四話 山道
障子の下端が白み始めたころ、紗季は鳥の声で目を覚ました。
一羽ではない。近くの軒で甲高く鳴くもの、その奥で短く応じるもの、谷の方からかすかに届くもの。重なり合う声の底に、水を汲む音と薪を割る乾いた響きがある。
目を開けたまま、しばらく天井を見つめた。
薄暗い部屋も、壁際の小さな灯皿も、眠る前と同じ場所にあった。夢から覚めたのではない。分かっていたはずなのに、胸の中で何かがもう一度沈んでいく。
母なら、そろそろ朝食の味噌汁を温めているだろう。いつもなら紗季も洗面所の前で急かされ、片方だけ靴下を履いたまま廊下を走っていた。
起き上がろうとすると、右の腰が鈍く痛んだ。左手の布も少し緩んでいる。紗季が結び目を直そうとしていると、隣の間で衣擦れがした。
「お目覚めでございますか」
槙の声だった。
「はい」
返事をしてから、自分の声が掠れていることに気づく。
槙は湯を入れた浅い器を運び、寝具を畳む前に傷を確かめた。布を解かれると、掌の擦り傷はまだ赤かったが、血は止まっている。水に浸した布が触れ、紗季は指を縮めた。
「山へ参るならば、こちらは濡らさぬようになさいませ」
「行っていいんですか」
思わず身を乗り出す。槙は新しい布を巻く手を休めなかった。
「作兵衛殿が、お館様のお許しをいただきました。ただし、朝餉を済ませてから。供を離れぬこと。日が高くなる前に戻ること」
「行きます」
答えが早すぎたのか、槙は一度だけ紗季の顔を見た。
「まず、お顔を」
差し出された湯で顔を洗う。指の間から落ちる水はすぐに濁り、髪の生え際を拭うと布に薄茶色の筋がついた。歯ブラシはリュックに入っていない。塩を使うのだと教えられ、恐る恐る指先につけると、口の中へ刺すようなしょっぱさが広がった。
身支度には昨夜より時間がかかった。紗季が自分で小袖を着ようとすると、右の襟を先に重ねてしまい、槙が黙って直す。帯は腰の痣を避けながら結ばれた。髪を梳く櫛の歯が絡まるたび、首が後ろへ引かれる。
「もう少し短かったら楽なのに」
「姫様は、髪を切るのがお嫌いでございました」
槙の指が一瞬止まった。
帰蝶の話だと分かるまでに、少し時間がかかった。紗季は鏡を見ないよう膝へ目を落とす。
「私は……切りたいわけじゃないです」
自分でも、誰に向けた訂正なのか分からなかった。
朝餉は、麦の混じった粥と、菜の入った汁だった。湯気の向こうに昨日の弁当を思い出したが、空腹の方が勝った。塩気の薄い粥を口へ運んでいると、板敷きから小さく咳払いが聞こえる。
お梅が、乾いた靴を載せた盆を抱えていた。
「入って」
声を掛けると、お梅は槙をうかがった。許しを得てから膝で進み、昨日と同じ場所へ盆を置く。洗った靴は色が少し明るくなり、側面の傷までくっきり見えた。
「約束、覚えてる?」
「はい」
お梅は緊張した面持ちで片方を手に取った。
紗季は箸を置き、向かいへ座るよう手で示した。お梅は初めこそ遠慮したものの、槙から「見えぬところで間違えるよりよい」と言われ、畳の縁まで寄ってくる。
「輪を二つ作ってから、片方をこっちへ回す。昨日みたいに強く引っ張らなくても大丈夫」
お梅の指は一度、左右を取り違えた。ほどいてやり直し、二度目には形の違う二つの輪ができる。紗季が短い方を引くよう教えると、結び目は靴の中央で止まった。
「できた」
お梅は靴と紗季の顔を交互に見た。
「これで、よろしいのでございますか」
「うん。歩いてほどけなかったら合格」
合格という言葉が通じなかったらしい。お梅の眉がわずかに寄る。
「ちゃんとできてるってこと」
「では、ほどけぬよう、見ております」
言い方があまりに真剣で、紗季は少し笑った。お梅も笑うかと思ったが、結び目をもう一度つまんで確かめている。その横顔は、役目を一つ任された侍女のものだった。
朝餉の後、紗季は屏風の裏に掛けてあったジャージを取りに行った。山を歩くなら、小袖の長い裾より慣れた服の方がいい。槙は難しい顔をしたものの、作兵衛とほかの供以外には見せないことを条件に、上下とも着替えるのを許した。その上から、くすんだ青の小袖を羽織り、腰紐で裾を短くまとめる。
足もとは靴。右は自分で、左はお梅の結んだ紐だった。
庭へ出ると、朝の空気は水のように冷たかった。軒先から落ちた雫が飛び石を濡らし、向かいの棟との間には細い霧が残っている。昨日は人に囲まれて通ったため気づかなかったが、居間の前の廊下は庭を囲んで折れ、その先で土間のある小さな棟へ続いていた。使用人たちは紗季の姿を見るたび手を止め、地面へ目を伏せる。
見られている。
自分ではない人の顔を、誰もが見ている。
紗季は顎を引き、作兵衛の後ろを歩いた。槙が半歩遅れて続き、お梅は水を入れた竹筒と布包みを抱えている。ほかに槍を持つ男が二人。紗季が名前を尋ねても、二人は名乗るより先に頭を下げた。
「そんなにかしこまらなくていいのに」
返事はない。作兵衛が振り返り、声を抑えた。
「姫様がそう仰せでも、家中の者には務めがございます」
分かっていないと思われたのだろう。実際、分かっていない。紗季は謝ろうとしたが、何に対して謝るのか定まらず、口を閉じた。
門を抜けると道はすぐ斜面へ差しかかった。山の土は夜露を含み、草履の男たちは足裏を滑らせるように上っていく。紗季の靴底は土を捉えたものの、腰をかばうと歩幅が狭くなる。後ろからお梅の息づかいが聞こえた。
「荷物、持とうか」
「なりませぬ」
「でも重いでしょ」
「姫様のお手を煩わせれば、槙様に叱られます」
声は小さいのに、返事だけは迷いがない。槙を見ると聞こえていたらしく、ほんの少し眉が動いた。
「では、休みたくなったら言って」
お梅は答えず、竹筒を抱え直した。
木立へ入ると、屋敷の物音が遠のいた。代わりに、濡れた落ち葉を踏む音が足もとで続く。現代の遊歩道にあった柵も、案内板もない。見覚えのある山のはずなのに、枝と枝の隙間からのぞく空まで狭く感じられた。
作兵衛は、紗季の描いた紙を懐から出した。墨の線はところどころ滲んでいたが、黒い雫で示した木と、道の曲がりは読み取れる。
「昨日、見つかったのはこの先にございます」
道を外れ、斜面へ上がる。紗季は手近な幹へ右手をついた。ざらついた樹皮が掌へ食い込み、袖に冷たい水が染みる。
やがて、二股に分かれた木が見えた。
「あれです」
胸が急に速く打ち始める。痛む腰も忘れ、紗季は斜面を横切った。
「お待ちください」
作兵衛の声を背中に受けながら、白い石を探す。苔の間、根の下、土のくぼみ。昨日、顔のすぐそばにあったはずなのに見つからない。しゃがんで落ち葉を払い、指先で土を掘ると、ようやく乳白色の角がのぞいた。
「ここ」
石を掴んで立ち上がる。目の前には木の根と濡れた斜面しかなかった。
あの黒い穴は、地面に開いたのではなかったのかもしれない。足もとが暗くなり、体が沈んだ感覚だけを頼りに、紗季は石の周りを何度も踏んだ。靴底に返るのは固い土の感触ばかりだ。
「美羽!」
斜面の下へ向かって叫ぶ。
「千尋! 聞こえたら返事して!」
山が声を薄く返した。その後に聞こえたのは、驚いた鳥が枝を移る音だった。
もっと強く踏めばいいのか。落ちたときと同じ向きに立てばいいのか。考えつくまま二股の木へ背を向け、白い石の縁へ右足を置く。
「紗季!」
最後に聞いた美羽の声を思い出した瞬間、土が靴の下で崩れた。
体が横へ傾く。木を掴もうと伸ばした左手は布のせいで滑り、足場が消えた。
腕を強く引かれた。
作兵衛が紗季の右手首を握り、もう一方の手で木の幹を抱えている。土の塊だけが斜面を転がり、下の茂みへ落ちていった。
「お放しください」
作兵衛の声は低かった。怒鳴られるより怖かった。
「同じようにすれば、戻れるかもしれなくて」
「同じように落ちれば、今度は首を折りまする」
言い返せなかった。
引き上げられた足を平らな根元へ置く。遅れて駆け寄った槙が紗季の肩を抱き、お梅は竹筒を落としたことにも気づかず、青ざめた顔で立っている。
「ごめんなさい」
誰へともなく言うと、槙の腕に力が加わった。
「お帰りになりたいのは、承知しております」
耳元の声は震えていなかった。
「されど、道が見えぬからと、崖を道にしてはなりませぬ」
紗季は白い石を握ったまま、俯いた。
美羽と千尋なら、危ないからやめろと叫んだだろう。母なら泣いて怒る。ここにいる人たちも、紗季を帰蝶として守れと命じられているから止めたのかもしれない。
それでも、手を離されていたら落ちていた。
「作兵衛さんも、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとうございます」
作兵衛は手首から指を外した。
「お怪我がなければ、それで」
その言葉とは裏腹に、彼の袖には湿った土が広がり、幹を掴んだ掌から血が滲んでいる。紗季は槙から布を一枚もらい、差し出した。作兵衛は固辞しかけたが、紗季が引かなかったため、ようやく受け取った。
それから皆で辺りを調べた。二股の木を中心に斜面を行き来し、黒く変色した土や、紗季以外の足跡、現代から紛れ込んだ物がないかを探す。見つかったのは割れた木の実と、古い縄の切れ端、それに虫の食った落ち葉だけだった。
空が木々の上で明るくなるにつれ、昨日とは違う場所に思えてくる。
帰れる道は、残っていなかった。
紗季は白い石を元のくぼみへ戻した。持って帰れば目印を一つ失う。次に来たとき見つけられるよう、周囲の落ち葉を円く払い、細い枝を三本、石の横へ並べた。
「また来てもいいですか」
作兵衛はすぐには答えず、槙を見た。
「お館様のお許しがあれば」
断られたわけではない。その言葉にすがるように、紗季はうなずいた。
戻る途中、足どりは来たときより重かった。お梅が少し後ろで何度も足もとを見るので、紗季は自分の靴へ目を落とす。
「ほどけてない?」
「はい」
お梅はそこで初めて、朝より柔らかい顔を見せた。
「よくできました」
紗季が言うと、意味を覚えていたのだろう。お梅は竹筒を抱えたまま、今度こそ声を立てずに笑った。
屋敷へ戻るころには、霧が消え、庭石の影が短くなっていた。槙に促されて部屋へ上がると、紗季は土のついた靴を脱いだ。右の紐を自分でほどき、左へ手を伸ばす。
「私が」
お梅が膝をついた。朝に教えたとおり、輪ではなく端を一本引く。結び目はするりとほどけた。
二人の間に靴を置いたまま、紗季はしばらくその紐を見ていた。
「山の道、なかったね」
お梅は何も言わなかった。帰れる、大丈夫、と知らないくせに慰められるより、その沈黙の方が楽だった。
「でも、また探すから」
自分に言い聞かせるように続けると、お梅はほどいた紐を左右揃えて靴の中へ収めた。
「次も、わたくしが結びます」
帰る道のことには触れず、お梅はそう言った。
紗季は少し迷ってから、うん、と答えた。




