれることに気づく。
「慣れるまではね」
お梅は追及せず、しばらく足元を見て歩いた。溝の上の渡りへ差しかかると、急に顔を上げる。
「あの、わたくしも、木の剣を持ってみてもよろしいでしょうか」
槙が振り返った。
お梅はすぐに肩を縮めたが、言葉までは引っ込めなかった。
「お仕事を終えました後に。ほんの一度だけ」
紗季は答えかけて止まった。自分の許可で使わせてよい物ではない。さっき弥四郎に、稽古の順序を決めるのは誰かと思い知らされたばかりでもある。
「弥四郎さんに聞こう。一緒に」
「姫様までお願いなさらずとも」
「私も、一人で聞くのは怖かったから」
利政へ願い文を出した日のことを言うと、お梅は竹筒の節を親指でなぞった。
「では、字のお稽古を済ませてからにいたします」
槙は先へ向き直った。その横顔は呆れているようにも見えたが、駄目だとは言わなかった。
部屋へ戻ると、朝の紙が机に残っていた。お梅の三つの「はる」と、紙の端を横切る失敗の線。紗季はその隣へ座り、筆を取る。木剣を握った後では、細い軸が頼りなく感じられた。
「手の力を抜くのでございましたね」
お梅が左から言う。
「半分だけね」
二人で笑うと、槙が新しい水を硯の脇へ置いた。
紗季は「はな」の手本を見て、紙の空いたところへ穂先を下ろす。丸く収めるつもりの線は、まだ少し角張った。それでも、失敗した字を捨てずに、その下へもう一つ書いた。
庭の向こうで、梅の枝を渡る風がかすかに鳴っていた。




