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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
美濃

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三話 解けない結び目

「そちらも、お願いいたします」


 槙の視線は、紗季の膝の脇に向いていた。弁当箱の蓋を置こうとして体を傾けた拍子に、ジャージのポケットから黒い角がのぞいている。


 紗季は反射的に手で覆った。


 これまで取り上げられたら、母の言葉を見ることもできなくなる。


「刃物では、ございませぬか」

「違います」


 槙は急かさずに待っていた。その静かな待ち方が、断っても終わらないことを紗季に教えた。


 画面を伏せたままスマートフォンを取り出し、両手で差し出す。槙が受け取っても、明かりはつかなかった。黒い面を裏返し、側面を確かめる指を、紗季は息を詰めて見つめた。


「これは何にお使いで」

「……大事なものを、残してあります」


 槙が顔を上げた。


「家の人の言葉とか。忘れたくないことを」


 それ以上は言えなかった。写真も見せれば、どこから来たのかを尋ねられる。ひとつ答えるために、いくつも説明しなければならない。


 槙はもう一度、光のない面を見た。そこに映る自分の顔を確かめているようでもあったが、紗季には分からない。やがて両手で返してよこした。


「割れ物ならば、お気をつけください」


 受け取る指が、うまく動かなかった。


 ほかに刃物がないかを尋ねられ、紗季は首を横に振って、残るポケットも裏返した。丸まったハンカチを伸ばし、リュックの小さな収納部まで開いて見せる。槙が確認を終えると、出しておいた品をひとつずつ戻した。水筒を右側に入れ、タオルで挟み、スマートフォンは奥の内ポケットへ滑り込ませる。


 弁当だけが膝に残った。


「お召し上がりになりますか」


 槙に聞かれて、紗季は蓋の隙間へ差してあった箸箱を外した。おにぎりは少し潰れていたが、持ち上げると、海苔の下の米はまだ形を保っている。


 ひと口かじる。梅干しの酸っぱさに唾が出た。


 朝から、まともに何も食べていなかった。


 悲しいと食事が喉を通らなくなるものだと思っていたのに、飲み込むと次のひと口が欲しくなった。食べている間だけは帰る方法も、帰蝶のことも考えずに済む。卵焼きを最後に残すいつもの癖まで、そのままだった。


 半分ほど食べたところで、お梅が戻ってきた。


 両手に抱えた盆には、紗季の靴が並んでいる。泥のついていた縁はきれいになり、爪先に残った水が、戸口の明かりを鈍く返していた。


「お履物を」


 言いながら、お梅は盆を置く場所に迷った。畳へ置くわけにもいかず、かといって遠くへ持っていけば、紗季がまた心配すると思ったのかもしれない。槙が入口脇の板敷きを示すと、ほっとした様子でそこへ下ろす。


「ありがとうございます」


 紗季の声に、お梅は小さく頭を下げた。立ち去る前に何か言いかけ、結局、そのまま廊下へ出ようとする。


「あの、どうかした?」


 呼び止められたお梅は、片方の靴へ目をやった。


「紐を、ほどいてしまいまして」


 左の靴紐が、途中から妙に短くなっていた。水を含んだ先が結び目へ巻き込まれ、左右の長さも違う。


「元のようにと思いましたが、締まってしまって」

「いいよ。ほどけるから」


 弁当を置いて靴へ手を伸ばすと、お梅が慌てて盆を近づけた。


 左手は布が巻かれて使いにくい。紗季は右の爪で結び目を探り、紐を一本ずつ引き出した。お梅の肩が次第に上がっていくので、手を止める。


「怒ってないよ」


 お梅はうなずいたが、肩は下りなかった。


 美羽なら、やば、固くしちゃった、と笑うところだ。千尋は横から手を出して、引っ張る方が逆、と言う。紗季は、二人に返すつもりの言葉を飲み込んだ。この子には、何をしてもよい友達として話しかけているわけではないのだと、今さら分かった。


 槙が部屋の外から呼ばれた。湯と着替えの支度について短く答え、お梅に紗季のそばを離れぬよう言い置いて出ていく。


 お梅は背筋を伸ばし、紗季の左側に座り直した。


「何歳なの?」


 紗季が尋ねると、少し考えてから返事があった。


「十三にございます」


 一つ下だった。仕事をしているところばかり見ていたせいで、もっと年上だと思っていた。


「ずっと、ここで働いてるの?」

「去年からでございます。それまでは、家に」

「家、近い?」


 お梅は庭の向こうを指しかけ、手を膝へ戻した。


「下の町に。母も、こちらへ縫い物を納めます」


 その声は、ほかの返事より少しはっきりしていた。


「縫うの、上手なんだ」

「はい」


 すぐに返ってきた答えに、紗季は初めてお梅の顔をゆっくり見た。そばかすのある頬はまだ丸く、目の下に眠そうな影がある。昼間からずっと走り回っていたのかもしれない。


「じゃあ、紐をここ、押さえてくれる?」


 お梅は靴を受け取ろうとした。


「全部じゃなくて。この輪だけ」


 細い指が言われた場所をつまむ。紗季が反対の端を少し戻すと、固まっていた結び目に隙間ができた。


「そう。そのまま」


 紐がするりと抜けた。お梅が小さく息を吐き、その後で慌てて唇を結ぶ。


 紗季は、見なかったふりをして次の輪を作った。


「これは、こうすると引っ張るだけでほどけるの」


 教えながら結び、紐の端を引いてほどいてみせる。お梅は目を細めて指の動きを追った。


「もう一度、よろしゅうございますか」


 二度目は、お梅の方が紐を動かした。輪を押さえる力が強すぎ、紗季が笑いそうになると、その気配に気づいたのか、お梅も少しだけ口もとを緩めた。


 廊下で足音がして、二人とも手を止める。


 作兵衛だった。


「山から戻りました」


 紗季は靴を置いた。


「友達は」


 作兵衛は、首を横に振った。


「お姿は見えませぬ。荷のあった辺りと道筋を確かめましたが」


 見えなかった。それだけだ。


 見つからなかったことを、もう帰れないという意味にしてはいけない。


 紗季は畳の縁まで進んだ。


「私が落ちてたところは、道より上です。二つに分かれた木があって、下に白い石があって」

「明るくなってから、改めて」

「場所を描きます。何か、紙をください」


 作兵衛は戸口へ戻ってきた槙と目を合わせた。


 少し待たされて、槙が小さな紙と硯を運んできた。低い台に置くと、手慣れた動きで水を足し、墨をする。紗季には、そのゆっくりした往復がもどかしかった。鉛筆なら、もう描き終えている。


 差し出された筆を持つと、毛先が思ったより柔らかい。最初の線が太くなり、慌てて持ち上げると黒い雫が紙に落ちた。


「そこが、木のあるところです」


 失敗をそう言い換え、斜面と道を描き足した。絵の上下だけでは向きが分からない。紗季が説明するたび、作兵衛は山道の曲がり方や、落ちていた場所から川が見えたかどうかを聞いた。


 実際に歩いた人の質問だった。


 自分にも曖昧なところがあると気づき、紗季は筆を止めた。見上げた枝の形なら思い出せるのに、道のどちら側へ何歩下りたかは、もう自信がない。


「連れていってくれたら、分かります」


 作兵衛は紙を見たまま答えた。


「お館様へ、お伝えいたします」


 連れていくとは言わなかった。それでも、紙が乾くまで待ち、大切そうに持っていくのを見て、紗季は引き止める言葉をなくした。


 帰りたいと言うだけだった自分の願いが、初めて誰かの手に渡った気がした。


 日が山の陰へ回ると、庭の湿った土は見分けにくくなった。廊下を渡ってくる風に、紗季は肩をすくめる。


 槙が屏風の向こうへ着替えを運び、お梅は足もとへ湯の入った盥を置いた。布で体を拭いてから着替えるのだという。紗季は一人で済ませたいと頼み、二人には屏風のこちら側で待ってもらった。


 汗と土を拭うと、気持ちが少し落ち着いた。ジャージを着直そうとして、袖口の湿り気に手が止まる。昼間は気にならなかった汚れが、薄暗い部屋ではなおさら冷たく感じられた。


 そばに置かれた小袖は、淡い黄の地に、小さな白い花が散っていた。


「これ、誰のですか」


 屏風越しに聞くと、槙の返事まで少し間があった。


「姫様のために、仕立てたものでございます」


 紗季は袖から指を引いた。


 帰蝶が着るはずの服。


 よく見ると、布にはまだ折り目が残っている。あの子が生きていたころに、色や柄を選んだ人がいる。着た姿を楽しみにしていた人も。


「まだ、お袖を通されてはおりませぬ」


 槙の声が続いた。


 それは、紗季のための説明だったのだろう。でも、着るはずの人が着られなかったという事実を聞くと、かえって手を出しにくくなった。


「これを着ないと、駄目ですか」


「ほかのものを、お持ちいたしましょうか」


 責める調子ではなかった。それなのに、紗季は返事をためらった。着替えを選んでも、着る人の名前を選び直せるわけではない。


「……これで、いいです。着方だけ教えてください」


 槙が屏風の端から入ってきた。紗季の顔を見て何か言いかけたが、言葉にはせず、まず傷に布が引っかからないよう袖口を広げる。


 腕を通し、左右の襟を重ねるところまでは、道場で着る稽古着に少し似ていた。けれど長い裾の始末は分からない。足を開くたびに崩れ、直そうとすると今度は肩がずれた。


「急がずとも。足を、もう少しお寄せください」


 槙が後ろから布を整える。細い帯が腰を回り、紗季は打った場所に触れられないか身を固くした。


「こちらは、緩めておきます」


 何も言わなくても気づいてくれた。そのことに礼を言おうとして、紗季は別の問いを口にした。


「槙さんは、嫌じゃないんですか」


 帯を結ぶ手が止まる。


「私が、これ着るの」


 顔が似ているだけの子が、育ててきた娘の服を着ている。それを目の前で手伝うのは、どんな気持ちなのだろう。


 槙は結び目へ視線を落とし、布の端を揃えた。


「お寒そうにしておられるのを、見てはおれませぬ」


 紗季はうなずいた。


 嫌ではない、という返事ではなかった。けれど、自分が寒がっているのを見ていたことは分かった。


 脱いだ服をお梅に渡そうとして、紗季は思い直した。洗うと言って持っていかれたら、明日の朝すぐには着られないかもしれない。


「今夜は、ここに置いてもいい?」


 お梅は槙を見た。槙が許すと、衣を掛ける場所を空けてくれる。


 濡れた靴は廊下の内側、ジャージは屏風の裏。どこに何があるのかを、一つずつ確かめた。


 やがて、灯りが運び込まれた。


 低い台の上の皿に、小さな火が揺れている。紗季は、これから部屋全体が明るくなるのを待った。けれど、お梅が戸を閉めても、明かりはその周りに留まったままだった。天井は暗く、隅に置いたリュックの形も、目を凝らさなければ分からない。


 夜はまだ、始まったばかりなのだ。


 紗季は自分で弁当箱を拭いて蓋をした。残してあった卵焼きまで食べたのに、箱は重く感じた。お梅が小さな膳に載せて返してくれた箸箱と一緒に、リュックへ納める。


「帰蝶様」


 呼ばれても顔を上げなかった。


「お休みの支度を」


 お梅の声が少し大きくなる。紗季はリュックの口を閉じながら、分かっている、と心の中で答えた。自分へ言っていることくらい、もう分かっている。


 だからこそ、返事をしたくなかった。


「帰蝶様、お寒くは」

「その名前で、呼ばないで」


 思っていたより強い声が出た。


 お梅の手から、畳もうとしていた布が落ちた。


「申し訳ございませぬ」


 頭を下げられると、紗季はすぐには言い直せなかった。謝ってほしかった相手は、この子ではない。


 けれどお梅は、もう一度謝った。


「何と、お呼びすれば」


 紗季、と答えかけて口を閉じた。


 その名前で呼んでくれる人が欲しい。でも、道三が決めた呼び名を変えさせたら、叱られるのは誰なのか。昼間、槙に声を掛けられただけで姿勢を正したお梅を思い出す。


 十三歳の子に、自分の代わりに逆らわせようとしている。


「ごめん。お梅が悪いんじゃない」


 お梅は伏せていた顔を少し上げた。


「返事、遅くなるかもしれないけど。聞こえてないわけじゃないから」


 うまく説明できなかった。それでも、お梅はしばらく考え、小さくうなずいてくれた。


 槙が敷いた夜具へ入っても、紗季はすぐには横にならなかった。槙は隣の間で休み、用があれば声を掛けるようにと言う。お梅は戸の近くに膝をつき、明かりをどうするか尋ねた。


「少し、残しておいて」


 お梅は皿を部屋の中央から壁際へ移した。袖が火に近づかないよう押さえる手つきは、靴紐を結ぶときよりずっと確かだった。


 戸が閉まる音がして、初めて一人になった。


 紗季はリュックを引き寄せ、スマートフォンを取り出した。画面の白さに、思わず目を細める。通信は戻っていない。母へ送ろうとした文章は、まだ届いていなかった。


 もう一度送信しようとして、指を止めた。


 充電する場所がない。何度開いても電波は入らず、その間にも電池は減っていく。この明るさを好きなだけ使えるわけではなかった。


 メモを開き、自分の名前を入力した。


 森下紗季。


 十四歳。


 そこまで書いて、続きが出なくなる。帰蝶ではない、と打ちかけた指を戻し、代わりに今日の出来事を短く残した。山の木、白い石。作兵衛に渡した図。左手の傷。槙と、お梅の名前。


 最後に、明日、山へ行けるかもう一度頼む、と加えた。


 電源を切るまでに、ずいぶん時間がかかった。黒くなった面を確かめ、タオルで包んで内ポケットへ戻す。


 横になると、廊下の遠くで誰かが咳をした。板を踏む音、水を移す音。知っている音が一つもないのではなかった。ただ、どこで誰が立てているのか分からないだけだ。


 紗季は寝返りを打とうとして腰をかばい、また仰向けになった。


 しばらくして、戸の外から小さな声がした。


「……お目覚めでございますか」


 紗季は顔を向けた。


「うん」


「お履物、乾くよう、少し向きを変えておきました」


 お梅だった。


「朝には、もう少し乾くかと」


「ありがとう」


 そのまま足音が遠ざかりかけたので、紗季は肘をついて起き上がった。


「お梅」


 足音が止まる。


「紐、明日は自分で結べそう?」


 戸の向こうで、ためらう気配がした。


「もう一度だけ、お教えいただければ」


「いいよ」


 今度の返事は、すぐに出た。

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