五話
「山へは、もう上がらせぬとの仰せでございます」
着替えの袖へ腕を通しかけた紗季は、そのまま槙を振り向いた。
「もう、って。今日だけ?」
槙は襟元を整え、返事をする代わりに帯を取った。屏風の外では、お梅が泥のついた服を畳まずに広げている。紗季は屏風の縁から顔を出した。
「洗っていいよ。でも、ここへ返してね」
お梅の手が止まり、次いで服を大事そうに抱え直すのを見届けてから、紗季は槙へ向き直った。
「私から話します」
「すぐにお目通りがかなうとは限りませぬ」
「待ちます」
山から戻ったばかりの足がだるかった。それでも、明日になれば聞いてもらえるという保証はない。槙が腰へ回す帯を持ち上げ、痣に当たらない位置へずらした。
しばらくして、作兵衛が呼びに来た。
掌に巻かれた布を見ると、言うつもりで用意していた言葉が心もとなくなる。怪我をさせたのは紗季だ。けれど、助けてもらったことを理由に、帰る道を探すのもやめなければならないのだろうか。
槙に続いて廊下へ出る。お梅は部屋に残り、借りた衣や湯の始末をすることになった。
小庭の端で廊下が折れ、溝を跨ぐ短い渡りを過ぎると、作兵衛は裏門へ向かう角を曲がらず、柱の並ぶ先へ進んだ。板の色が途中から薄くなり、継ぎ目に細い光が差している。左手の庭には平らな石が据えてあり、その向こうの棟から男の咳払いが聞こえた。
「あちらは、お客様を通すところでございます」
紗季が覗きかけると、槙が歩みを緩めた。
「今日は、こちらへ」
案内されたのは、廊下の突き当たりを右へ入った小さな座敷だった。入口から奥へ畳が続き、左には庭へ開く明るい縁、右には閉じた戸がある。いちばん奥、絵を描いた屏風を背に、利政が文を読んでいた。
紗季は庭に近い畳へ膝を下ろしかけた。腰を横へ逃がせる場所がよかったのだが、槙の指が袖を押さえる。
「本日のお座は、その一枚、手前に」
示された場所へ座ると、利政との間に畳一枚分ほどの空きができた。槙は紗季の後ろ、戸口寄りへ下がる。作兵衛は入口の脇で待ち、利政が文を畳んでから初めて顔を上げた。
「山の始末を申せ」
紗季が口を開くより早く、作兵衛が答え始める。二股の木を確かめたこと。ほかに人影はなかったこと。そして、斜面で足場が崩れたこと。
「作兵衛さんは悪くないです。私が勝手に」
「今は、作兵衛に聞いておる」
強い声ではなかった。なのに、その先を言えなくなった。
作兵衛は紗季を見ず、土が緩んでいた箇所と、引き戻した後に怪我を確かめたことまで報告した。紗季の言い分を悪く取り繕う様子も、庇って省く様子もない。短い返答が終わると、部屋の外で水音がした。
「帰蝶」
利政の目がこちらへ移った。
「そなたは、何をしたかった」
ようやく自分の番になったのだと分かっても、すぐには話せなかった。黙らされた腹立ちが残っている。呼び名に返事をするのも嫌だった。だが、ここで口を閉ざせば、作兵衛の話だけで決まってしまう。
「落ちたところへ戻れば、何か分かると思いました。だから、確かめたくて……足を置いたら、土が崩れました」
「何か、とは」
「私の家へ帰る道です」
利政は膝に置いた文の端を揃えた。
「見つからなんだのであろう」
「今日、見つからなかっただけです」
また遮られると思ったが、利政は黙っていた。
「作兵衛さんは止めてくれました。私が先に行ったんです。だから、この人を叱らないでください」
「その手が癒えるまでは、山へ出すな」
利政は槙に言った。
「癒えてからも、勝手には行かせぬ」
ずっと禁止する、とは言わなかった。紗季がその隙間へ言葉を差し込もうとすると、利政は今度は先にこちらを見た。
「願いがあるなら、槙に取り次がせよ。人を走らせるのも、暇を取らせるのも、ただでは済まぬ」
返事を待つ目だった。
「……分かりました」
分かったのは、次に頼む場所と手順だけだ。それでも利政はうなずき、作兵衛へ下がるよう告げた。
帰りの廊下で、紗季は槙の歩幅に合わせながら尋ねた。
「あの席は、いつも私の場所ですか」
「今日は、お館様に願いを申し上げるためのお座でございました。お客様があれば、また違います」
「間違えたら、怒られる?」
「お教えいたします。入る前に」
槙は立ち止まり、紗季の裾が片方だけ長くなっているのを直した。
「先ほどは、間に合いませなんだ」
紗季は廊下の節を見つめた。座り方を間違えたのは自分なのに、槙は教えなかったことを気にしている。
「じゃあ、次は聞きます」
次が来ることを、自分で口にしていた。
その日の午後、部屋の明るい側に小さな机が置かれた。
お梅が脚の下へ薄い板を差し込み、ぐらつかないことを確かめる。庭へ向く戸を少し広く開けると、机の右半分まで光が届いた。槙はそこから少し左へ机を寄せ、紗季の右手が紙へ影を落としにくい向きに座らせた。
屏風の奥には畳んだ夜具とリュックがある。隣の間は槙が休む場所だが、日中は衣の出し入れにも使うのだという。お梅は普段、廊下に近い板敷きで用を待ち、呼ばれたらすぐ入れるよう戸を閉めきらない。
「ずっと、そこで待ってるの?」
「ほかの用があれば出ます。そのときは、申し上げます」
お梅は答えながら、水の入った小さな器を硯の横へ置いた。紗季が寝ている間も座っているのかと心配しかけたが、槙が夜は休ませると言ったので、それ以上は尋ねなかった。
「まず、どれほどお書きになるか、拝見いたします」
槙が紙を一枚広げた。裏に薄く墨が透け、端には折り目が残っている。
「使った紙?」
「反故でございます。手習いには、こちらを」
紗季は紙をひっくり返した。文字らしいものが縦に並び、線が上下につながっている。見つけた「山」の字に少し安心したのも束の間、その下は細い糸が絡んだようで、一字の終わりさえ判然としなかった。
「……字は読めます。でも、これは、あんまり」
言い訳に聞こえそうで、最後は小声になった。
槙は紙を戻し、空いた裏へ筆を滑らせた。先に見たものより、ずっとゆっくりした字だった。「はる」と二文字を書き、今度はその隣へ、筆を大きく離さずに同じ言葉を続ける。
「こちらも、同じにございます」
教えられてから見比べると、「る」の丸く折れるところが見えた。
「読めないんじゃなくて、見慣れてないのかも」
「では、お馴れください」
励ましているのか、課題を増やしたのか分からない口調だった。
紗季が筆を持つと、槙はその軸をわずかに起こした。
「少し、握る手をお緩めなさいませ」
親指に入った力を抜く。紙へ触れた毛先は、思うより広く開いた。慌てて引くと最後だけ細くなり、二文字を写すはずが、太さの違う黒い跡を二つ並べてしまった。
消しゴムが欲しい。
思ったところで、自分が学校の机に座るつもりでいることに気づいた。間違えたところを消せば、何もなかったことにして書き直せる。その当たり前が、ここでは通じない。
槙は失敗した字を隠さず、空いている場所を指した。
「墨が多うございました。穂先を整えて、もう一つ」
それから何度か試すうち、細い線も引けるようになった。ところが形を気にすると手が止まり、止まったところだけ墨が溜まる。右手首を回しすぎないよう言われ、今度は肩まで固くなった。
薙刀の柄を握り込んで、先輩に注意されたときに似ている。
あのときは、もう一度、と言えば相手が構えてくれた。いまは紙ばかりが黒くなっていく。紗季が新しい一枚へ手を伸ばすと、お梅が使いかけの紙をそっと近づけた。
「こちらにも、まだ」
下の隅が手のひらほど空いていた。
「そうだね」
紙を持ち直すと、左手の傷が引き攣れた。墨を付けずに筆を動かしていたら、お梅が紙の反対側を押さえてくれる。礼を言おうとして顔を上げたが、お梅の目は筆の先に向いていた。
「お梅も、読める?」
「お名前なら、いくつか。文は、まだ」
「今のは、はる、だって」
教わったばかりの字を指すと、お梅は小さく唇を動かした。
日が庭の向こうへ回るころ、紗季はまだ白い場所に「また山へ行きたいです」と書いた。字の大きさが揃わず、最後の「す」が窮屈に曲がっている。
「これを、あの人に渡してもらえますか」
槙は紙に顔を近づけた。読めなかったのかと不安になったが、問いは別のところから来た。
「いつ、お出かけになりたいので」
「傷が治ってから」
「どなたと」
「作兵衛さん。都合がよければ」
槙は待った。
「……勝手に先へ行かない。それも書けばいい?」
「はい。それから、どなたに差し上げる文かも」
紗季は自分の書いた一行を見た。願いは全部入っているつもりだったのに、相手が返事をするには足りないことだらけだった。
槙が余白に短い手本を書く。父へ願う文なので、仮名を中心に、言葉を選んだものだった。紗季にはまだ読みづらく、一つずつ声にして教わるうち、意味を覚えてから形を追う方が早いと分かってきた。
「一度書けたところは、手本を見ずに、もう一度」
紗季は筆を下ろした。途中までは書けたが、次の字が出てこない。槙の紙へ目をやると、お梅が文鎮の位置をずらし、見えなかったところを見せてくれた。
それから十日ほど、雨が降れば庭の土が黒くなり、晴れれば廊下に衣が干された。
紗季のジャージも一度洗われ、乾いて戻ってきた。紺の布を畳んでリュックの脇へ置くと、あの日の土の匂いが薄くなっていることに気づく。嬉しいはずなのに、袖口をもう一度鼻へ寄せてしまった。
字の稽古は朝の明るいうちに、作法は実際の用事に合わせて教えられた。廊下でお梅に出会ったとき、身を避けようとして互いに同じ方へ動き、二人で立ち往生したこともある。笑ったお梅がすぐ口を押さえたので、紗季は今のは自分も悪い、と先に言った。
ある午後、母への文を書こうとした。
お母さん、の四文字の後が続かなかった。元気だよ、と書けば嘘になる。助けて、と書いても、どこにいるのか説明できない。そもそも、この紙を持って行ってくれる人がいなかった。
窓際で乾かした紙を、自分で小さく折った。お梅が重ねようとした反故からその一枚だけ取り、リュックの内側へしまう。携帯を包んだタオルには触れずに済ませた。
利政への文は、その翌朝に書き上げた。
今度は使い古しではない紙をもらったので、初めの一字を置くまでが長かった。願うこと、傷が治ってからという条件、供の指示に従う約束。槙に習った言葉をなぞりながらも、急がないので必ず返事がほしい、という一節だけは自分から加えた。
「急がぬとは、本当でございますか」
槙に聞かれ、紗季は筆を持ったまま黙った。
本当ではなかった。
「……待ちます、なら」
槙がうなずく。まだ乾かない一節に指を近づけかけ、紗季は引っ込めた。消せないので、もう一枚、初めから書き直すことになった。
午後、利政の前へ通されたとき、紗季は戸口で一度、槙を見た。前と同じ小座敷だったが、今日は作兵衛がおらず、庭に近い側へ座るよう小声で教えられる。槙が預かった文を差し出し、利政が読み終えるまで、紗季は畳の縁を数えて待った。
おそろしく長い時間に感じられた。
「誰が書いた」
「私です。言葉は、槙さんに教わりました」
利政は紙を裏へ返し、また表へ戻した。
「この、返事を待つというのもか」
「そこは、私が」
利政の目が紙から離れる。
「駄目なら、駄目と仰ってください。いつまで待つのか分からないのが、一番困ります」
自分の声が早くなるのを感じ、そこで息を継いだ。
「……お願いいたします」
利政は文を膝へ伏せた。
「足場が乾いてから、作兵衛を付ける。同じ場所までじゃ。勝手に先へ走れば、次はない」
「はい」
嬉しい、と思うより先に、あの石がまだあるだろうかと考えた。枝は雨で流れてしまったかもしれない。帰れる保証は何も増えていない。それでも、もう一度確かめる機会を得た。
「それから」
利政は文を持ち上げた。
「願いを二つ書いておるな」
槙が紗季を見た。清書の最後に付け足した一行は、見せていなかった。
「剣術の稽古を、させていただきたいです」
「姫様」
槙の声が、いつもより近く聞こえた。
「ようやく傷が塞がりましたのに。お相手をする者も、手を出しかねましょう」
左手の布は、昨日取れたばかりだった。紗季は畳へ手を隠さず、まだ薄赤い掌を膝に置く。
「すぐに打ち合いたいのではありません。まず、振るだけでも」
部屋で習うことは、どれも上手にできなかった。誰かが来れば座る場所を尋ね、文を書けば言い回しを直してもらう。剣なら何でもできる、というわけではない。ただ、構えたときの足の置き方と、息を整える感覚は、自分の体が覚えている。
こちらへ来る前から持っていたものを、一つくらい続けたかった。
「なぜ、剣なのじゃ」
利政に問われて、紗季は顔を上げた。
「マムシの娘が、このくらいできなければ、笑い者になります」
槙が息を呑んだ。
言いすぎた。そう思ったとき、利政の口の端が動いた。喉の奥で短い音がしたかと思うと、今度は肩を揺らして笑い出す。
「わしを持ち出すか」
紗季は答えられずにいた。ここでは皆、お館様と呼ぶ。その人を、教科書の外で初めて、歴史の本の呼び名で呼んでしまった。
「槙。もう少し手が丈夫になれば、やらせてみよ。庭の端ならば見ておれる」
槙は何か言いかけ、それでも利政の顔を見て頭を下げた。
「人を付ける。勝手に刃のある物を持つでないぞ」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げるとき、今度は槙に袖を引かれなかった。
部屋へ戻るなり、お梅が立ち上がった。紗季の顔を見て、尋ねる前に少し笑っている。
「お許しが」
「うん。山も、稽古も」
「剣のお話は、わたくしも初めて聞きました」
後ろから槙が言った。紗季は振り向き、片手を帯の前へ揃えた。
「言ったら、止めると思って」
「止めますとも」
きっぱり答えながら、槙は机の端へ出た筆を拾い、硯の横へ戻した。
「こちらの手習いも、疎かになさりませぬように」
紗季はうなずき、机の前へ座った。書き損じの紙を重ねていたお梅に、一枚残して、と頼む。
「何をお書きに」
「今日のお礼。待たせないうちに」
墨を磨り始めると、お梅が紙を押さえる手を止めた。
「『はる』も、後でもう一度、お教えくださいませ」
紗季は机の左側を少し空けた。お梅は槙を見てから、そこへ膝を寄せた。




